1)切詰城を紹介するにあたって
まず、近代なって郷土史の先生方が、この城址について城名程度の記述はいくつかありますが、城の大きさ、造りや形式などを詳細に書かれた論文はないようです。そのため、2008年2月2日に第3回福重郷土史講演会が開催され、この時に講演された大野氏(大村市文化振興課)の話しや、その後に頂いた資料などを参照・引用して、このページは作成しています。私自身も現地見学や城を遠望できる地点での撮影などもしましたので、その範囲内ながら書いてみようと思っています。
切詰城(遠望)写真の説明
右側写真の説明前に、この撮影地点について書きます。大村市街地から経ヶ岳や黒木方面へ車で行く場合、萱瀬ダムの手前にやや急な長い坂があります。その坂の途中に休憩所と駐車場があります。この地点から撮ったのが、右側写真です。
この写真中央部より、やや高い位置に稜線があります。(左奥の山ではありません)写真では横方向に左右に(方位上では北北東から南南西気味に)連なるのが、切詰城のある尾根です。この尾根は(写真に写っている範囲内ならば)標高3700m前後で、横幅250m位あります。そして主に切詰城部分と言える所が、同じく180m前後あります。
その尾根に大きく分ければ2ヶ所、平らに切り開いた部分があります。この部分が主郭と副郭です。(少し意味合いが違うと思いますが、江戸時代風の表現で言うと「本丸」、「二の丸」とも言えるでしょう)それ以外は、主郭と副郭を結ぶ細長い廓と言いますか通路があります。この城概要については、次の項目「2)切詰城の縄張り図」を参照願います。
この尾根の両側は”急峻”とか”切り立った”との表現がぴったりするような地形で、尾根伝いに登らないと”直登ルート”では、なかなか近寄れない場所です。たぶんに南北朝や戦国時代なら、攻める敵側にとって難攻不落の城だったと容易に想像されます。
この切詰城の史料(資料)として、江戸時代に描かれた大村藩領絵図と、この城のことが詳細に書かれた(大村)郷村記もありますので、後の項目で個別に分けて書く予定です。
2)切詰城の縄張り図
まず、今回ご紹介していますのは、下記の切詰城の縄張り図は、松尾尚哉氏が作図され、それを大野安生氏が再トレースされたものです。改めて感謝申し上げます。既に上記項目と内容的は重複する記述もありますが、再度、切詰城について、縄張り図をもとに概要の説明を致します。(城関係や縄張り図などの用語については「城関係用語集」ページ参照) この縄張り図は、上記項目「1)切詰城を紹介するにあたって」で紹介しています項目の右側写真の、ほぼ裏側から(厳密に言えば方位の関係から若干違いがあるが)、城や尾根を見たような図になっています。
1)中央部のやや右側が開けた(平らな三角形みたいな)部分が主郭と思われる。横幅は20m、奥行きは25mである。
2)中央部のやや左側の開けた(平らな楕円形みたいな)部分が副郭と思われる。横幅は55m、奥行きは10mである。
3)主郭より右側(実際は下側方向で尾根の下り坂)に堀切がある。
4)尾根上の左側に1ヶ所黒い四角の印があるが、ここには高さ1m、横幅1.5mの石垣がある。この石垣の前周辺は道の十字路みたいにも見え、考えようによっては虎口(こぐち、入口)だったかもしれない。 この石垣から南東方向で斜め下側へ(上図では右下側へ)伸びる道らしきものがある。この道らしきものは想像だが竪堀(たてぼり)みたいに使えたのかもしれない。(この下側方向に源流みたいな小さな川があるようだった)
5)上記の石垣の、さらに上側(縄張り図では左側)に通路から測れば高さ2m近く、通路挟んで反対側の右側には同じく高さ3m弱の見張り台みたいなものがあった。
6)主郭と副郭を結ぶ狭い通路は尾根上ではあるが、見方を違えれば”土橋”みたいにも見える。
7)この城全体の大きさは横幅が180m、奥行きは広狭様々だが広い所で25mで、狭い所は2m前後である。<(上図の縄張り図にないが、尾根は左右方向に、まだ続いている) 城の規模として左端側は4)で説明している石垣周辺、右端は主郭の右方向にある堀切までとした>
(注:ページ下段に説明項目や文章の追加もしている)
3)切詰城と大村藩領絵図
まず、右側の(縮小版の)大村藩領絵図をご覧願います。やや、この画像では分かりにくいですが(原図では鮮明に見えてる)、この絵図中央部やや左側の山の形に、”切詰城”の文字が書いてあります。そこから、やや離れた左側方向上下に大きな”く”の字の形にも見える薄い紺色が、郡川(こおりがわ)です。
