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大村の城シリーズ 宝満城(ほうまんじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  宝満城(ほうまんじょう)
(2)別名  (大村)郷村記は「ほふまんの古城」、大村藩領絵図は「ホウマン城」と表記
(3)所在地  大村市中岳町<字「五太郎」>、宝満岳(388m)頂上にある
(4)築城年代  (不明) 
(5)形式・特徴  山城
(6)城主など  築城主は不明 
(7)現状(遺構)  山林
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  大村藩領絵図、(大村)郷村記
(9)土地や管理など  -

(10)補足、感想など
 <宝満城の情報などについて>  宝満城のあった宝満岳(388m)は、萱瀬出張所や国道444号線沿いから遠望すると円錐形の山容をしているため、どこからでも良く視認できる。(この宝満岳の名称表記は大村郷村記・第二巻243ページに書いてある)以前は頂上付近に高圧電線の鉄塔があったので目印みたいに見えていたが、数年前に撤去されている。

 宝満城についての史料(資料)関係は、江戸時代に描かれた大村藩領絵図に城の名前があり、さらに(大村)郷村記にも、この「ほふまんの古城」(宝満城)のことは記述されている。ただし、この(大村)郷村記内容の真偽については、充分注意が必要と言える。
 

 この城についての基本資料が、大村藩領絵図(大村)郷村記以外にないため詳細に分かっていない城の一つでもある。後で紹介予定の鳥甲城との関係で築かれた城との説もあるが、この点も真偽の問題があると思われる。


1)宝満城を紹介するにあたって
 この宝満城は、大村市の竹松や西大村方面から国道444号線で行く場合、郡川に沿って走行し、しばらくすると田下町にある大村市立萱瀬中学校、萱瀬出張所や氷川神社周辺から正面方向に円錐形に似た山が見えてきます。この山の標高は、388mです。田下町から中岳町へ入り、さらに南川内方面に1km位走行し、そして左側へ進むと森林ばかりの登り道になっていきます。

 その林道を数キロ行くと道路脇に小道があります。そこを100m弱登ると高圧電線の鉄塔があった周辺が出てきます。現在、鉄塔跡地周辺は、明るく開けた平地になっていますが、ここは山の頂上ではありません。そこから、東側へ数10メートル弱登ると、その辺りが山頂と思われ林になっています。ただし、三角点などはないようです。

中央上部の左側、円錐形に似た山:宝満城(この写真では頂上付近に鉄塔が見えるが、現在は撤去されている) 、右手前側の小山:中岳砦

 また、この山頂周辺や先ほどの鉄塔跡地周辺含めて、城址の遺構などがないようなので断定的に言えない状況です。後で紹介します(大村)郷村記の「ほふまんの古城」(宝満城)項目には、この城の広さを示していると思われる内容で「(現代語訳)東西約93m、南北約11m」とあります。しかし、これは城址本来の姿にしては、あまりにも細長過ぎると思われます。私が思うに、このサイズは、山頂周辺の自然そのままの地形を表現しているものと推測しています。

 あと、近代なって郷土史の先生方が、この城址について城名程度は少しありますが、詳細に記述された書籍や論文はないようです。そのため今回書く内容は、2008年2月2日に第3回福重郷土史講演会が開催され、この時に講演された大野氏(大村市文化振興課)の話しや、その後のアドバイス
も参照しています。私自身5回ほどの現地調査をしましたので、その点も含めて今回書いていきます。とにかく、宝満城を語る史料(資料)が少ない状況です。

宝満城(遠望)写真の説明
 右上側写真の説明前に、この撮影地点について書きます。国道444号線周辺にある萱瀬出張所付近を進むと直ぐに中岳町に入ります。その国道周辺から撮った写真です。この写真中央部より、やや高い位置に(左右に走っているような)山の稜線があります。この稜線の中央部に円錐形に似た山がありますが、ここが宝満城のあった山頂(388m)です。

 ただし、この写真は、2011年1月17日撮影時のもので、この頃には山頂付近に高圧電線の鉄塔がありました。しかし、現在は撤去されていますので、あらかじめご了承願います。あと右側手前の小山みたいに見えるのが、中岳砦のあった所です。写真でも分かる通り、宝満城の周囲は全て山林という状況です。

2)宝満城と大村藩領絵図
  まず、右側の(縮小版の)大村藩領絵図をご覧願います。この画像では、やや分かりにくいですが、絵図下部に赤い色があります。この周囲で左側に薄い紺色に見えるのが郡川(こおりがわ、画像では左側斜め方向が上流)です。次に同じ赤色部分から右側方向に一筋の川の色がありますが、これが郡川の支流の一つである南川内川(みなみのかわちがわ)です。

