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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」
 なぜ、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の名称にしているか
掲載中
 概要紹介(戦国時代に活躍した武将の碑)
掲載中
 1)碑の大きさや石材など
掲載中
 2)碑文内容
掲載中
   (イ)碑の表面文字について
掲載中
  (ロ)碑の裏面文字について(概要)
掲載中
 3)峯家3武将(3兄弟)の活躍について
掲載中
 4)記念碑の評価について
準備中
 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
準備中

なぜ、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の名称にしているか
 このページ、最初は峯将監の碑と言う名称で掲載を開始していました。そして、概要紹介1)碑の大きさや石材など2)碑文内容まで掲載していました。その後、さらに詳細な内容を書こうと調べていましたら、この碑の名称そのものに疑義が生じてきました。ただし、それは碑の名称に関係する箇所だけの問題で、それ以外の碑の所在地・大きさ・碑文内容など事実関係は、同じですから問題ありません。<念のため、名前の読みは、峯弾正(みね だんじょう)峯将監(みね しょうげん)である。長男が峯釆女(みね うぬめ)、2番目が弾正、3番目が将監である>

 私が、碑の名称の根拠にしていたのは、先に(下記の)概要紹介項目にも書いていますが、1984(昭和59)年3月発行の萱瀬物語第一巻(萱瀬開発振興会・萱瀬物語編さん委員会)27ページ下部に碑の写真付きで紹介されている箇所(左側の白黒画像)を参照していました。

 ここには、ページ番号の上部に(左側の画像下部にある写真説明文字=)峯将監の碑、峯弾正外戦死者の墓と紹介されています。私は、この写真説明文を見て「右側の丸い大きな自然石が峯将監の碑で、左側の小さな3基が菅無田合戦で戦死した峯弾正以外の3人の墓碑だろう」と解釈しました。

 ただし、私は、この碑の調査段階時(2012年5月初旬頃)に、「なぜ、戦国時代、郡村(現在の郡地区)に住んでいた峯将監が、その碑として萱瀬村(現在の萱瀬地区)にあるのだろうか?」、「峯将監は菅無田合戦の激戦に直接参加していないのに、なぜ他の戦死者3人の墓碑と一緒にあるのだろうか?」と言う素朴な疑問は持っていました。

 しかし、碑の表裏面を見て、明治時代の峯(峰)一族の子孫が施主になっての建立と分かりましたので「明治時代の子孫ならば江戸時代か近代になり郡村から萱瀬村に引っ越した可能性があるなあ。その人が先祖を偲んで石碑を建立しても、別段おかしくはないなあ」と解釈していました。

 つまり、萱瀬物語第一巻の写真説明文を、それ以上、疑わなかったのでした。それに、結果論にしかなりませんが率直に申し上げて「地元・萱瀬の団体が書かれた写真説明文は、地元だから良く知って書かれたのだろう。この紹介文が正しいのだろう」と言う先入観もありました。さらに、今回は碑の拓本について、周囲の金網が邪魔して作業できず、大きな文字を中心に写真と目視だけだったことも少し慎重さと調査時間を欠き、その要因もあるかもしれません。

 そして、そのような経過もあって初回掲載分の2012年6月2日以降から3回ほど更新してきました。さらに、詳細内容を書こうと、峯(峰)一族が大正時代に建立された(寿古町にある)キリシタンに殺害された峯阿乗の碑裏面文字の建立者などを見ました。すると、今回の明治時代に建立された「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の施主=峰卯太八と、先の峯阿乗の碑建立者の中に一文字違いますが、峯宇多八と言う名前がありました。

  この方は、峯阿乗の碑建立者の中に、峰釆女峰将監の子孫とともに彫られている峰弾正の子孫になる方でした。つまり、(私の推測ながら)峰卯太八氏は、萱瀬にある碑を明治時代に建立し、その後、大正時代にも他の子孫家系と一緒に峯阿乗の碑を建立されたと言うことです。

