鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮
このページは、主に鳥甲岳(とりかぶとだけ、769m)、鳥甲摩利支天宮(とりかぶとまりしてんぐう)、鳥甲の稲荷(とりかぶとのいなり)、それに鳥甲摩利支天宮と関係ある竹生島流棒術(ちくぶじまりゅうぼうじゅつなどを紹介しています。なお、先の事柄は、全て大村ケーブルテレビにて、2011年8月25日、26日に「歴史の散歩道 鳥甲岳」の番組(約15分間)で放送されました。この番組用の資料や原稿、映像収録時の案内と説明は、『福重ホームページ』管理人の私がおこないました。なお、下記の概要紹介項目は、大村ケーブルテレビの『(2011年)ケーブル・プラス8月号』より引用・参照して書いています。
概要紹介
鳥甲岳(とりかぶとだけ、769m。右側写真参照)、この妙な形の山、皆さん見たことありませんか? これは、黒木町から見た鳥甲岳の写真です。鳥甲岳は、大村市中岳町南川内と黒木町の境付近にある山で、”鶏のとさか”に似ていることから名付けられたと言われています。
山頂近くには鳥甲摩利支天宮(とりかぶとまりしてんぐう)が、鎮座しています。摩利支天は、武士や勝利の守護神です。(大村)郷村記 には、大村純忠の三男・大村純直が剣術を修業した地と記されています。また、大村純直が三尺の太刀を奉納 し、その後その太刀が鳥甲摩利支天宮の御神体として扱われたとも記されています。そのことから、現在も、大きな岩の下にある石祠(いしのほ こら)には、模造の刀剣類が10本ほど奉納されています。 山頂尾根に鳥甲摩利支天宮があるので行き来も大変なため、南川内の集落近くで拝礼ができるようにと、数十年前に石碑が建てられました。そこでは毎年 4月に例祭が行われ、竹生島流棒術の奉納も行われています。
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鳥甲岳(769m、大村市黒木町より遠望)
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鳥甲岳の独特な山容と頂上の場所について
鳥甲岳は、大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺にあるや山です。
先の概要紹介にも書いていますが、鳥甲岳の山頂は標高769mで、名前の由来は鶏の鶏冠(とさか)に似ているからです。ただし、このような独特な山容は、周囲の山麓のどこからでも見えると言うものではありません。このような形に見える場所は、どちらかと言いますと限られています。
大村市街地から車で走行すると国道444号線から郡川沿いを登り、萱瀬ダム上流側にある黒木小学校付近から県道252号線に入ります。さらに郡川砂防公園などを右に見ながら郡川上流域へ向かいます。そして、経ヶ岳(1076m)や多良岳(996m)の登山口(長崎県営バス終点)に当たる所から約150m〜約200m手前側周辺で、この山の形が見れます。(右側上から1番目写真の撮影地点も同じ)
逆に、この山を挟んで反対側に当たる中岳町南川内側から、このような山容に見れるかといいますと、実は見れません。もっと、なだらかな感じに見えます。「同じ山なのに、こんなにも違って見えるのか」と思うほどです。それ以外の周辺からも黒木町からのような形には見えないのです。
ただし、右側上から1番目写真中央最上部に写っている頂点が山頂かと言いますと、実はそうではなく、この地点からさらに右側の奥(写真には写っていない)へ目測ながら約280m先の所に三角点のある頂上があります。上野の調べでは、右側写真に写っている最高所は標高(765m)で鳥甲岳頂上(769m)と、その標高差わずか4mです。私は、当初勘違いして写真に写っている最高所が、鳥甲岳の頂上と思っていました。
しかし、大村ケーブルテレビさんとの(2011年8月11日)収録時、この山容や頂上について、ちょっとした議論をしました。そして望遠レンズ撮影含めた映像の放送内容を改めて見て、写真に写っている最高所の右側奥の方向に本当の山頂があるのではないかと分かりました。私事ながら一人勝手な先入観と言うのは困ったもので、この放送収録がなければ、ずっと当初の通りに私は思っていたかもしれません。