なお、この付近の郡川上流部は、江戸時代当時には「萱瀬川(かやぜがわ)」とも呼称されていました。その郡川下流方向で、絵図上では最下部から右方向に一筋の川の色があります。これが郡川の支流の一つである南河内川(みなみのかわちがわ)になります。
この絵図には、今回の切詰城以外に、この城の右下方向で、絵図下部の郡川と南河内川の合流している周辺の上側が赤い色になっていますが、さらにその赤色右上部に右から、絵図上ではホウマン城=宝満城(ほうまんじょう)と、同じく小城=中岳砦(なかだけとりで)も描かれています。(後のシリーズで、この宝満城と中岳砦は掲載予定)
私は、大村藩領絵図と城との関係で、これまでに岩名城、尾崎城、好武城、今富城、江良城を紹介してきました。この5城とも(私の地元でもある)福重地区にあったものですから何十回となく現代の地図や現地と見比べもしていました。その結果、(大村)郷村記は常に真偽の問題がつきまといますが、この大村藩領絵図に関しては、描かれている城の位置関係は、けっこう正確であることが分かりました。
それは、絵図(地図)ですから山川、田畑、神社仏閣や名所旧跡などを正しく位置関係含めて描かれているかどうか最重要使命でしょうから、その点は当時の測量方(現代風に言えば測量士)の力量は、けっこうな腕前で正確だったと言えます。そのことを踏まえれば、先の福重の5城だけでなく、このページにあります萱瀬の切詰城、宝満城と中岳砦とも、位置関係は正確に描かれているように私は思っています。
このページ冒頭=データ部分の「(10)補足、感想など」の項目最後に、<(切詰城の)「場所が違うのではないか」と言う情報もある。>と書いています。この件について、右上図の大村藩領絵図だけからすれば、今回述べています位置関係と、ほぼ同じです。つまり、大村市文化振興課の皆様や上野が調べた所と絵図上に描かれている切詰城の文字がある場所は、同じとも言えます。
前の項目「1)切詰城を紹介するにあたって」や、後の項目でも、切詰城のある場所は何回かとなく”急峻”とか”切り立った所”と書いていますが、この絵図でも良く、そのことは表現されていると思ってもいます。
4)切詰城と大村郷村記
まず、(大村)郷村記に記述された切詰城の項目は、長文(活字版でも約1ページ半)で紹介されています。ただし、私が知りたい城紹介文章などは、他の城とほぼ同様か、やや詳しい程度です。内容のほぼ80%弱が大村純忠の養子に来た頃の様々な状況や、その時の混乱で大村純忠が切詰城に潜居(せんきょ=隠れ住んでいること。国語辞典の大辞泉より)したことについては、微に入り細に入り書かれています。実は、この潜居したこと自体が、真偽の問題としてつきまとう内容でもあります。(右側写真は、活字版の大村郷村記)
あと、私はこれまで紹介してきました城の尾城、岩名城、尾崎城、好武城、今富城の場合、(大村)郷村記の内容は長短ありましたが一部を除き、ほぼ全文掲載してきました。ただし、大村の歴史の二大偽装事項(「大村千年の歴史」説=大村氏系図、「大村純伊」伝説=大村寿司・郡三踊りの起源説など)は、当然書いていません。細かいことかもしれませんが、「第18代大村純忠」みたいな代数表現も当然間違いですから、それも表示していません。そのようなこともあり、この切詰城について(大村)郷村記のまま書くか、どうするか、かなり考えました。
結果、大村純忠のことは、この切詰城と直接関係している部分のみ、その真偽の問題点はありますが、触れることにしました。ただし、養子に来た頃の様々な出来事や潜居に至る状況などは、省略したいと思います。詳細を知りたい方は、大村郷村記の第二巻241ページから、ご覧願います。
大村郷村記には、(第ニ巻、241ページから242ページにかけて)「切詰の古城」のことが記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「 一 切詰の古城
久良原往還菖蒲の本と云處より辰巳の方五町程の處にあり、高サ村並より壹町程大岩石なり、頂上に長サ拾九間、横拾三間程の平地あり、西の方へ長サ拾間、横壹間の尾續あり、次に又長サ貮拾貮間、横七間の平地あり、何れも樹木繁茂す、三方ハ大岩絶壁、基高サ量るへからす、大手は西の方にて、今に木戸の形現存す、此處へ麓より登る一條の細道あり、左右深谷にて、漸く一騎通りに嶮難の坂路なり、