 この人が、峯弾正の子孫である以上、今回、萱瀬、氷川神社駐車場脇にある碑は、(萱瀬物語の写真説明文の)峯将監の碑ではなく、峯弾正の碑ではないかと言うのが私の疑問です。もしも、この解釈が成り立つならば、私が5月の調査段階で持っていた先の二つの疑問事項も納得するものです。あと、峯阿乗の碑みたいに(表面に彫ってある)「峯阿乗之碑」の文字みたいなものがあれば、萱瀬物語の写真説明文も私も含めて、このようなことにはならなかったと思われますが、碑には名称や建立目的などはないようです。

 このようなことから、今回の碑は、峯弾正の碑ではないかと思われますが、地元・萱瀬の方が作成された萱瀬物語第一巻の写真説明文を完全否定する決定的な根拠資料も、現時点ではない状況です。私は、このページで碑の名称について、疑義が生じるようなことを書いてしまいまして閲覧者の皆様、すみませんでした。また、この件について情報をお持ちの方は、教えて頂けないでしょうか。お願いします。

 以上のような状況や経過から、この碑が誰を目的に建立されたものか明確に判明するまで、一応このページでは、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の名称で取り扱っていきたいと考えています。なお、冒頭に書きました通り、この碑の所在地・大きさ・碑文内容などの事実関係は同じですので、下記項目は名称部分などを訂正し、掲載中です。

概要紹介(戦国時代に活躍した武将)「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」(子孫建立の碑)
所在地:大村市田下町・氷川神社(駐車場脇) 、写真:右下側の写真参照

 このページは、タイトル(見出し)通り、長崎県大村市内にある石碑や碑文を紹介するシリーズの一つです。今回の石碑は、田下町にある「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」です。このページでは、峯家関係の様々な名前が登場してきます。念のため、峯家の系図を見ると多くの人の名前がありますが、ここでは絞って大村純忠に武士として仕えた峯家の3武将=峯釆女・弾正・将監
の3人のみを主に取り上げます。

 また、このページでは、簡略化するため峯釆女・弾正・将監のことを別に峯家の3武将または峯3兄弟と仮称で呼ぶことにします。この峯3兄弟のお父さんは、キリシタンに殺害された僧侶・峯阿乗(みね あじょう、大日堂峯阿乗の碑を参照)です。(峯釆女・弾正については、先に峯釆女・弾正の墓碑を参照)

「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」
(写真右側の丸い石、田下町)<左側3基は「戦死者の墓」>

 なお、今回の碑の名称などは、1984(昭和59)年3月発行の萱瀬物語第一巻(萱瀬開発振興会・萱瀬物語編さん委員会)27ページ下部に碑の写真付きで紹介されている箇所も参照しています。ただし、萱瀬物語のページは、写真が主で詳細な説明文は書いてありません。

 私の調査不足もあるのですが、現時点(2012年6月現在)では、碑の由緒などの詳細は不明です。この碑は建立当初から、ここにあったものか、あるいはどこからか運び込まれて来たものか良く分かっていません。また、裏面に建立者や建立年月日は彫ってあっても、碑の建立主旨などはないようです。なお、この碑は、明治時代に峯弾正の子孫が中心になって建立されたものと思われます。

 この碑がある氷川神社(尾上城址でもある)周辺は、萱瀬地区(旧・萱瀬村)の中心地と言っても過言ではありません。また、この場所は、峯(峰)家と関係が深い所で、元は中構城(なかがまえじょう)とか、尾上城(おのうえじょう)とか呼ばれていました。そして城主として峯(峰)家が入って、さらにその後も、この周辺に長年住んでいた経過から、後世に峰城(みねじょう)とも呼ばれています。