あと、なぜ長々と、この件を書いているかと言いますと、後の項目で書く予定の江戸時代の(大村)郷村記を書いた方(役人=侍)も同様の間違いをされた可能性があるからです。少しだけ(大村)郷村記と、その現代語訳を紹介しますと、鳥甲山の紹介項目の見出しの補足として「鶏冠山共云=鶏冠山(とさかやま)とも言う」と書いてあります。つまり、この記述は、山容が、鶏の鶏冠(とさか)に見える所=右側上から1番目写真の最高所を書き表していると思えるからです。
いずれにしましても登山するなら、中岳町南川内側からなら林道脇の鳥甲摩利支天宮の二の鳥居から、黒木町側からならば郡川砂防公園近くから登り始めます。そして、標高745m位にある三叉路の登山標識を中心に西方向にある三角点のある頂上、逆に東方向にある鳥甲摩利支天宮まで、ずっと尾根道が800m位続いています。一部狭い所もありますが、そこを除けば落ち葉をサクサク踏みしめて歩ける快適な広い尾根道です。
この山からの周囲の眺望は、あまり良くありませんが、一か所だけ見える所があります。そこからは黒木町の集落の一部、経ヶ岳(1076m)と、そこから郡岳方面に伸びる山の稜線が見えます。鳥甲岳頂上の三角点のある所は、小さな土俵程度の広さがありますが、周囲の眺めは木が邪魔をして見えない状況です。ここまで「鳥甲岳の独特な山容と頂上の場所について」書いてきましたが、現在けっこう登山客も多い山と言う点も書き加えておきます。
大村郷村記に書いてある鳥甲岳
大村郷村記(藤野保編)には、鳥甲山(鳥甲岳)のことが、第二巻、240ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。なお、下記中段に大村純直(おおむらすみなお)が、鳥甲摩利支天宮に納めた太刀の説明がありますが、その太刀の図(絵)は、右側画像の通り(大村郷村記より複写)です。(*は、後で注釈ありの文字)
大
村
純
直
が
奉
納
し
た
太
刀
・
大
村
郷
村
記
の
絵
よ
り
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「 鳥甲山之事 鶏冠山共云
此鳥甲山は南の河内へあり、高サ村並より貳町程、麓の方山入口に石燈籠及野石の標石あり、此處より絶頂まて八町程、左右山にて、坂路至て険し、頂上に長サ七間、横弐間程の真平地あり、常に草木生せす、恰も庭面の如し、三方深谷なり、土人曰、此處往昔大村右馬之助純直 (純直ハ丹後守純忠三男なり、元和四戊午年七月卒、法名發性院日然大居士) 剣術を学はれし其稽古場の蹟なりと、此平地の北の方より木の根を攀岩角を掴て、巌石を下る事拾五間程にして大岩あり、
下は数拾丈の深谷なり、其巌間に太刀の折あり、長サ三尺計り重(子)至て厚し、今腐朽して形のみ存す (此太刀奮ハ長き太刀と見へたり。今残りし處は*より先なり、往古ハこの折れ三本ありしと云、中興紛失して今壱本あり、土人曰、先年盗賊此刀の折れを奪取りて去らんとせしに、途中にて俄に腹痛發り、大いに難儀しけれは、其恐懼して大木朽節の内に捨去りしを、里人見付、奮の岩間に納置となり) 是右馬之助納め置きし太刀と言伝、今此太刀を神体として摩利支天と崇め、木太刀・棒等を供へ祭之、里人瘧を憂る時は、此太刀に立願し、此刀錆を呑ハ忽平癒すと云ふ、刀身図の如し、
又大岩の下に稲荷の神あり、是往昔より三城古城蹟に住所の白狐を祀ると言伝、先年ハ里人度々此白狐の姿を見ると云、此岳南の河内より登れは八町の坂道あるのみにて、格別険阻ならす、黒木の方往還より見れハ無双の嶮山にて、山形爪を立たるか如し、此邊四方の山々数千株の楓樹あり、秋に至て甚奇観なり、然れ共今頂上に樹木茂りて風景を失ふ 可借 寛永二年当邑の百姓仁助と云者、右鳥甲山の岩間にて野太刀一振を得、同村横目源太左衛門是を評定所び納む、右野太刀長サ三尺余、中心壱尺五寸、然共腐朽して用に立すと云 」
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の「」の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。<>内は大村郷村記で通常1行のところが2行になって書いてある文章のところです。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。 ただし、*印の漢字は刀のハバキ=「(国語辞典の大辞泉より)ハバキ金=刀剣などの刀身が鍔(つば)に接する部分にはめる鞘口(さやぐち)形の金具。刀身が鞘から抜け落ちないようにするためのもの。はばき。」 この漢字について、下記には単にハバキと書き注釈は付けていませんので、ご了承願います。