城中水の手なし 往昔ハ城内の巌間より清泉湧出すと云 又頂上東南の間岩壁の半腹に洞穴あり、岩の高サ七間、洞穴横九間、入弐間、高サ五尺五寸、次に又洞穴あり、岩の高サ三間程、穴横四間四尺、入壹間三尺、高サ壹間壹尺、此洞穴を臺所と云 土人曰、往昔純忠當城に潜居の節、此洞穴に於いて朝夕の膳部調進せしと、故に今に壹所の名ありと云ふ 木の根岩角を掴て、漸く此至る、下は藪拾丈の深谷なり、其間の危険言語に述難し、往昔丹後守純忠、有故當城に三ヶ年程居住ありしと云 (中略=活字版241〜242ページの上・下段、約40行を省略)
或記ニ曰、永禄六年十二月、後藤伯耆守貴明郡野岳出張の時、丹後守純忠一族従臣と相議して、大村の館を退いて萱瀬切詰の城に籠る、其勢五百余騎夜陰に當城より発して野岳に於いて一戦し、貴明を敗る、貴明敗走して軍を凱すとあり、家記に相違す 」
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切詰城の主郭(本丸)跡の一部分(推定場所)
(横幅は20m、奥行きは25m、縄張り図の中央右側参照)
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切詰城の副郭(二の丸)跡の一部分(推定場所)
(横幅は55m、奥行きは10m、縄張り図の中央左側参照))
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現代語訳について
上記「 」内の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、上野が付けた補足や注釈です。 また、(大村)郷村記は、切詰城の記述だけではありませんが、真偽の問題が常にあります。特に、この切詰城部分は長文で、しかも大村純忠のことが、実に詳細に書いてあり、この点は注意が必要と思われます。
その部分は上記の大村郷村記でも下記の現代語訳でも省略しています。しかし、それでも関連項目は書いていますので、真偽の問題を考えつつ読んでいく必要があると思われます。そのため、現代語訳を全て書いたあと、この真偽の件の一部についても上野の補足として書いておきます。
< 一つ 切詰の古城
久良原(きゅうらばる)の道路(近くの)菖蒲の本(しょうぶのもと)と言う所より南東の方角で約545mほどの所にある。高さは村より約109m程で大きな岩石である。頂上に長さ34m、横約23mの平地がある。西の方へ長さ約18m、横約1.8mの尾根がある。次にまた、長さ40m、横13mの平地がある。いずれも樹木が繁っている。三方は大岩の絶壁で、その高さは測ることが出来ないくらいだ。(城の)大手門=正門は西の方で、今でも木戸=出入り口の形が現存している。この場所へ山麓から登る一つの細い道がある。(その道の)左右は深い谷で、しばらくは一人しか通れないような険しく難しい坂道である。
城の中には水を入手することはできない。昔は城内の岩の間から清い泉が湧き出ていたと言う。また、頂上東南側で岩壁の中腹に洞穴(ほらあな)がある。岩の高さ約13m、洞窟の横幅約16m、入口(から奥行き)は約4m、高さ約3mある。この洞穴を台所(だいどころ)と言う。村人が言うには大昔、(大村)純忠が当城(切詰城)に潜居していた頃、この洞穴において朝夕の食膳(料理)を調達(調理)していた。それで今でも台所と言う名称があると言われている。木の根が岩の角を掴むようにして、かなり(伸びていて)ここまで達している。下側は藪で約30mの深い谷となっている。その間の危険さは言葉で言えないほどである。大昔、(大村)丹後守純忠は訳があって当城(切詰城)に3カ年ほど居住したと言う。 (中略)
ある記録によれば永禄6(西暦1563)年12月、後藤伯耆守貴明(後藤貴明(ごとう たかあきら/たかあき)が郡村の野岳に出陣の時、(大村)丹後守純忠は家臣と協議して、大村館(おおむらやかた)を出て萱瀬村の切詰の城に籠城した。その勢力は500人あまりで夜陰に当城(切詰城)より出発して野岳において戦って(後藤)貴明を敗北、敗走させて、(大村純忠)軍は勝ったと(書いて)ある。(しかし、大村の)家記録(内容)と相違がある。 >
以上が、大村郷村記に記述されている切詰城項目を現代語訳したものです。この(大村)郷村記には、ご覧の通り、けっこう切詰城については詳細に書いてあります。ただし、いつも申し上げていますが(大村)郷村記は、真偽の問題が常につきまとうのも事実です。そのようなことも含めて、下記に補足の項目も設けています。
解釈の補足について