 そして、(『大村市の文化財』によれば)現在ある氷川神社について、次の「」内が記述されています。「(前略) 明治初めに、旧萱瀬村の氏神(うじがみ)が鎮座され、下萱瀬の熊野神社・上萱瀬の赤山大明神(せきさん だいみょうじん)を合祀(ごうし)して氷川神社として祭ってあります。 (後略)」と書いてありますので、明治時代に現在の氷川神社は創建されたものです。なお、それまで、この周辺の土地は、峯(峰)家が所有されていたものと思われます。鳥居周辺には、土地関係を示す石碑もあるようです。

1)碑の大きさや石材など
 
この石碑の大きさついて、ご覧頂く前に、右上側1番目の写真を参照願います。これから、写真中央右側に写っている「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」と、その土台石の概要説明をします。なお、この碑の左側3基の墓碑の大きさなどについての説明は、省略しています。

「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の大きさ
 石碑本体  高さ:115cm  横幅:110cm  胴回り:280cm
 土台の石  高さ:80cm  横幅:165cm  周囲:415cm

 碑の石は、「自然石ながら、よくもまあ、こんな丸い大きな石があるなあ」と思えるくらいです。特に、真正面から見た丸い形状は、「なかなか上下左右のバランスも、いいなあ」と思えるほどです。石の才質は、大村で良く見られるものと同質と思われます。私は、石の材質まで見分けるのは出来ないのですが、もしも、私の想像が正しければ、例えば墓碑や記念碑などに大村各所で多用されている”萱瀬石”と呼ばれているものの一種かもしれません。

 この石は、色や手で触った感触から、既に紹介中の峯釆女・弾正の墓碑の自然石と似たような感じがします。あと、峯釆女・弾正の墓碑を紹介したついでに言いますと、この二人の墓碑はそれほど「丸い石だあ」と言うほどではありませんが、今回の「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」とともに両方とも丸形状と言うのも何かの偶然でしょうか。


2)碑文内容
  このページ右側上から2番目の2枚続きの写真を先に参照願います。上側写真が表面(道路側)で、下側写真が裏面(氷川神社側)になります。この「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」や、その横にある3基の墓碑は金網で囲ってあります。そのため、裏面が拓本作業するには下部の方へ手が入りにくく、まだ、その作業をおこなっていません。

の表面
(写真右側の丸い石、田下町)
<左側3基は「戦死者の墓」>
碑の裏面
(建立年月日、施主・世話役・寄付者など
石工含めて約30名の氏名あり)

 目視や撮影写真で分かった範囲内で、右側2枚続き写真の表面と裏面に彫られている文字について説明致します。なお、裏面の比較的小さな文字(寄付された各自の氏名)の一部は、目視だけでは判読しづらいものです。そのようなこともあり、まだ全文の活字化が出来ていません。この点、あらかじめご了承願います。

(イ)碑の表面文字について
 表面(右側の2枚写真の上側を参照)の文字は、縦書きで真ん中に1行だけあります。その文字は、日蓮宗独特の通称”ひげ文字”様式で南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)(注1)とだけ彫られています。この文字以外の特徴点は、表面に関しては
ありません。(注1)=妙法蓮華経すなわち法華経に帰依する意。日蓮宗で、そのよりどころとする法華経の加護を祈るときに唱える語。七字の題目。お題目。(国語辞典の大辞泉より)>

 キリシタン禁教が強化された後(江戸時代の初期頃)より大村領内では、日蓮宗が多くなりました。そのような経過から当然、明治時代建立の「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」にも(推測ながら)施主が日蓮宗信徒だった関係からか、碑の作りそのものにも影響が強く出ていると思われます。

 私は、全く別の項目で掲載中の元禄年間に彫られた上諏訪町にある「題目淵の碑文」(山田の滝紹介ページ参照)や「山田山中大石碑銘」で、同じような”ひげ文字”様式の南無妙法蓮華経を見てきましたが、文字や彫り方自体は、いずれも甲乙つけがたいものです。どちからと言いますと、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の題目文字は、「山田山中大石碑銘」に似ていると思っています。