「 鳥甲山のこと 鶏冠山とも言う
この鳥甲山は南川内にある。高さは村から218mほどである。山麓の方の山入口(登山口)に石灯籠(いしどうろう)及び自然石の道標(みちしるべ)がある。この所より山頂まで872mほど。左右は山で、坂道は険しい。頂上に長さ約13m、横約4mの真っ平らな土地がある。常に草木も生えていない。あたかも庭の地面のようだ。(この平地の周囲)三方面は深い谷である。村人が言うには、この所に大昔、大村右馬之助純直(おおむら うまのすけ すみなお) <純直は丹後守大村純忠の三男である。1618年7月死去。戒名は發性院日然大居士である>
剣術を学ばれ、(この真っ平らな所は)その稽古場の跡で、この平らな所から岩の角を掴むように木の根が生えていて、その岩石を27mほど下ると大きな岩がある。その下は数丈(10丈=約30m)の深い谷である。その岩の間に太刀の折れたものがある。(太刀の)長さ約91cmで重く分厚い。現在は腐朽してしまって形のみが残っている。
<この太刀は良い状態の時には長い太刀だったと見える。今残っているのはハバキより先である。昔は3本に折れた(太刀が)あったと言う。途中、紛失して今は1本ある。村人が言うには先年、盗賊(泥棒)がこの折れた太刀を持ち去ろうとした時に途中で急に腹痛が起こり、大いに苦しみ、そのためかしこまり大木の朽ちた節穴へ捨て去ったのを村人が見つけ、あの大岩の間に納めた>
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鳥甲岳(奥左側:頂上、奥右端側:鳥甲摩利支天宮)
(大村市中岳町の南川内から遠望)
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鳥甲摩利支天宮の境内(手前が鳥居、奥が石碑)
(山の尾根に奥行き18m、横幅7mの平地がある)
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これが(大村)右馬之助が納めた太刀と言う。今、この太刀を御神体として、摩利支天と崇め、木製の太刀・棒などをお供えして祭っている。村人が病気になった時には、この太刀に願いを立て(祈願し)、この太刀の錆び(さび)飲むと、いい具合になって治ると言う。刀身は図(右側上から2番目の画像参照)の通りである。
また、大きな岩の下には稲荷の神(お稲荷様)がある。これは昔より三城の古城にある白狐を祀っているとの言い伝えがある。先年、度々村人もこの白狐を見ると言っている。この山は南川内から登れば約872mの坂道があるのみで、格別に険しいものではない。
黒木の道路から見れば二つとないような険しい山で、山の形(山容)は爪(つめ)を立てたようである。この周辺四方の山々には数千株(本)の楓樹(ふうじゅ=カエデの木)がある。秋になれば大変奇観(ほかでは見られないような風景)となる。しかし、今は頂上に木が繁って眺望をなくしてしまっている。残念なことだ。
1625年、当村(萱瀬村)の百姓(農業)の仁助と言う者が右の鳥甲山の岩の間に太刀一振りを得て、同村(萱瀬村)の評定所に納めた。右の太刀は長さ91cmあまりである。中心は45cmである。しかし、腐朽しているので役に立たないと言う。 」
補足:
上記の(大村)郷村記の補足を書く前に、右側の上から3番目写真をご覧願います。あと先の項目「鳥甲岳の独特な山容と頂上の場所について」で、この鳥甲岳の形を黒木町から見た風景として写真をもとに説明しました。今回の中岳町南川内から撮った写真は、明らかに同じ鳥甲岳なのに山容が全く違うことがお分かり頂けると思います。まるで同じ山ではないようにも見えます。
この南川内の棚田(段々畑)の下側付近から鳥甲岳を仰ぎ見ると鳥甲岳の稜線(尾根伝い)が良く分かります。写真奥の左側の高く見える所が山頂(769m)です。逆に写真奥右端が標高750m位で鳥甲摩利支天宮のある所です。ここから、やや右側の所に南河内から登った登山道と尾根道が交差する三叉路みたいな所に道標があります。一部を除けば山の稜線(尾根道)は、全体なだらかな感じに見えます。