(大村)郷村記の記述内容の件、切詰城の項目以外にも常に真偽の問題がつきまといます。それは先に紹介した大村の歴史の二大偽装事項(「大村千年の歴史」説=大村氏系図、「大村純伊」伝説=大村寿司・郡三踊りの起源説など)だけではありません。私自身が史跡調査時に実際に経験していることとして、記述上で例えば地名の間違い、石仏の種類違い、方位方角違い、さらには距離の長さ違いなど、けっこう沢山あり悩まされる場合もあります。それも、「良くもまあ、こんな大きな間違いを平気で書いたなあ?」と思わせる例もありました。
ただ、(大村)郷村記の編纂された江戸時代に現在のように誤差がゼロみたいな正確な測量器具、GPSあるいは各種の機器や磁気コンパスなどがあった訳ではありません。また、切詰城址などを書かれた役人(侍)は、たぶんに測量役(測量士)ではない、極普通の地元の役人が書かれたものと推測されますから当然、意図的な創作・偽装の記述でなくても地形などについても誤差や間違いは、やむを得ないことだと思います。
そのようなことと分かりつつも(大村)郷村記は、江戸時代やそれ以前の大昔のことを記述された記録集としては大変貴重なものです。できるだけ、間違い記述を訂正し、より正確に直していくのも現代人の役割だろうとも思っています。このようなことを述べつつ、今回の切詰城の(大村)郷村記の内容の真偽のことについて上野の意見をいくつか書いていきます。
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切詰城の虎口と石垣跡(城の入口跡)(推定場所)
(写真中央部は石垣。その左側の下側方向へ細い道がある)
(中央部左右の小高い所から尾根に繋がっている)
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これから書くことは、「ここに決定的な証拠があるから、このような結論が出た!」みたいなことではなく、あくまでも切詰城を調査したり、写真撮影のために何回となく山麓から城址を見て、(大村)郷村記の内容は少し違うのではと思う書き方です。ですから、あくまでも「そんな見方もあるのかあ?」と言う程度の参考意見としてご覧頂けないでしょうか。
大村純忠「切詰城、3年潜居」説は本当だろうか?
1,(大村)郷村記に記述されている切詰城のある地形の高さ、長さ、方位や方角違いなどがあります。一つだけ例を書きますと山麓からの高さが、かなり違っています。(全項目の正確な対比まできっちりできていませんし、そのようなことを挙げれば切りがありませんので全体の内容は省略します)ただし、先に書いたように当時、正確無比な測量用器具などがあった訳ではありませんので、これら地形の書き間違いは、やむを得ないこととも思います。
2,先の地形や方位関係よりも重要な問題が、(大村)郷村記に記述されている「切詰城に大村純忠が3年間も潜居していた(隠れすんでいた)」=「大村純忠、切詰城3ヶ年潜居」説は、果たして本当だろうかと言う点です。(この件、2011年1月現在で他の古文書や資料類を探しきれていません)果たして「大村純忠、切詰城3ヶ年潜居」説が記述されている史料があるのでしょうか。もしも、そのような史料がみつからなければ、この(大村)郷村記の大村純忠「切詰城、3年潜居」説は、極めて疑わしいと言わざるを得ません。
確かに大村純忠が大村家に養子で来た頃は、家臣団が大まかに言えば3派に分かれて人心が不安定だったと書かれている近代の書籍類も多いですし、たぶんに最悪時は不穏な、一触即発みたいな時期もあったことと推測されます。だから、色々な潜居みたいなことが実際あった可能性は否定できないとも思えます。全国の例でも、いくつかこの種の出来事は、他の武将でも戦国時代はあったと言えます。
潜居期間の長短は別としても、不穏な雰囲気を察して大村純忠が、どこかに潜居していたことを全面否定するものではありません。しかし、山仕事で来る以外に通常は誰も人が来ないような山の頂上(標高約400m)の切詰城に3年間も隠れ住んでいたら、逆に家臣団の心をつなぎとめることはできないのではないだろうかと言う率直な疑問も湧いてきます。
今から約470年前頃の時の流れを何でもかんでもスピード時代の現代との対比で見る訳にはいきませんが、それでも大村純忠の頃は戦国時代真っ最中の頃です。大村純忠の幼少の頃としても、一時の、例えば3週間とか3か月間程度の潜居なら、当然理解もできます。でも、いくら大村純忠が子どもの頃と言っても3ヶ年の潜居は、私の推測ながら長すぎるような気がします。潜居の期間が長くなればながくなるほど逆に家臣団の心は、養子の大村純忠から離れ、元々の大村家の実子へ移っていくことは想像難くないからです。
