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大村の城シリーズ 尾上城(おのうえじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  尾上城(おのうえじょう)
(2)別名  中構城(なかがまえじょう)、峰城(みねじょう、後世に峰氏が長年居城したので)
(3)所在地  大村市田下町<字「尾ノ上(おのうえ)」>
(4)築城年代  (詳細は不明) 
(5)形式・特徴  平城
(6)城主など  築城主は不明 
(7)現状(遺構)  氷川神社
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記
(9)土地や管理など  -

(10)補足、感想など
 <尾上城の情報などについて>  この城の存在は、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に「峰の古城」として書いてある。大村藩領絵図には、尾上城あるいは中構城さらには後世の名称である峰城、この3つの名称とも描かれていない。

 この絵図には、萱瀬地区の6城(砦)と限定しても掲載中の切詰城中岳城宝満城は、城名がちゃんと描いてある。(参考までに、福重地区にある城は大村郷村記に記述されていない岩名城江良城含めて5城全て城名称が描いてある)

 この城は、平城ながら萱瀬の中心地に位置し、また菅無田合戦で激闘後に戦死した武士なども住んでいた可能性のある所なのに、なぜ、大村藩領絵図に城名が描いていないのか、やや不思議な感じもする。同じ平城の岩名城あるいは標高400mを超す山の上にある切詰城宝満城よりも小さくて有名でなかったと言うことだろうか。

 それは、たぶんに城や砦と言うより戦国時代は、普通の屋敷あるいは館(やかた)程度だったのではないだろうか。そして、後世の落ち着いた頃に高い石垣、楼門・枡形などが造られ、それが江戸時代編纂の(大村)郷村記に「峰の古城」(尾上城)として書かれたと推測される。

 毎回の城紹介で述べている通り、(大村)郷村記の内容は、江戸時代の大村藩がおこなった創作(偽装)の歴史で有名な「大村純伊」伝説と「中岳合戦」説が書いてある。それは史実の裏付けもないし、仮に「合戦」があったとしても年代が、全然合わない。この尾上城の項目でも、その「大村純伊」伝説と「中岳合戦」説が登場してくる。

 今回、尾上城自体の基礎資料がないので(大村)郷村記の内容も書いているが、その点は充分な注意が必要であることを、あらかじめお断りしておくので了承願いたい。なお、尾上城について、新たに何か有力な史料(資料)が出てきたら、このページの全面改訂含めておこないたいと考えている。そのような点も、ご了承の上、
このページはご覧下さい。


1)尾上城を紹介するにあたって
 この尾上城(別名:中構城、後世では峯城)について、江戸時代の大村藩領絵図には城名称が描いてなく、(大村)郷村記には、「峯の古城」の項目で、あまり多い文章量ではありませんが、記述されています。近代になって郷土史の先生方が、この城址について城名程度の記述はいくつかありますが、城の大きさ、造りや形式などを詳細に書かれた論文はないようです。

 ただし、『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、後の項目で掲載)には紹介されています。あと、このページでは2008年2月2日に第3回福重郷土史講演会が開催され、この時に講演された大野氏(大村市文化振興課)の話しや、その後のアド バイスなども参考にして書いています。

 私は、この尾上城址=現在の氷川神社のある田下町には、親戚が何軒かありますので子どもの頃から数えきれないくらい行きました。ただし、郷土史調査目的としては、城址や馬頭観音調査も含めて10回位でしょうか。国道444号線周辺で車なら直ぐに行ける場所で、しかも、萱瀬出張所や萱瀬郵便局の近く、つまり萱瀬地区の中心地でもあるので大変分かりやすくて行きやすい城址です。

尾上城址(氷川神社)周辺(大村市田下町、写真中央の鳥居の奥:氷川神社、鳥居左側の赤色屋根:萱瀬郵便局、右側の白い建物:萱瀬出張所)

 なお、氷川神社の駐車場脇には、戦国時代に尾上城の城主だった峯弾正の記念碑(子どもの背丈ほどある丸い大きな自然石)もあります。その左側には小さな3基の石塔があり、これは峯弾正とともに菅無田合戦で戦死した3人の墓碑か記念碑と思われます。

尾上城写真の説明
 右側の写真説明文の通り、中央の白く見える鳥居の奥側が現在の氷川神社の本殿、同じ鳥居左側の赤色屋根が萱瀬郵便局、右側の白い建物が萱瀬出張所になります。尾上城(中構城あるいは後世の峰城)は、どこにあったかと言いますと、後で現在の書籍や江戸時代に編纂された(大村)郷村記の項目で、詳細は紹介予定です。