(大村)郷村記に戻りますが、当時の『郷村記 萱瀬村』の項で山について書いてあるのは、経ヶ岳(1,076m)と鳥甲山(鳥甲岳)の二山だけです。経ヶ岳は大村藩領で最高峰(県境を接している関係上、佐賀県では県内一の最高所でもある)ですから、ある面(大村)郷村記に記述しても当然のことと思われます。しかし、なぜ他にも高い山が萱瀬村にはあったのにも関わらず鳥甲山が(大村)郷村記に書いてあるのでしょうか。
それは、大村純忠と摩利支天宮との関係(当初、純忠は摩利支天宮を拝んでいたが、キリシタン改宗後に破壊した。これはルイス・フロイスの記録にある)とか、その三男の大村純直が剣術の修業をして太刀を奉納したとか、様々な事柄で大村家と関係が深かった山なので記述されたのだと思われます。あと、鳥甲摩利支天宮や稲荷があるので、他の山に比べ当時から”信仰の山”としても存在感があったのかもしれません。この件は、次の項目から概略書く予定です。
鳥甲摩利支天宮
まず、摩利支天について国語辞典の大辞泉には、次の「」内のことが書いてあります。「摩利支天=<(梵)Marciの音写。陽炎(かげろう)の意>陽炎を神格化した女神。摩利支天経に説かれる。常に身を隠し、護身・得財・勝利などをつかさどる。日本では武士の守護神とされた。> さらに分かりやすく言えば”武士の神様”、”戦の神様”、”勝利の神様”などとも呼ばれています。
鳥甲摩利支天宮(とりかぶとまりしてんぐう)は、先に書きました(大村)郷村記が編纂された江戸時代と現在も基本的には変わりません。ただ、鳥居や石碑など違っている点もありますので若干補足して事実関係のみを先に箇条書きで紹介します。本来なら本宮から先に書くべきですが、大村市中岳町南川内から登山した場合の方が、より順路としても分かりやすいと思われますので、その順番通りにしていきます。この項目は、あくまでも私が調べた(2011年8月現在)範囲内と言う点も、ご了承願います。
1,一の鳥居(大村市内で最も高さのある大きな緑色の鉄製の鳥居、南川内の標高490m地点にある)
2,二の鳥居(久良原林道脇で標高530m地点にある鉄製の鳥居、事実上ここが南川内から鳥甲岳への登山口である)
3,三の鳥居(標高750m地点にある鉄製の鳥居、境内の入口付近にある)
4,鳥甲摩利支天宮の境内(奥行き約18m、横幅約7mの真っ平らな所。右側上から4番目写真参照)
5,境内にある三つの石碑(鳥甲摩利支天宮と日露戦争の石碑など、右側上から5番目の写真参照、詳細説明は後で記述)
6,本宮(大きな岩の間にある、右側上から6番目の写真参照、詳細説明は後で記述)
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鳥甲摩利支天宮の石碑(左側)
日露戦争願解記念碑(右端側)
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鳥甲摩利支天宮の本宮
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上記、1,〜6,の項目で特に補足説明が必要なのは、5,と6,と思っています。この二つの事項については、下記を参照願います。なお、本宮近くに「若宮大明神」と彫られた石碑もあり、これも私の推測ながら鳥甲摩利支天宮と関係あるように思えますが、詳細調べきれなかったので上記には紹介していません。
5,境内にある三つの石碑は、右側5番目の写真を参照願います。左側の大きな石碑の表面碑文が「鳥甲摩利支天宮」と彫ってあります。建立年のヒントは、石碑裏側の碑文にあるのですが、「昭和御天皇大典記念建・・」と3名の建立者名があります。これは昭和天皇即位記念の建立です。この即位の礼は、1928年(昭和3年)11月10日に挙行されましたので、この頃に石碑は建立されたと思われます。
同じ写真右端側にある石碑(頭部が将棋の駒に似ている)が、「明治三十七八年 日露戦役解願記念(にちろせんえき がんほどき きねん)」、「明治三十九年年十一月五日建」と建立者の「荒瀬郷有志者」が彫られた記念碑です。<注:前後の「」内の文字で「三十」は、いずれも省略文字である。日露戦役=日露戦争、明治37〜38 年=1904〜1905年、後の明治39年=1906年のことである> あと、この石碑の後ろ側(屋根が丸く、胴体部が丸い筒状)の石碑は、「奉献」の文字と1名の建立者名が彫ってあり私は仮称で「奉献碑」と呼んでいます。
先に書きました解願記念(がんほどき きねん)とは、私の解釈ながら明治時代の萱瀬村荒瀬郷の方々が、戦争前あるいは戦争中に「(”戦と勝利の神様”である)摩利支天宮様、どうか日本が勝ちますように」との願いを込めて祈った結果、勝利したので、その後「摩利支天宮様、願いが叶いましたので感謝し、ここに願いを解き記念碑を建立します」と言う意味と思われます。