決定的な史料なきため、私の推測でしかありませんが、「大村純忠、切詰城3ヶ年潜居」説は、疑問を感じる事項です。ただし、私は短期間の潜居まで否定している訳では当然ありません。そのような理由からも「大村純忠、切詰城3ヶ年潜居」説関係を長々と書いてある(大村)郷村記の内容部分は省略いたしました。ご覧になりたい方は、原本をご参照願います。
5)大村市史の切詰城について
この城山城について、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)に記述があります。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史826〜827ページに、「二、 切詰城」として下記<>内の通り書いてあります。
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尾根の上から撮影した切詰城の虎口と石垣跡(城の入口跡)
(写真中央部手前は石垣。その右の下側方向へ細い道がある)
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なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。あと、この市史の826ページには、大野安生氏の作図による切詰城の縄張り図も掲載されています。しかし、このホームページじでは、既に先の項目「2)切詰城の縄張り図」で紹介中ですので、そちらを参照願います。
< 切詰城
大村市中岳町久良原に所在する標高約三七○メートルの山頂部に所在する城である。
鳥甲城と同じく鹿島へ通じる往還の東側にあたり、その標高の高さから緊急時に避難する詰めの城としての機能が推測される。
『大村郷村記』 には 「頂上には長さ拾九間 (約三五メートル) 、横拾三間 (約二三メートル) 程の平地あり。西の方へ長さ拾間 (約一八メートル)、 横壱間 (約二メートル) の尾続あり。次に又長さ弐拾弐間 (約四○メートル) 、横七間 (約一三メートル) の平地あり。何れも樹木繁茂す。三方は大岩絶壁、 其の高さ量るべからず。大手は西の方にて、今に木戸の形現存す。」とある。
曲輪は極めてシンプルな形状で東西にやや広めの曲輪があり、その間を狭小の通路状の平場でつないでいる。ただ、切岸は明瞭で南北両斜面ともに切り立っており、 外部からの侵入は不可能に近い。また、東側の曲輪の東岸には土塁状の高まり (a) が見られ、その下段に東側から延びる丘陵を断ち切る堀切が残る。
西裾の堀切には 『大村郷村記』 に木戸との記載があるように高さ一bほどの矩形の石積み(b)があるが、結果的に堀幅を狭めることとなり、城に伴う遺構かどうかは不明である。 城の周囲は自然石や崖面が立ちはだかっており、自然地形を利用した堅固な要塞といえる。
この城は、十六世紀の半ば、有馬晴純の次男である純忠が大村純前の養子として迎えられ、純前の実子である貴明が武雄の領主後藤純明の養子として出されたことから起こった家中の騒動が治まるまでの約三ヵ年の間、 この城に居住したといわれている。ただ、この場所に長期滞在することは非常に困難であり、文献資料の真偽は不明である。 >
|
右側方向:主郭(本丸)、中央より左側:切岸(周辺は断崖絶壁である)
|
6)切詰城の主要ポイントの大きさ
この項目、既に主郭(本丸)、副郭(二の丸)などの大きさは、先の「2)切詰城の縄張り図」項目にも書いています。上野は、切詰城周辺の山に2015年3月13日、5回目の登山をしました。その主目的は、次の3項目でした。
(1)北部九州中近世城郭研究会の大野安生氏が、2015年3月7日に発見された切詰城跡の副郭へ向う尾根の下側(東南部) の洞窟二つの大きさを計測した。
<この洞窟は大村郷村記に記述あり。通称“大村純忠の洞窟”(後の項目や写真参照)>
(2)主郭、副郭、虎口周辺、洞窟など主要ポイントの緯度経度計測(携帯型GPS測定器で実測)。
(3)上記(2)の主要ポイントや登山路(尾根道など)含めた動画と写真撮影をおこなった。
以上の計測や撮影の結果を今回、追加項目として書いていきます。下表含めて、後の項目に新たな切詰城の縄張り図含めて掲載します。
切詰城の主要ポイントの大きさ |
|
名 称 |
大きさ1 |
大きさ2 |
大きさ3 |
備 考 欄 |
1 |
主郭(本丸) |
横幅20m |
奥行25m |
- |
下記の縄張り図参照 |
2 |