 赤い所の直ぐ右上側方向に、尖った三角形の山に見える所があります。この山の中腹部に「ホウマン城」(宝満城)の文字があります。その右隣に、山頂をやや角ばった感じで描いてある山があります。この中腹部には「小城」との文字が書いてあり、これが中武砦(中岳城)です。

 この二つの山は、見た目まるで大小、親子の山みたいに繋がっているように見えますが、実際の地形では上記の右側写真(2011年1月17日撮影)でも分かる通り、直線で約600m離れています。また、この二つの城の間や周辺は、戦国時代や江戸時代当時の状況までは分かりにくいですが、現在は全て森林ばかりです。

 既に掲載中の 大村藩領絵図紹介ページなどにも書いていますが、この絵図は同じ江戸時代作成の(大村)郷村記より相当早く完成したものです。その関係から考えて、私は当時の萱瀬村に伝わっていた記録や伝承をそのまま絵図に描いたものと思っています。その意味からしたら、絵図にある「ホウマン城」(宝満城)の存在も位置も正確と推測しています。

3)宝満城と大村郷村記
 まず、(大村)郷村記に記述された「ほふまん城」(宝満城)の項目は、大村郷村記第二巻241ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。念のため2行になっている文章は、()内で1行にしています。また、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

中央上部、林の奥側=頂上部分が宝満城(手前中央の空き地=やや斜めの平地は高圧電線の鉄塔跡で宝満城址とは直接の関係はない

  なお、見やすくするため改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

「 一 ほうまんの古城
中岳荘屋(大村五郎兵衛私領荘屋)より卯辰の方にあり、高サ平地より貳町程、甚岨嶮なり、頂上大岩立、東西五拾壹間、南北六間程、野地にて、古松六、七株あり、水の手は城外寅卯の方貳町三拾間程の處谷間にあり、 東は高尾、西南ハ田原なり、此寨鳥甲の城の要害の爲に築かれし寨のよし云傳ふ

現代語訳について
 上記「 」内の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。

 また、(大村)郷村記は、宝満城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。ただ、この宝満城については、城址位置関係や周辺の地形説明がほとんどのため、あまり問題はないとも言えます。

 <一つ ほうまんの古城(宝満城) 中岳(郷)の庄屋(大村五郎兵衛の私領の庄屋)より東南東の方向にある。(城、山の)高さは平地より218mほどである。(山の)頂上には大岩がたっている。東西約93m、南北約11mほどである。野地面で古い松が6〜7株(本)くらいある。水は城外の東北東へ約272mほど(下った)の所の谷間にある。(城址から見て)東側は高い尾根があり、西南側は田畑である。この砦(宝満城)は鳥甲城の防衛のために築かれた砦と言う説が伝わっている。

谷間の泉(宝満城址から東へ約300m行った所に二か所の泉があり、上記はその内の一か所)

注:害とは=1 地形がけわしく守りに有利なこと。また、その場所。「要害の地」「要害堅固な城」2 戦略上、重要な場所に築いたとりで。要塞(ようさい)。「天然の―」3 防御すること。用心すること。(国語辞典の大辞泉より)

写真説明の補足

  右側に、宝満城周辺と、城址から少し離れた所にある泉の写真があります。上側(宝満城址の周辺)写真は、中央上部に林が見えますが、その奥側(頂上部分)が宝満城址です。手前中央部の空き地(やや斜め斜面の平地)は、数年前まであった高圧電線の鉄塔跡です。広さは、目算で城址に向かって、横幅約20m、奥行き約30mあります。ただし、この空き地は、宝満城址とは直接の関係ないと思われます。

  次に下段(谷間の泉)の写真は、城址から東側方向に車道を下ると目算で250m位に谷があり、そこに二か所の泉があります。その二つの泉間は、5m位です。掲載写真は、その内の一か所で現在(コンクリート製)用水路の上側から水が出ていました。この二つの泉は、先の(大村)郷村記と、その現代語訳「水は城外の東北東へ約272mほどの所の谷間にある」との内容と見比べてみて方角、距離とも大体一致するものです。

  戦国時代、宝満城に人が常駐していた日には、推測ながら、この二か所の泉から水を汲んで飲料水その他に利用していたと思われます。他の場所も私は探しましたが、この二つの泉の場所が、宝満城から一番近かったと思われます。

大村郷村記の解釈上の補足について
 先の(大村)郷村記の最後の行に「此寨鳥甲の城の要害の爲に築かれし寨のよし云傳ふ」=現代語訳<この砦(宝満城)は鳥甲城の防衛のために築かれた砦と言う説が伝わっている>とあります。この点について上野の解釈上の補足を書きます。この一文は、地域伝承を(大村)郷村記に記述されていることを知りながらも若干の疑問も感じました。