6,本宮(右側上から6番目写真参照)のある岩について、周囲の木や土で隠れた面積も相当あるので実際の大きさは正確には不明ながら上下の長さ約15m、横幅約5m以上はあろうかと思えます。この大岩の間に丁度家の”軒(のき)”みたいになった岩の出っ張り下部に本宮はあります。現在は、石祠(せきし)や模造の刀剣類が10本ほど奉納されています。
あと、5,で説明しました「鳥甲摩利支天宮」の石碑と、6,の本宮との関係です。普通に考えれば本宮から数十メートルもない所(境内)に新たな石碑があるのは、他にはあまりないような気がします。しかし、本宮のある場所は、一人立てば他の人はお参りできないような狭い所にあります。それで、私の推測ながら当時の南川内郷や萱瀬村の方々などが大勢で参詣登山された時に、広くて安全な境内の場所で一緒に礼拝される場合に必要だったのではとも考えました。
鳥甲の稲荷
鳥甲の稲荷(とりかぶとのいなり)について、先の(大村)郷村記や、その現代語訳にも書いていますが、鳥甲摩利支天宮の本宮下部にあります。この名称についてですが、(大村)郷村記には「稲荷の神」と記述してありますが、他の稲荷と区別して分かりやすくする意味で、今回、”鳥甲の稲荷”と書いています。ここには、背丈10cm位の陶器製の白狐と、高さ30cm位の小さな鳥居があります。この稲荷がある岩は、鳥甲摩利支天宮の本宮がある大きな岩の下部に位置し、さらに下側方向は谷になっています。
あと、この稲荷の由緒についてですが、先の(大村)郷村記の現代語訳に、「(前略)大きな岩の下には稲荷の神(お稲荷様)がある。これは昔より三城の古城にある白狐を祀っているとの言い伝えがある。先年、度々村人もこの白狐を見ると言っている。(後略)」と書いています。また、この記述には鳥甲の稲荷が、いつ頃に建立されたか不明です。
そこで、推定した建立年代の幅がかなり広くなりますが、「三城の古城にある白狐」と書いてある以上、大村純忠が三城城を築城した1564年以降から(大村)郷村記が編纂された江戸時代後期前までに、ここに出来たのだと思いました。鳥甲の稲荷について、他の関係書籍類に何か書いていないか探してみたのですが、2011年9月現在で調べきれませんでした。
ここからは私の感想や補足ながら、いくら三城城に祀ってあった白狐と関係あるとしても、「なぜ、こんな山奥の、しかも岩場の下にあるのかなあ」と言う印象を持ちました。それで、改めて国語辞典の大辞泉を参照し稲荷や稲荷信仰を調べると、次の「」内のことが解説されていました。「稲荷=1 五穀をつかさどる食物の神、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)のこと。また、倉稲魂神を祭った、稲荷神社。 2 <倉稲魂神の異称である御食津神(みけつかみ)と、三狐神(みけつかみ)とを結びつけて、稲荷神の使いと信じたところから>狐(きつね)の異称」 、 「稲荷信仰=稲荷神、および稲荷神社に対する信仰。田の神の信仰など稲作との結びつきが強く、後世は商売繁盛の守り神ともされる。狐を稲荷神の使いとする俗信も加わって民間に広まった」
このような辞典を参照しますと、「あー、なるほど、稲作などの五穀豊穣との関係で当時の萱瀬村南川内郷の方々が信仰されたのかなあ」と、私の勝手な推測ですが、そのように解釈しました。それと、(大村)郷村記には何も書いてありませんが、鳥甲の稲荷近くに鳥甲摩利支天宮の本宮があるので、そことの関係もあるのかもしれません。いずれにしても、この鳥甲の稲荷は、地元の方々が大事に祀ってこられたようです。
鳥甲城址
鳥甲城址(とりかぶとじょうし)について、いずれ「大村の城シリーズ(目次ページ)」の個別ページとして詳細に書いて掲載しようと思っています。その関係上、このページでは簡単に紹介程度にとどめたいと思っています。まず、鳥甲城址の推定地ですが、これについて大村市文化振興課の大野氏のアドバイスでは、概要<(鳥甲摩利支天宮の)境内の平らな所が鳥甲城址ではないか>と言うことでした。(写真は、どちらも同一であるが右下側画像か、上から4番目画像を参照)
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鳥甲城址とも言われている