副郭(二の丸) |
横幅55m |
奥行10m |
- |
- |
3 |
虎口の石垣 |
高さ1m |
横1.5m |
奥1m |
虎口:城の木戸=出入り口 |
4 |
大きい洞窟 |
横幅13m |
高さ172cm |
奥行3m |
通称:「純忠洞窟」(後の項目参照) |
5 |
小さい洞窟 |
横幅8m |
高さ2m |
奥行3m |
- |
* |
城跡全体 |
横幅180m |
奥行2m〜25m |
- |
奥行き2mは主郭と副郭間の尾根道幅のこと |
注:上の計測場所は、どの地点も「この端から、あそこの端側までが測定基準だ」と言う明確さがないので、数値はあくまでも参考程度にご覧願いたい。 |
7)切詰城の縄張り図<新しい作成図、作図:大野安生氏(北部九州中近世城郭研究会)>
この項目に掲載しています右側及び下部の切詰城の縄張図は、先に掲載中の「2)切詰城の縄張り図」項目の図より新しいものです。この縄張図は、「北部九州中近世城郭研究」情報誌30号(2016年3月31日発行)の2ページに載っています。右側の図は、原図をそのまま縮小したものです。
|
大野安生氏作図の切詰城の縄張図(「北部九州中近世城郭研究」情報誌30号より複写)
|
下図の方は、ホームページ用に見やすくするために主郭(本丸)、副郭(二の丸)、虎口、二つの洞窟などがある場所を中心に拡大したものです。この図と先の「情報誌30号」を引用、参照して今回、主要なポイントの説明を書いていきます。
なお、先の項目で既に紹介しているので下記説明文や大きさなどは省略している場所もあります。
<番号順の説明>
1、主郭(本丸)---変形の三角形で地面は、ほぼ真っ平である。
2、副郭(二の丸)---楕円形の平地形状である。横幅と面積だけなら主郭より大きい。
3、堀切
4、堀切
5、大手(城の正面口)---虎口の南側に約1m四方の石垣(石積み)がある。(右上側から6、7番目写真を参照) この石垣の反対側=北部側に高さ約5m、横幅約4m、奥行約8mの巨岩がある。
C、二つの洞窟---図の右上側(北側)の大きい洞窟は通称「大村純忠の洞窟」で後の項目で詳細説明している。左下側(南側)に小さな洞窟がある。
(図の補足説明)
・4の堀切から副郭へ、あるいは副郭から主郭を繋ぐ通路は幅2m位の細い尾根道である。
・4と5の左側(西側)方向は斜面になっていて、土砂崩れ状態も見られ、あまり草木も生えていない。
・全体の地形は、縄張図の等高線の狭い間隔状態でも分かる通り、尾根の上にある城郭以外、その周囲は、ほぼ断崖絶壁状態である。標高は主郭の方が副郭より1m位地図上では高いが携帯型GPS測定器では、ほぼ同じであった。(主要ポイントの標高については後の項目を参照)
大野安生氏作図の切詰城の縄張図の拡大図<右上図を城郭中心に拡大したもの>(出典:同上) |
|
注:方位、スケールとも右上図を同じ比率で拡大しただけである |
8)切詰城の主要ポイントの緯度経度
まず、私の携帯型測定器ガーミンGPSmap62SJ(右側写真) は、見晴らしの良い三角点では誤差ゼロでした。しかし、この携帯型測定器は、元々、山仕事やアウトドア・スポーツ用であり、若干の誤差はあります。そのため、下表は参考程度に、ご覧願います。しかし、今回のような森林内であれば、いくらプロ用計測器でも衛星の電波状態により誤差は生じます。そのため下表は、国土地理院の緯度経度も参照した数値を用いて補正もしています。なお、色々な地図によっても、描き方の差などから実際の土地形状や標高などは、少し違う場合がありますので、充分な注意が必要です。
切詰城の主要ポイントの緯度経度 |
|
名 称 |
緯 度 |
経 度 |
1 |
主郭(本丸) |
32度58分20.23秒 |
130度1分38.29秒 |
2 |
副郭(二の丸) |
32度58分18.06秒 |
130度1分32.69秒 |
3 |
虎口横の巨岩 |
32度58分15.33秒 |
130度1分30.80秒 |
4 |
大きい洞窟 |
32度58分15.25秒 |
130度1分31.79秒 |
5 |
小さい洞窟 |
32度58分15.79秒 |
130度1分31.95秒 |
6 |
尾根の高所 |
32度58分14.31秒 |
130度1分29.50秒 |
7 |
尾根の最西端 |
32度58分12.54秒 |
130度1分23.11秒 |
参考ページ:国土地理院、緯度経度による地図検索ページ
9)切詰城の主要ポイントの標高