 この項目では簡単に書きますが、先の書籍類だけではなく、私が地元の方に聞いたことも含めれば、尾上城は、現在の氷川神社、境内、駐車場及び道路さらには萱瀬出張所の敷地近くまであったようです。写真は掲載していませんが、舛形(ますがた)に使われていたと言う石(自然石)も道路脇に多数残っています。

 敷地は、この石部分も含めた道路付近から後方は郡川に下る土手まであったと言われていますので、ほぼ四角形の敷地があった想像しています。ただし、既に書いていますが、近世に築城された城の形と言うより、尾上城は、館(やかた)あるいは屋敷と言う形容詞がふさわしい城址と思われます。

尾上城が紹介されている書籍
 『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の21ページに、次の<>内のことが書いてあります。  この城は、現在の氷川神社の所にありました。古い城名を中構城ともいいます。 江戸時代末までは城の遺構があり、大手の城壁と楼門(ろうもん)があったと伝えられてい ます。明治19年、佐世保鎮守府が造られた時、多良岳山腹の大木の杉が伐り出さ れました。長い木材の搬出に伴い、萱瀬往還が大改修され、城の遺構が消えた といわれます。

 東・南・西の三方は、その昔高い石垣に囲まれ、北は郡川に面 して断崖絶壁で、守りに堅い城だったといわれます。古くは一瀬一族が居城し、 後に峰一族が入ったと伝えられ、後世の名を峰城とも呼ばれました。一説には(注1)文明年間(1469〜1486)有馬氏に攻められたとも語られています。ここには数年前まで「虎の松」といわれる有名な大木がありました。

 これは峰氏の先祖が、文禄の役に従軍し、北朝鮮から持ち帰り、記念樹として植えたということです。さまざまな伝説の多い城跡でもあります。明治初めに、旧萱瀬村の氏神が鎮座され、下萱瀬の熊野神社・上萱瀬の赤山大明神を合祀して氷川神社として祭ってあります。 現在は、その地域内に10戸余りの民家もあります。 

(注1):この文明年間のことは、(大村)郷村記からと思われる。このことは、江戸時代の大村藩がおこなった創作(偽装)の歴史で有名な「大村純伊」伝説や「中岳合戦」説に基づいている。詳細は、後の大村郷村記の項目に書く予定だが、何の史実の裏付けもないし、仮に、「中岳合戦」「城攻め」があったとしても年代が、全然合わない事柄である。

2)尾上城と大村郷村記
 まず、(大村)郷村記に記述された「峰の古城」(尾上城、後世の峰城のこと)の項目は、大村郷村記第二巻243ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。

氷川神社の境内(中央奥側:本殿、本殿右側の赤い屋根:手水、右端側:相撲場、左側:ふれあい郷土館)
氷川神社の前(中央左右:高い石垣、中央奥側:本殿の屋根、手前側の道路近くに升形があったと言う)

 できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

「 一 峰の古城 當邑中構郷にあり、今の峰宇多八屋敷是なり、四方 高石垣にて、門の左右に櫓門舛形今に現存す、後は大河なり 或書ニ曰、文明十四年、純伊此城に籠りて有馬貴純と戦ひ、敗北して後、加々良ヶ嶋に潜居すと云、家記とは相違す 

現代語訳について
 上記太文字の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、尾上城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

 特に、毎回の城紹介ページでも書いていますが、「大村純伊」伝説などが記述されている場合、その内容は江戸時代、大村藩の創作(偽装)の歴史と言えます。この創作(偽装)の件については、現代語訳の後に補足部分も書いています。

  峰城(尾上城の後世の呼称)、当村(萱瀬村)の中溝郷(なかかまえごう)にある。今の峰宇多八の屋敷が、ここ(敷地)である。(敷地の)四方には高い石垣があって、門の左右に楼門(ろうもん)(注2)
や枡形(ますがた)(注3)が現在も残っている。(敷地の)後方は大河(郡川)である。ある記録によれば、(注1)文明14(1482)年に(大村)純伊が、この城に籠り(こもり)有馬貴純(ありまたかずみ)と戦い、敗北した後、加々良ヶ嶋(加々良島=かからじま)に隠れ住んでいたと言う。(この説は)大村家の記録とは相違している。 

(注2)
楼門(ろうもん)とは、2階造りの門のことである。(大辞泉より)
(注3)
枡形(ますがた)
とは、城や武家屋敷の出入り口(門)に升のような四角の空間を設けて周囲を石垣で囲んだ作りである。
(注1)
:先の項目の(注1)と同じ。つまり、この「大村純伊」伝説は創作(偽装)の歴史である。