(ロ)碑の裏面文字について(概要)
 裏面(右側の2枚写真の下側を参照)には、大文字、中間文字、小文字のサイズ違いで、文字が彫られています。まず、向かって右側(西側)には、大きな文字で明治三三年子九月吉辰と彫ってあります。この文字を現代語訳すると「明治33(西暦1900)年9月吉日」となります。これは、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の建立年月日と思われます。

 次に、中間文字で施主 峰卯太八建之が彫ってあります。これを現代語訳すると、「施主は峰卯太八で、これ(碑)を建てた」となるでしょう。また、先ほど紹介した文字以外の小文字部分は、(拓本作業未実施のため正確性に欠けますが)世話人や寄付者など目測で、ざっと30名ほどの名前があります。

 あと、向かって左側(東側)側面には、石工名として石工 永石善治の名前があります。この石工さんは、萱瀬の人かどうか、まだ調査しきれていません。裏面は、表面に比べ窪みも大きくあり、彫りにくい部分もあったと思われますが、大・中・小文字を使い分け、石の全体面を考えながら工夫して彫られているように思えました。

3)峯家3武将(3兄弟)の活躍について
  この項目、本来、碑の名称が判明・確定していれば一人の武将のみを書けばいいのですが、ページ見出し(タイトル)を(2012年6月現在)「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」としている以上、違う書き方をしていきます。ここでは、戦国時代に大村純忠に仕え活躍した峯家3武将(峯釆女・弾正・将監)
の概略を紹介します。なお、峯釆女弾正の方は、既に「峯釆女・弾正の墓碑」ページに掲載中ですので重複を承知の上で閲覧を願います。

 あと、参照資料(史料)は、ほぼ全て江戸時代に大村藩によって編纂された(大村藩)新撰士系録及び(大村)郷村記からです。当然ながら峯家3武将は大村純忠に仕えた武士ですから、同時代の合戦、事件や事柄にも同じように参加しています。そのため、先に同時代に起こった合戦や事柄を下表(辞典風の小文字説明文)に簡単にまとめています。そのため、各人の紹介文では、同様事項の説明・補足などはしませんので、文章上で不明な点は、下表を参照願います。

峯家3武将=峯釆女・弾正・将監の頃(戦国時代、大村純忠の頃)に発生した合戦、事件、事柄など
峯阿乗(みね あじょう)=峯3兄弟のお父さんで僧侶・阿乗とも言われている。天正ニ(1574)年、キリシタンが他宗教への弾圧事件(大村領内全ての神社仏閣の焼打ち・破壊・略奪の限りをおこない、キリシタンに改宗しない領民の追放などが起こった)時、仏教を守ろうと嬉野へ逃れる途中、福重で捕まり(現在の寿古町で)キリシタンに殺害された。(詳細は、阿乗の墓碑=大日堂峯阿乗の碑を参照)

・三城籠城戦(後世の通称”三城七旗籠(さんじょう しちき ごもり)”<”三城七旗ごもり ”>=元亀三(1572)7月、武雄の後藤貴明、平戸の松浦鎮信、諌早の西郷純暁などの軍から大村純忠の居城である三城が取り囲まれた。その時、大村純忠以外は7人の家臣(=七旗)だけで、あとは女子供であったがよく持ちこたえ、その後色々な展開があって、また領内から馳せ参じた家臣の参戦もあり、大村純忠軍は敵を撃退した。この三城の籠城戦のことを後世になって三城七旗籠(三城七旗ごもり )と呼ばれている。

内臓助逆心=元亀ニ(1571)年もしくは天正ニ(1574)年に起こった事件で一瀬内臓助(いちのせ くらのすけ)が大村純忠に対して謀反(主君に背いた行為)を起したが、結果、峯弾正などから最後は討ち取られた。ここでは仮に「一瀬内臓助の謀反事件」と呼ぶことにする。