私の携帯型GPS測定器(先の項目で紹介中)で、標高を計測する場合、衛星電波による計測と気圧式の計測があります。ただし、どの方式も一長一短があります。衛星電波式計測は、電波や森林などに影響を受け、気圧式計測は、その日の気圧状況で左右されます。切詰城は全て森林内ですので、衛星電波方式は大きく影響を受け、下表の数値になっています。そのため、「地図上の標高」が、実際の数値に近いと思われます。
なお、念のため、地図上の等高線から、ある地点の標高を推測するやり方は、地図自体が実際の地形と若干違う場合がありますので、全部正しい標高の数値とは限らないと思えます。特に、森林内、山岳や断崖絶壁みたいな地形は、実際と違う例もあります。そのため、下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧願います。
切詰城の主要ポイントの標高 |
|
名 称 |
気圧高度計数値 |
衛星電波数値 |
地図上の標高 |
1 |
主郭(本丸) |
393m |
397m |
372m |
2 |
副郭(二の丸) |
370m |
370m |
371m |
3 |
虎口横の巨岩 |
366m |
372m |
355m |
4 |
大きい洞窟 |
370m |
368m |
334m |
5 |
小さい洞窟 |
384m |
382m |
343m |
6 |
尾根の高所(西側) |
365m |
358m |
357m |
7 |
尾根の最西端 |
331m |
334m |
314m |
10)通称「大村純忠洞窟」=大洞窟と、小洞窟について
下記の二つの洞窟は、大野安生氏(北部九州中近世城郭研究会)によって2015年3月7日に発見されました。まずは、この2枚写真の概要説明をします。左側が通称「大村純忠の洞窟(純忠洞窟)」=大きい洞窟で、右側が小さい洞窟です。洞窟写真は、両方ともCG写真です。撮影したままの写真では、洞窟の前に小さな木や枝が視界を邪魔しています。それらを背景と同化(=CG加工)して視認化を高めているだけで、洞窟そのものの形状は変わっていません。
ただし、写真の縮尺比は、両方違いますので、大きさには注意願います。当然、大洞窟(横幅13m)が小洞窟(横幅8m)より、大きいです。後で詳細な紹介文は書いていますが、この洞窟の緯度経度あるいは標高は、先の項目に既に掲載中です。
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通称「大村純忠洞窟」=大きい洞窟
(大洞窟の大きさ:横幅13m 、高さ172cm、奥行3m) |
小さい洞窟
(小洞窟の大きさ:横幅8m 、高さ2m、奥行3m) |
・大洞窟、小洞窟、削った崖(崖道)の説明
この通称「大村純忠の洞窟(純忠洞窟)」=大きい洞窟(大洞窟)について、江戸時代に編さんされた郷村記(大村郷村記)に記述されています。そして、このページにも既に「4)切詰城と大村郷村記」の項目で詳細に紹介しています。ここで、この洞窟の記述部分を上野の現代語訳で、次の<>の青文字で再度紹介します。分かりやすくするために太文字にもしています。
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通称「大村純忠洞窟」=大洞窟
大洞窟の大きさ:横幅13m 、高さ172cm、奥行3m)
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< (前略) 城の中には水を入手することはできない。昔は城内の岩の間から清い泉が湧き出ていたと言う。また、頂上東南側で岩壁の中腹に洞穴(ほらあな)がある。岩の高さ約13m、洞窟の横幅約16m、入口(から奥行き)は約4m、高さ約3mある。この洞穴を台所(だいどころ)と言う。村人が言うには大昔、(大村)純忠が当城(切詰城)に潜居していた頃、この洞穴において朝夕の食膳(料理)を調達(調理)していた。
それで今でも台所と言う名称があると言われている。木の根が岩の角を掴むようにして、かなり(伸びていて)ここまで達している。下側は藪で約30mの深い谷となっている。その間の危険さは言葉で言えないほどである。大昔、(大村)丹後守純忠は訳があって当城(切詰城)に3カ年ほど居住したと言う。 (後略) >
以上の大村郷村記の現代語訳でもお分かりの通り、その真偽は別としても、この洞窟の存在は江戸時代も確認され、記述されていました。しかし、近代、現代の書籍類には、全く記述されていないようです。何故だったのでしょうか?