鳥甲摩利支天宮の境内(手前が鳥居、奥が石碑)
(山の尾根に奥行き18m、横幅7mの平地がある)
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これらの根拠は、城址の地形や(大村)郷村記の記述内容、その他をもとに数回調査され判断されたようです。私も、このアドバイスを参考に(2011年8月現在)今まで4回、鳥甲岳には登山しました。そして、(大村)郷村記の内容、地図、磁石などを片手に、尾根伝いの城(砦)があったような場所を歩いてみました。そして、(大村)郷村記に書いてある鳥甲城址の位置、方角、距離、地名、地形、水の入手場所などが、実際の場所と記述内容が合わないのが分かりました。
ただし、(大村)郷村記の内容は、私の地元・福重地区でも様々な記述で実際と違って(当初、全部信じていて、そのままホームページや資料に書いたため)恥をかいたのを覚えていますが、注意が必要です。つまり、(大村)郷村記の記述が間違っている可能性もあるのです。しかし、それはあくまでも城跡の位置、方角、距離などの表現上や数値の違いであって、その当時、正確な地図、計測器、磁石やGPSなどが無かった時代ですから止むを得ないこととも思えました。
また、同じ山城でも先に紹介しました切詰城には、主郭(本丸)、副郭(二の丸)、虎口と石垣跡(城の入口周辺跡)など比較的はっきりとした場所も現存しています。しかし、この鳥甲城址のあった場所=鳥甲摩利支天宮の境内は、真っ平らな土地があるだけです。何か石垣などの城(砦)跡遺構や遺物が見つかれば、もっと明確に説明できると思われます。
いずれにしても、先に書きました通り、大村の城シリーズへ、詳細版「鳥甲城址紹介ページ」掲載を予定していますので、その時に(大村)郷村記の内容(現代語訳含む)と実際の場所、地形、地名などを比較しながら具体的に書こうと思っていますので、今回はご了承願います。
鳥甲摩利支天宮と竹生島流棒術
竹生島流棒術(ちくぶしまりゅうぼうじゅつ)は、現在、大村市宮小路に本部道場があります。日本古武道協会加盟としては、長崎県唯一の古武道です。この流派については、私は既に「大村の歴史シリーズ(目次ページ)」の「竹生島流棒術(大村市内で伝承されている長崎県唯一の古武道) 」ページに概略版を掲載中です。
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竹生島流棒術の演武写真
鳥甲摩利支天宮の石碑前(奥の中央やや右が石碑)
(この場所と石碑は南川内の集落近くある)
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改めて竹生島流棒術の歴史を極簡単に紹介しますと、流祖(りゅうそ)の難波平治閑(なんばへいじ みつのり)が、平安時代の源平合戦の頃に、この流派を始めて現在まで約八百余年になります。戦後間もなく先代の第17代宗家が大村市に移住され、そして1951(昭和26)年1月に流派を継承されました。2006 (平成18)年6月に、現在の第18代宗家へ引き継がれています。この流派の歴史紹介として、竹生島流棒術ホームページの「歴史の概要紹介」か、(詳細な)「歴史紹介」ページがあります。また、演武紹介の動画については、「2006年11月スペイン・サラマンカでの演武ビデオ」、「2008年3月15日フランス・パリでの演武ビデオ」を参照願います。
鳥甲摩利支天宮と竹生島流棒術の関係は、(正確な年月は不明ながら)第17代宗家が大村市に移住されて、しばらくしてから鳥甲岳に登山されました。当然、その目的は”武士の神様”である鳥甲摩利支天宮への参詣だったと思われます。そして、鳥甲摩利支天宮を拝んだところ、今まで忘れていた演武の形(かた)を思い出されたそうです。そして、その恩に報いること、年ごとに奉納する目的で(参詣者へ披露も含めて)、毎年4月(主に4月29日)、中岳町南川内の例祭時、集落近くの石碑前で奉納演武を何十年間も継続しておこなってこられました。(右側、鳥甲摩利支天宮の石碑前での演武写真参照)
また、この竹生島流棒術は、大村市内だけでなく、毎年のように東京での日本古武道大会(日本武道館で開催)、大阪での西日本古武道大会(阿倍野スポーツセンターで開催)、広島県安芸市、厳島での古武道大会(厳島神社で開催)で演武されています。また、外務省や日本古武道協会などの招きで、スペイン・サマランカ市、フランス・パリ市など海外での演武実績もあります。(竹生島流棒術ホームページの「演武紹介の目次ページ 」か「過去の演武実績一覧表 」を参照)