菅無田合戦(すがむたかっせん)=天正5(1577)年に佐賀の龍造寺隆信の軍と萱瀬の菅無田周辺でおこなわれた合戦。萱瀬軍は激戦奮闘したが総突撃後に全滅したと言われている。ただし、その後、大村純忠軍が反撃し、龍造寺隆信の軍は佐賀に帰ったと言われている。

・峯釆女について
  峯釆女(みね うぬめ)は、峯家3武将の長男です。(大村藩)新撰士系録を見ると、一瀬内臓助の謀反事件三城七旗ごもり菅無田合戦とも参加しています。先の一瀬内臓助の謀反事件と三城七旗ごもりでは、功績あって大村純忠から褒美をもらっているようです。そして、菅無田の合戦時には弟の峯弾正とともに佐賀の竜造寺軍に激戦、奮闘しながらも最後は二人とも戦死したと書いてあるようです。

大村での戦国時代関係年表(概略)
 1507年頃  佐賀側から来た「大村純治、郡城に入る」
 (築城年不明)  好武城築城(寿古町)
 (築城年不明)  今富城築城(皆同町)
 1550年  大村純忠 大村家を相続 
 1563年  大村純忠、キリスト教改宗 
 1564年  大村純忠 三城城築城(三城町) 
 1566年  後藤貴明の軍と鳥越・伊理宇の合戦(今富町、立福寺町)
 1571年  長崎港開港 
 1572年  大村純忠、三城七騎籠り(三城城での戦)
 1574年  キリシタンによる神社仏閣の焼打ち・峯阿乗などの殺害
 1577年  竜造寺軍と菅無田の合戦(峯釆女・弾正など戦死)

・峯弾正について
 峯弾正(みね だんじょう)は、峯家3武将の2番目です。上記の釆女と同じく、一瀬内臓助の謀反事件三城七旗ごもり菅無田合戦とも参加して同様に褒美をもらっています。菅無田の合戦時には萱瀬軍の総大将として戦の指揮をおこなったが、奮闘むなしく、お兄さんの釆女とともに戦死したと書いてあるようです。

・峯将監について
 峯将監(みね しょうげん)は、上記二人に比べ(大村藩)新撰士系録には、たった3行しか事蹟が書いてありません。ただし、三城七旗ごもりの功績は書いてあります。菅無田合戦は、上二人の兄さんと違って「参戦した」とか何も書いてありません。

  ここからは、私の推測です。峯将監は、この時、今富城または三城城の守りに就いていたのではないでしょうか。なぜなら、大村純忠軍は当初、萱瀬で戦うのではなく竜造寺軍をもっと誘い出して、挟み撃ちにする予定でした。そのため、萱瀬から撤退し、純忠軍の勢力を今富城と三城城に集める予定でした。たぶんに郡村に住んでいた峯将監は両城のどちらかを守っていて、そのため、菅無田合戦には、直接参加していないと思われます。

 以上、峯家3武将(3兄弟)の概略紹介を書きました。いずれ、「峯弾正の碑」または「峯将監の碑」の名称が、どちらかに判明・確定すれば、再度この項目は改訂しようと思っています。その時は、上記に書いている1名については、(大村藩)新撰士系録及び(大村)郷村記の原文、それの現代語訳を掲載したいと考えています。その時まで上記の詳細記述については、お待ち願います。

----------(下記の原稿は準備中。しばらく、お待ち下さい)----------

4)碑の評価について

(原稿準備中)

まとめ

(原稿準備中)


・関係ページ:(キリシタンから殺害された僧侶・峯阿乗の墓)大日堂  、 峯阿乗の碑 、 峯釆女・弾正の墓碑
・関係ページ:
「お殿様の偽装」シリーズ「誤解を招くような表現その3、キリシタン時代に起こったこと

(初回掲
載日:2012年6月2日、第二次掲載日:2012年6月4日、第三次掲載日:2012年6月5日、第四次掲載日:2012年6月12日、第五次掲載日:2012年6月17日、第六次掲載日:2012年6月18日、第七次掲載日:2012年 月 日)

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