宝満城址(頂上部周辺には平らな地面がある。6畳2間程度ならば場所は数か所あると思われる)

 私は、この一節を見て宝満城へ5回ほど、あるいは他の城との関係で現地周辺も含めて色々と調べてみました。さらには、グーグルアースや航空写真付きの地図検索でも、この周辺を何十回となく見てみました。そして、主に次の二つの疑問を持ちました。

(1)なぜ、遠い距離(直線でも3km前後)にある鳥甲城との関係記述は書いてあるが、近くで全体が見える距離(前同約600m)にある中岳砦(城)や(少し離れてはいるが)切詰城、さらに平地にあった尾上城との関係は書いていないのだろうか?
(2)互いに距離も離れ、ニ城とも急峻な山城だったのに、なぜ宝満城が、「鳥甲城の防衛のため(戦略上)に築かれた砦」と言う伝承だったのか?

などです。上記(1)(2)にも互いに関係がありますので、補足説明はまとめて書きます。上記の事柄でも、特に大きな疑問は、ニ城が他の城に比べ近い(直線で約600m)の位置にある中岳砦(城)のことが全く書かれていないことです。ただし、大村藩領絵図には、宝満城のことを「ホウマン城」としるし、中岳砦(城)を「小城」と描いてあることから、この城名表記はまるで大小か親子の関係みたいにも思えます。

 しかし、(大村)郷村記にニ城の関係を記していないのは、私の全くの推測ながら、このニ城がお互いに必要上の関係あるいは活躍した年代差があるのだろうかとも考えましたが、これ以上は考えきれませんでした。あと、宝満城と鳥甲城との関係ですが、これは地形上と距離の関係で、「本当に、このニ城は互いに戦略上や防衛上との関係があるのだろうか?」との疑問が出てきます。

 このニ城の距離間は、(鳥甲城が現在の鳥甲摩利支天宮の境内として)直線でも3km前後あります。しかもニ城の周辺は、いずれも急峻で400m〜600m近くの山が連なる所ばかりですから、狼煙(のろし)を高く上げない限り。簡単な連絡さえも取れなかったでしょう。たとえ狼煙を確認しても簡単に登れない(行けない)地形や山道ばかりでは、はたして「(ニ城間に)戦略上や防衛上との関係があった」と言うのでしょうか。

 あと、鳥甲城紹介ページに詳細に書く予定ですが、仮にニ城に関係があった場合、鳥甲城の位置(所在地)の関係が出てくると思っています。実は、(大村)郷村記に書いてある鳥甲城の方角や距離間は、実際の地形上から言えば違っているのです。一応、私は鳥甲城の位置は、鳥甲岳の頂上(三角点)から見てみて東側尾根にある現在の鳥甲摩利支天宮の境内としています。

 ただし、今でも私は、「鳥甲城の位置は鳥甲摩利支天宮とは反対側になる頂上西側周辺だったかもしれない」との疑問点も払拭できていません。むしろ、この西側位置が宝満城との関係からすれば、まだ(大村)郷村記内容にあるような近い関係があるからです。いずれにしても、上記に書いている(1)(2)の疑問項目に答え出すにしても、何分にも基礎資料(史料)が少な過ぎて、現時点では解明できない状況です。新たな事柄でも発見されれば、この項目は改訂したいと思っています。

宝満城(黄色部分=山の頂上部で、城址はの所あたりと推測される。ただし、この地図は数年前まで高圧電線やその鉄塔があった当時のものである)

4)宝満城を概要地図から推測して
 まず、右側の概要地図をもとに説明します。画像右側にある薄い茶色で幅広いのが、車道(アスファルト舗装)です。そこから左側(西方向)に伸びる小さな幅で同色の道がありますが、これが通常、頂上部に向かう登り道(現在、コンクリート舗装)です。

 中央部の黄色部分が、標高388mの頂上部周辺です。東西間(画像上では左右)の長さは目算で100数mで、南北間(前同で上下)の長さは10数m〜15m位あります。その黄色部分の中でもの印(しるし)がある所は、宝満城址と推測される場所です。

 Bは、宝満城と直接関係ありませんが、このページ上から3番目写真との関係から、ここが高圧電線の鉄塔が数年前まであった場所です。四角のマーク(鉄塔)から伸びる黒色の実線は、高圧電線を表示していました。

 そのBの周辺に小さな点線があります。これは、自然石で出来た石垣です。目測で東西・南北間とも20m〜30m位ありました。この石垣は、平たい石を中心に自然石ばかりで築かれています。一部に石がない場所もありました。あと、この石垣の目的は、土地が流れないように、あるいは広い平面を確保するためと言えます。