竹生島流棒術は確かに流派発祥の地は、平安時代の滋賀県の琵琶湖北部に浮かぶ竹生島です。その後も摂津(大阪)、山形(庄内)などで長く続きました。しかし、1951(昭和26)年に大村市で先代が第17代宗家を継承して現在の第18代宗家まで、既に大村でも約60年間の歴史となります。この流派は、鳥甲摩利支天宮の例祭を始め大村市武道始め式など、大村市内でも数多くの演武実績のある流派です。
まとめ
今回このページに4項目(鳥甲岳、鳥甲摩利支天宮、鳥甲の稲荷、鳥甲摩利支天宮と関係ある竹生島流棒術など)を一緒に掲載しました。ですから、一部の項目を除き内容が、かなり省略版みたいになっています。いずれ機会あれば、各項目を個別ページで詳細に書きたいと思っています。そのようなことから、鳥甲摩利支天宮と鳥甲の稲荷の2項目については、写真撮影や調査含めて終了していますので、いずれ個別ページでの掲載も検討もしています。特に、鳥甲摩利支天宮の境内にある3つの石碑内容(建立者や建立年など)は、ほぼ解読出来ていますので、これらも後で考えたいと思っています。
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鳥甲岳(奥左側:頂上、奥右端側:鳥甲摩利支天宮)
(大村市中岳町の南川内から遠望)
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あと、『福重ホームページ』の歴史関係項目で、山関係の史跡を本格的に取り上げたのは、1番目に郡岳(826m)の「福重の名所旧跡や地形、郡岳」、「太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された」、「古代の道、福重の修験道」、2番目に萱瀬山中にある切詰城(約400m)、3番目に今回の鳥甲岳(769m)紹介と思います。いずれも、そう高くはないのですが、私のような年齢と体格では、なかなか登山時に堪えてもいます。ただ、その分他にないような意気込みみたいなものもありました。
ここから、やや脇道や私の感想みたいにもなりますが、私が「郷土史目的で郡岳に10回位登り他の山も最低でも数回づつ登山しました」みたいなメールをある新聞記者へ、お送りしたところ、その方から「郷土史研究も体力勝負なのですね」と言う返信がありました。確かに、そうかもしれません。私みたいな全てにおいて素人の郷土史愛好家は、何か難しい漢文体の古文書とか史料が読める訳がありません。ですから、大村市内の、それも周辺部の野山に点在している史跡関係をデジタルカメラ、巻尺、磁石、ノートや筆記具(たまには拓本作業一式含めて)などをザックに入れて見て回ることにしています。
そんな活動スタイルですが、大村市の周辺部は体力が必要な分、まだまだ、今までの郷土史の先生方が調査や研究をされていない所も数多く、新たな分野でもあります。特に、今回の鳥甲岳は、登山ではけっこう人気のある山と、ずっと以前から分かっていましたが、史跡関係もあると知ったのは近年のことでした。また、何事も「百聞は一見に如かず 」で、この山中で色々と探せば興味深い所でもあります。
あと、私は、鳥甲岳に始めて登山した時に、「よくもまあ、こんな山の上に鳥甲摩利支天宮があるなあ。地元の方々が戦国時代の頃より大事に祀ってこられたのだなあ」との第一印象を持ちました。そして、その後数回登ることにより改めて先人の苦労なり、思いが少しでも伝わってきましたし、何故この山の、ここにあるのかも私なりに納得致しました。そのような状況が、このページで少しでも紹介できたらいいなあと思って書きました。最後になりましたが、皆様の閲覧、ありがとうございました。今後、「鳥甲摩利支天宮」(石碑など)の個別ページを掲載しましたら、その時もよろしくお願いします。 (ページ完了)
(初回掲載日:2011年8月24日、第二次掲載日:2011年9月18日、第三次掲載日:2011年9月23日、第四次掲載日:2011年9月28日、第五次掲載日:2011年10月1日、第六次掲載日:2011年10月2日、第七次掲載日:2011年10月4日、第八次掲載日:2011年10月6日、第九次掲載日:2011年10月7日)
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