補足:先の項目の(注1)と同じ説明で申し訳ありませんが、(大村)郷村記は江戸時代に編纂された貴重な記録の一つです。しかし、この記録集は、例えば大村家を偉大に見せるとか、あるいは戦などの描き方でも他に裏付け資料がないものが多いです。その中でも、特に大村氏系図と「大村純伊」伝説関係は、二大歴史偽装と言うべき内容で注意が必要です。

 萱瀬にある中岳砦(城)などで、この「大村純伊」伝説関係が(大村)郷村記や、それを元に書かれた近代発行の書籍類にも登場しています。しかし、それらは全て創作(偽装)の内容と言えます。今回の尾上城に書いてある「文明年間・・純伊・・」の文章内容も同様で、注意が必要です。

3)大村藩領絵図と尾上城
 まずは、大村藩領絵図(このページ右側上から4番目画像)をご覧願います。中央部に「尾上」という字(あざ)名があります。本来ならば、尾上城(後世の峰城)は、その文字の左上側に位置し、薄い紺色で幅色い線=郡川に挟まれた場所にあったはずです。念のため今の氷川神社は明治時代に現在地に二つの神社が合祀し遷座されたので、この絵図に図示されていません。逆に遷座前の一つの神社「赤山大明神(せきさんだいみょうじん)」の名前が絵図下側に見えます。

大村藩領絵図の尾上付近(本来ならば尾上の文字左上側に尾上城もしくは峰城の文字がないといけないのだが。城は屋敷程度か)

 しかし、冒頭の項目でも述べた通り、この絵図には、萱瀬だけの6城(砦)と限定しても先に紹介中の切詰城中岳城鳥甲城は、呼称違いはあっても城名がちゃんと文字で表示してありますが、この尾上城に関しては描いてありません。(参考までに、福重地区にある城は大村郷村記に記述されていない岩名城江良城含めて5城全て城名称が描いてある)

 大村藩領絵図について、私は、各ページにこれまで何回となく「(大村)郷村記より編纂が相当早く、その内容についても創作(偽装)の多い(大村)郷村記より信用性がある」と申し上げてきました。なぜなら絵図は現代で言うなら生真面目な測量士さんが計測し、城址や名所旧跡などをあったまま、伝承通りに図面に描いているからと思えるからです。

 尾上城と同じような平城でさらに規模も小さかった福重の岩名城は描いてあるのに、この尾上城(峰城)の名称が先の絵図(右側の画像)にないのは、色々と書いてある(大村)郷村記内容と対比すれば逆に違和感さえ覚えます。

 ここから私の想像です。この尾上城(中構城、後世の峰城)は、大村藩領絵図が作成された年代に、それよりも相当後に出来た(大村)郷村記に書いてあるような「峰の古城」との名称や規模の伝承があったのか、どうかという点です。仮にあったとしても、記述内容通り規模の大きい屋敷みたいな造りが、最初から存在したのだろうかということもです。

 ただし、この私の想像を肯定するにも否定するにも、それらを証明する史料がないので何とも言えません。たぶんに戦国時代には普通の民家よりも大きい程度で、江戸時代になって徐々に侍の屋敷として、峰家が整備拡充していき、そのことが、(大村)郷村記に書いてあるような敷地や楼門・枡形の造りになったのではないでしょうか。

4)概略地図と尾上城
 尾上城(中構城、後世の峰城)は、(大村)郷村記や『大村市の文化財』を参照すれば、現在の氷川神社やその周辺にありました。しかし、敷地の範囲や広さについて、どれも詳細な境界事項などは表示されていません。

(想像図)尾上城址概略地図(赤い点線は推測による城址の概要境界線境。升形は萱瀬郵便局横にある一の鳥居前の道路付近にあったと言う)

 そのため、まずは大村郷村記内容(現代語訳で)「今の峰宇多八の屋敷が、ここ(敷地)である。(敷地の)四方には高い石垣があって、門の左右に楼門(ろうもん)や枡形(ますがた)が現在も残っている」を参照しました。これを素直に解釈すれば、「高い石垣」に囲まれた所と楼門枡形があった門くらいまでが、峰氏の屋敷跡と言えます。

 また、萱瀬の方へ、同主旨のことで質問しました。すると、概要次の「」内のことを教えて頂きました。「1912(明治45)年に峰氏から購入した土地は、道路より上側だった」<画像中央部に左右(東西)に走る旧道(バス道路)があるが、その道路よりも北側(画像の上側)だった>