 これが高圧電線の鉄塔建設時に造られた可能性が強いと思いましたが、私個人では断定できませんでした。もしも、戦国時代に築かれた石垣と仮定するなら、大変興味深く、さらには城址の位置自体(の印=現在は推定である)にも影響を与えるものと考えています。

 あと、黄色部分(頂上部=城址付近)の周囲には岩場あるいは大きな石が多いです。特に、概要地図に岩場と書いている部分は、目測で高さ10m〜15m位、長さ40m位の直立した岩場が連なっていて迫力があります。たぶんに大村郷村記にある「頂上大岩立(現代語訳:頂上には大岩がたっている)」との記述は、主にこの岩場を指していると思われます。

 上記の岩場以外にも、の周辺にはちょっとした車庫位の大きな石が四方にあり、Bの周辺に同様にあります。あと、Cの所には、神社系と思われる宝満社の石碑があります。(この件は後で紹介予定)

 頂上部周辺は、細長い形状ながら私の推測で6畳二間程度なら、どの地点でも小規模な城(砦)なら建設可能と考えました。たぶん、山の上ですがら長期間ずっと何十名規模で常駐する目的ではなく、少人数で敵側の見張りや他の城への緊急事態通報などに使用された砦ではなかったかとも想像しました。大きさも現在の民家より小さく、農業用の小屋程度だったと思われます。

宝満社(正面の文字が名称、右側面に建立者と建立年も彫られている。石碑の土台は平石などで造られている)

城址周辺部の補足
  宝満城址周辺について、何かないか私なりに探しました。しかし、直立した横幅のある岩場と軽自動車並みかそれ以上に大きな石がゴロゴロある以外に、目立ったものはなかったようです。ただし、上記概要地図のBの鉄塔跡地西側の端から10m弱下った所(概要地図のC位置)には、1基の石碑がありました。(右側の写真参照)

 この石碑の正面や右側面には、次の「」内の名称、建立年と建立者名の碑文もあり、いずれも肉眼でも確認できました。「宝満社 昭和九年六月立之 献主 後藤傅太」(注:昭和9年=1934年)

 この石碑は、戦国時代の宝満城とは直接関係ないと思われます。しかし、何故ここに1934(昭和9)年に建立された宝満社があるのか、その目的や理由までは調べきれませんでした。

 あと、この山自体は、国道444号線沿い例えば萱瀬出張所付近から遠望しても円錐形の山容に見える通り、頂上部周辺から山麓までは、かなりの急傾斜地となっています。(このことは、上記概要地図で標高線の間隔からも判断できると思われる)

 また、当然のことながら現在のように車道などが、戦国時代にある訳がなく、当時は森林作業の道が、ここに登ってくるコースだったとも推測されます。現在の車道は、かなり遠回りして車で登ってきますが、昔は山麓=中岳砦(城)付近から、もっと近い道があったようです。

まとめ
  このページで何回となく書いてきましたが、宝満城を語るにあたっての基礎資料(史料)が少ない状況で、逆に色々と推測や想像もされてきた城址の一つだったとも言えます。ただ、江戸時代の大村藩領絵図に城名があり、(大村)郷村記にも少ないとはいえ、その項目や記述内容がある以上、この地に宝満城が存在したのは確認できるといえます。

 私の推測ながら長期間(年数)にわたって常に何名か何十名かの武士が常駐していた城(砦)とも思えません。この宝満岳(標高388m)へ行くとすると山麓からは、かなりの急登となります。今みたいに車道が近くまであり、車で人、武器や食料も運べるなら何とかなりますが、全て人力と歩くしかない戦国時代に、それらを確保をするのは容易ではありません。

 先の記述と重複しますが、やはり、宝満城は戦国時代、常時武士がいた訳ではなく、短期間たとえば風雲急を告げる前くらいに平地から若干名で登り、周囲や敵側の監視をしたとか、また味方のいる他の城へ情報を伝える役目があったと考えた方が順当のような気がします。当時のことですから、全く戦闘用の城役割を全否定する訳ではありませんが、戦するには大村内において(敵側にとって)最も適していない城の一つだったのではと思えるほどです。

 私は、今後も機会あれば宝満城についての調査は続ける予定です。この後、もしも新たな事柄が出てきましたら、このページを改訂したいとも思っています。何か情報お持ちの方は、連絡メールなどもして頂ければ嬉しい限りです。(フォームメールは、ここからお願いします)

初回原稿掲載:2012年12月22日、第2次掲載:2010年12月26日、第3次掲載:2010年12月28日、第4次掲載:2013年1月2日、第5次掲載:2013年1月3日、第6次掲載:2013年1月5日、第7次掲載:2013年1月7日、第8次掲載:2013年1月8日、第9次掲載:2013年1月9日
参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


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