それは、切詰城そのものが山林の中(標高370m位の険しい尾根伝い)にあったため、この周辺で山仕事をされた方は別としても、郷土史家の歴史研究の対象になっていなかったこともあり、論文などに書かれることはなかったと思われます。
・大洞窟の紹介
(この上右側の大きい洞窟写真参照) 先の項目で何回か紹介しました通り、この大きい洞窟(大きさ:横幅13m 、高さ172cm、奥行3m)が、通称「大村純忠の洞窟(純忠洞窟)」です。何故、そう呼ばれているのかも、大村郷村記を引用して書いた通りです。これから、洞窟そのものについて、具体的に説明致します。まず、右上側の大きな写真を参照願います。この写真の通り、人の口にも似ていて、穴の中央部が高くて奥が深く、両端にいくにしたがって低く狭い形状です。
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大洞窟の中央部:地面、奥壁、天井部が黒ずんでいる。
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手前側:削った崖(崖道) 左側の崖の高さ50cm位を削った後、幅50cm前後の崖道がある |
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小洞窟(大きさ:横幅8m 、高さ2m、奥行3m) |
また、この洞窟の上下左右とも崖になっています。つまり、断崖絶壁です。ここの形状は、例えるならば、まるで長方形の粘土の塊(かたまり)を指でくり抜いたみたいな大きな穴が開いています。そして、この洞窟の岩肌の色は、全体が灰色か白色です。私は、土地の形成や地形などについて全く知識がありませんが、想像ながら何千年、何万年という時間をかけて、雨水の浸食作用などによって、この穴=洞窟は出来たのではないかと思っています。
洞窟の大きさを計測していた時に気づいたのですが、中央部が一部ならがら地面、奥壁、天井部が黒ずんでいました。(右側の大洞窟の中央部写真参照) また、地面に置いてある石の数個は、見ようによっては「かまど」に使った跡だろうかとの雰囲気もしました。そして、黒ずんだ、あるいは灰のような石もありました。炭化した木などは当然、風雨で飛んでいるのでしょうから、そのような物は見当たりませんでした。
ただし、この黒ずんだ所は、炊事などの火からと思われがちですが、中には雨水の影響も考えられます。詳細は、専門の方が調査しないと正確には分からないとも言えます。
・削った崖(崖道)
(右側の削った崖写真参照。視認を良くするために邪魔な木の枝などはCG加工で背景と同化した) この削った崖(崖道)について、私は、最初、大野氏撮影の写真説明で教えて頂きました。そして、私自身も2015年3月13日に現地に行き、撮影もしました。場所は、小さな洞窟(小洞窟)から先に進んだ、大きな洞窟(大洞窟)の手前にあります。
この工事の年代については、正確には不明です。そして、崖を削った目的は、当然少しでも崖道(崖の道)を広げて、安全を確保するためです。同じ写真(左側の崖に、ご注目を)では、上部の自然そのままの岩場と、下部の削り取った崖部分が明らかに違います。
計測するのを忘れたので、うろ覚えながら削った部分のみで崖道の長さが4m位、高さ50cm程度で、道幅50cm前後だったでしょうか。あと、削った道具ですが、私の想像ながらツルハシ、もしくは、石工用のノミで削ったと思われます。いずれにしても、硬い岩場をコツコツ、削っていくのは並大抵のことではありません。
私の見た感想ながら、「よくもまあ、硬い崖(岩場)を人力だけ、これだけ削れたなあ」と思いました。人一人が通るのも、やっとの崖道ながら、谷側は落ちれば生命にも関わる危険な場所なので、この道のおかげで、少しだけ安全が確保できたという感じです。この崖道を造った先人の努力、バイタリティーに脱帽でした。
・小洞窟の紹介
この小さい方の洞窟は、「7)切詰城の縄張り図」の「5、大手(城の正面口)---虎口の南側に約1m四方の石垣(石積み)がある」所から南東側に少しだけ下って、そこから左側(北東方向)へ行った所にあります。あと、さらに崖道を進みますと、大洞窟に突き当たります。念のため、この周辺も危険な所に変わりありません。
右側に掲載中の小洞窟写真通り、人の口を大きくポッカリ開いたような形状です。この洞窟の大きさは、横幅8m 、高さ2m、奥行3mです。先の「6)切詰城の主要ポイントの大きさ」の表にも書きました通り、高さだけならば大洞窟よりもサイズが大きいです。レーザー距離計を持っていかなかったので、その高さのため、巻尺計測ではやりにくかったのを覚えています。
「大洞窟の紹介」項目にも書きました通り、この小洞窟も私の想像ながら何千年、何万年という時間をかけて、雨水の浸食作用などによってできたことと思います。あと、小洞窟写真でもお分かりの通り、この形状では風雨が直接吹き込んでくることになります。そのため、大洞窟と違って、炊事場や貯蔵の場には不向きだったのではと想像しましました。そのようなことから、何か日常の目的に使用されたとは、思えませんでした。
切詰城と周辺の特徴
<この項目以降、もう一度、良く調査して文章をまとめ直して、掲載したいと考えています。しばらく、お待ち願います。「まとめ」や「後書き」なども同様の扱いにしたいと思っています。なお、次の、他の城シリーズ掲載は、できる範囲内でおこなっていく予定です>