 この答えは、ある意味、先の大村郷村記内容と一致しています。そうなれば、今の氷川神社の本殿、境内や駐車場だけになるのかもしれませんが、私はそうではないと思っています。この根拠の裏付けとして、書籍類では大村市立萱瀬小学校・創立百年記念誌(1974年2月22日、創立百年記念誌編集委員会発行、注:萱瀬の歴史関係は河野忠博氏が執筆)の56ページに「尾の上城址」の項目があります。その中で次の「」内が、敷地に関してヒントになりました。

 「尾の上城址 氷川神社及びその一帯を言う。一の鳥居前県道から右に民家の裏を田圃沿いに石垣下を行く旧道は(この道が江戸時代末までの萱瀬往還の真の姿を残す)田中酒店の前で県道に合流するが、旧尾の上城の全域で県道が明治十年から十三年頃出来て尾の上城の中央を突き抜けたため形状が一変したものである。(後略)」

 この内容からすれば、尾上城址は、郡川から旧道(バス道路)までのライン、つまり今の氷川神社だけではなく、もっと南側も東側へも広かったということです。このような書籍内容や私の想像も含めて、今回、先の画像に赤い点線で概略の境界線を描きました。ただし、戦国時代の城の構えや江戸時代の峰氏の敷地全体からすれば、この範囲より違っている可能性もありますので、その点はご注意願います。

大村藩領絵図の尾上付近(本来ならば尾上の文字左上側に尾上城もしくは峰城の文字がないといけないのだが。城は屋敷程度か)

 念のため、私の推測が仮に正しいとしたら南北約125m、東西約130mあります。この広さを見ると、改めて違う疑問も湧いてきます。(この件は、下記に書いていきます)

峰氏の屋敷跡と大村藩領絵図
 既に「3)大村藩領絵図と尾上城」の項目で、この大村藩領絵図と尾上城の関係は書いたのですが、再度右側の絵図(画像)と、その上側にある概略地図の境界線をご覧願います。この境界線は、あくまでも私の推測で描いたのですが、大雑把な数値として南北約125m、東西約130mです。

 これだけ敷地の広さも規模も大きければ、なぜ尾上城について絵図に文字(城名称)も形状も描いてないのでしょうか? ご参考までに、福重の岩名城江良城の規模は、この尾上城より推測ながら三分の一程度、好武城でも三分のニ程度でしょう。また、同じ(当時)萱瀬村で、山の上にある切詰城宝満城中岳砦(城)などは別名称含め城名は、ちゃんと描いてあるのです。

 尾上城は平城で、しかも萱瀬村の中心地、さらに言えば菅無田合戦で激闘後に戦死した武士なども住んでいた可能性のある所と思われます。たとえ戦国時代は、整った城の形式ではなく屋敷程度であったとしても、もしも他の城で描き忘れがあっても、この尾上城だけは最優先に記すべき城(屋敷)ではなかったと思えるのですが。しかし、再三申していますが、絵図には城らしき名称も形状も、ご覧の通り何も書いてありません。

 私は、大村藩領絵図を金科玉条とか内容の100%が正しいとも思っていません。しかし、創作(偽装)記述もある(大村)郷村記内容より、相当速く完成し、その内容も地形だけでなく神社仏閣や城址などは、淡々と正確に描いてあることも事実です。そのような絵図に、尾上城が描いていないのですから、色々なな疑問も湧いてきます。ただし、これ以上の推測・想像を書くのは、止めておきます。

5)高い石垣や城にまつわる伝記など
・古く見える東側の石垣について

  既に(大村)郷村記や『大村の文化財』の項目でも、ご紹介しました内容で「高い石垣」などについて書きます。右下側2枚の写真をご覧願います。現在、氷川神社の鳥居側を通らず直接、本殿へ登るスロープが駐車場の中央部にあります。この登り坂を中心に、仮に「東側駐車場」(右側写真)、「西側駐車場」(左側写真)とします。

氷川神社前の西側駐車場の石垣(こちらは新しく見える。本殿へ行く右端側のスロープは元々なかった)
氷川神社前の東側駐車場の石垣(この石垣の方が古く見える。特に下側部分が。左端側は左写真と同じスロープ)

 「東側」、「西側」の両駐車場にある石垣は、どちらも目算ながら4〜5m位ありそうな高さです。あと、素人目の推測ですが、「西側」の石垣は、新しく近代工法でつき直した造りに見えます。形も整った石が多く、苔や雨水による汚れなども少ないようです。

 それに比べ、「東側」にある石垣は古い感じに見えます。特に、下側にある石は、苔や汚れも含めて古いもので、サイズも様々です。その上側の石垣は、下側に足してつき直したようにも見えます。

 私には、どこから、どこまでが戦国・江戸時代の造りなのか、あるいは近代なのか、年代測定までは分かりませんが、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に書いてある「高い石垣」のままの姿で残っているのは、たぶん「東側駐車場」(右側写真)にある石垣かもしれません。

・尾上城にまつわる民話や伝記について
  尾上城(現・氷川神社の周辺)には、先の項目で紹介しました『大村の文化財』の<(前略) ここには数年前まで「虎の松」といわれる有名な大木がありました。 これは峰氏の先祖が、文禄の役に従軍し、北朝鮮から持ち帰り、記念樹として植えたということです。 (後略)>を始め、様々な事柄にまつわる話が残っています。

峯弾正の碑(氷川神社の駐車場脇)<左側3基は「戦死者の石塔」>

 このように、興味深い内容もあるのですが、このページには、下記に見出し程度を書いておきます。詳細は、「大村の民話と伝記」(1985年2月1日、大村史談会発行、著者:河野忠博氏)の「44.尾上城の奇怪」(214〜219ページ)をご覧願います。そこには、下記の見出し付きで内容が詳細に書いてあります。
その一 朝鮮松のこと 、 ・その二 うどんげ 、 ・その三 大蛇(おろち)のたたり 

 上記の内容は、民話や伝記ものとして分かりやすく書いてありますので、子どもさん、学生さん向きにも、いい内容だと思っています。あと、氷川神社の駐車場脇には、菅無田合戦で激闘むなしく戦死した峰弾正の碑(丸い大きな自然石で表面に「南無妙法蓮華経」の文字が彫ってある)を始め3基の石塔があります。その駐車場の東側から本殿へのスロープを登ると、右側に「権田の馬頭観音」などの石仏・石塔類がまとまってあります。

まとめ
  尾上城(中構城、後世の峰城)について、先の項目までずっと書いてきましたが、改めて概括的に言えば、「近世に見られる城のイメージではなく、戦国時代より仮に存在していたとしても普通の民家より敷地も建物も広く大きい武家屋敷ではなかったのか」と想像しています。そして、その相当部分が、平和になった江戸時代になって整備・拡張されたと推測しています。

 これまた何回も書きましたが、江戸時代も終わり頃に完成した(大村)郷村記より、相当速く測量し描かれた大村藩領絵図に全く城名さえ表示されていない、城址(あるいは規模の大きい屋敷)の雰囲気さえも絵図には描き込まれていないので、私は江戸時代の整備・拡張は相当時代も下った頃になされたのではとも推測しています。

 このことは、実は城名の呼び方でも、中構城(由来は字の中構郷から)、尾上城(前同、尾ノ上郷から) 、峰城(後世に峰氏が居住した)でも、その一端や変遷が分かるものです。たとえ大きな屋敷程度であっても城址としては、明治時代の道路拡張時になくなった楼門・枡形さらには高い石垣などに見られたのでしょうが、今は石垣や敷地規模が当時を想像するものとなっています。

・童謡”村祭り”を思い出す氷川神社例祭(秋のおくんち)

 戦国時代の城紹介とは違いますが、現在の氷川神社の本殿、境内、様々な記念碑・石仏、ふるさと郷土館なども含め、大村市内にある城址として尾上城址は見どころの多い場所でもあります。

 中でも毎年秋に開催される氷川神社の例祭(秋のおくんち)は、萱瀬地区全体で取り組まれています。その内容も神事、浦安の舞、各郷土芸能、黒木太鼓、歌や踊りの芸能披露、相撲大会、少年剣道などがおこなわれ盛り沢山です。行事への参加者や見学者含めれば萱瀬地区約2千人の内、述べでその半数近くが参集しておられるのではないかと思える位の参加率です。

 そして、周囲にある木々や参道の出店含めて、私は童謡の”村祭り”の歌詞にある「村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日」、「年も豊年満作で 村は総出の大祭」のイメージが、ぴったりくる祭りだなあと思って見ました。おくんちの日だけでなく、この城址は、国道444号線にも近く、目印としては萱瀬出張所や萱瀬郵便局なども直ぐ近くですから、迷うことなくアクセスできるでしょう。機会あれば、夏の蛍シーズンや冬のイルミネーション時期の見学も含めて、氷川神社周辺の散策はいいのではないでしょうか。

初回原稿掲載:2012年12月31日、第2次掲載:2013年1月12日、第3次掲載:2月2日、第4次掲載:2月4日、第5次掲載:2月日、第6次掲載:2月4日、第7次掲載:2月5日、第8次掲載:2月6日、第9次掲載:2月11日、第10次掲載:2月12日、第11次掲載:2月13日、第12次掲載:2月15日、第13次掲載:2月16日、第12次掲載:2月17日、第12次掲載:2月19日、第13次掲載:2月21日
参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


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