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峯釆女・弾正の墓碑(宮代町)
<黄色の線はCG写真加工>
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概要紹介
名称:峯釆女(みね うぬめ)・弾正(だんじょう)の墓碑 、所在地:宮代町(山林の中)
大きさ:高さ約125cm、横幅約160cm、周囲約520cm(右側のCG写真参照)
概要:大村市宮代町の菅無田(すがむた)には、戦国時代の天正5(1577)年12月に佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍(約8,000人)と、それを迎え撃った大村純忠の軍(萱瀬軍の約300人、その後に援軍多数)が激戦を展開した菅無田古戦場跡があります。(注:この菅無田合戦及び菅無田古戦場跡については別のページで詳細に掲載予定。このページでは、そのため概要だけを書いている)
この菅無田合戦では、萱瀬の峰城(現在の氷川神社周辺)の城主だった峯弾正と、その兄の峯釆女を始め地元の武士、さらには萱瀬村の乙名(おとな、現在の"町内会長"みたいな役職)まで参加しました。そして、総突撃の結果、萱瀬軍は全滅しました。しかし、竜造寺軍側にも損害が出て、さらには大村純忠軍の追撃もあったので結果として佐賀へ逃げ帰り、戦は終結し大村領は守られました。
この時、峯釆女・弾正は、戦死したため菅無田砦周辺(尾根の上部、山林)に墓碑があり、次の「」内の太文字が刻んであります。「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日) 峯弾正墓(みねだんじょうのはか) 峯釆女墓(みねうぬめのはか)」 この墓碑は、丸い感じの大きな自然石です。(右上側のCG写真参照) また、墓碑の横には、後世の江戸時代に建立された石灯籠(いしどうろう)があります。なお、この峯兄弟墓の周囲には、他にもいくつか墓のような自然石がありますが、文字などはないようです。
はじめに
私の個人的なことながら今回の峯釆女・弾正の墓碑や菅無田古戦場跡のある宮代町には、祖父と祖母方の親戚が各々あり、子どもの頃から度々行きました。その時に、祖母から(大村弁で)「ここんにきゃあ(この当たり)は合戦があったとバイ」みたいな話は聞いていたと思います。ただし、私の小学生の頃ですから、「何か墓石みたいなものがあったなあ」と言う程度でした。
大人になって萱瀬小学校から直線で250m位の所にある菅無田古戦場跡の墓碑や大村市教育委員会の案内板を改めて見ますと「子どもの頃、祖母に手を引かれ歩いて通った所は、ここだったのかあ」と言う記憶がよみがえりました。そのようなこともあり、この周辺は私にとって親近感もあります。
ただし、萱瀬小学校周辺から見れば尾根の上部(現在、みかん畑の頂上部付近)当たりが菅無田砦(すがむたとりで)だったこと、あるいは今回の峯釆女・弾正の墓碑があることは、近年まで知りませんでした。市道や農道(林道)は、墓碑の直ぐ横を通っているので便利ですが、杉林によって日陰になっているため、やや分かりにくい所でもあります。
念のために、下記から今までの書籍類に書かれた従来説に対しての私の疑問などを書いていきますが、先に紹介しました大村市教育委員会の案内板の文章は、これまで発行されている書籍類と違って、かなり改訂されています。ただし、この説明文の横にある合戦図についての疑問は、別のページで指摘していきたいと思っています。
・なぜ峯釆女・弾正の墓碑と表記しているか
私も最初この付近に墓碑があることは聞いていましたが、自然石だけを見ていたら分からず、石灯籠を見つけて初めて墓碑があることが分かりました。ご子孫か、もしくは町内の方か知りませんが、山林にある墓碑にしては綺麗に保存されています。この墓碑を見ての私の第一声は、「えっ、峯弾正だけの一人墓ではなかったのか」でした。
なぜ、このような感想になったのか。それは、先の項目=概要で紹介しました大村市教育委員会発行の『大村市の文化財』や市内で発行されている郷土史の書籍類にも要因があります。それらには、「峰弾正の墓」があることは書かれていましたが、お兄さんの峯釆女と一緒の兄弟墓(二人墓)になっていることは、一切記述されてなかったからです。
いくら大村だけでなく全国でも歴史記述は常に為政者中心主義(権力者、首領、豪族、役人など。簡単に言えば「上から目線」みたいな書き方)であっても亡くなってからも、はたしてこのような書き方をする必要があるのでしょうか。確かに峯弾正は(萱瀬村)峰城(注)の城主だったかもしれませんが、大村領(萱瀬)を守るため萱瀬の武士や乙女も含めて兄弟どちらとも竜造寺軍と激戦を展開し両名とも戦死しました。<注:峰城は後世の名称である。古くは中構城(なかがまえじょう)とか尾上城(おのうえじょう)と呼ばれていた>
このような経過を知りながら封建時代までなら、いざしらず、現代になってからの書籍類にも、このような書き方しかできないのは疑問に思います。両名とも墓碑に名前がちゃんと彫ってあるのですから観光客や市民が見る現在の書籍類には、峯釆女含めて両名の墓の表記に直すべきではないでしょうか。
ですから、今回、私は大村市や郷土史の書籍類の表現と違って、峯釆女・弾正の墓碑と書いて紹介しています。なお、念のため江戸時代に編纂された新撰士系録の士系録巻之 二十(士系録20巻目)によれば峯釆女のことについても、けっこう詳細に記述され、さらには菅無田合戦ばかりではなく色々な戦や場面で活躍されたことが書いてあります。
・なぜか墓碑に彫られた日と書籍類の死亡日が違う
この件、先の概要項目にも書きましたが、墓碑の年月日には天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日) と彫られています。しかし、江戸時代編纂の(大村)郷村記にも現在使用されている『大村市の文化財』(改訂版、大村市教育委員会2004年3月26日発行)にも各々、「峯弾正の墓あり・・・銘に・・・十二月十二日」、「12月12日・・・全滅して・・・・」と書いてあります。
しかし、先に書いた通り、たった1日の違いですが、峯釆女・弾正の墓碑に彫ってあるのは、1日遅れの12月13日なのです。これは、まず菅無田合戦の記述が書いてる(大村)郷村記そのものの間違いです。なぜ、このような間違いになったか、それは、尾根の山麓側(萱瀬小学校から直線で250m位の所)にある4基の墓碑の月日(12月12日)と思って、そのまま転記したからだと推測します。このようなことを書けば、「たった1日違いだから、何の大勢に影響があるのか?」とか「転記ミスは江戸時代もあったさー」みたいなご指摘も受けるかもしれません。私自身も誤字脱字が多い者ですから、その指摘には反論しにくいものです。
ただし、たった1日違いでも、菅無田合戦の従来説=「12月11日に竜造寺軍が来襲、萱瀬軍が反撃。 12日夕刻、萱瀬軍は奮闘むなしく総突撃して全滅。 13日未明、大村純忠軍が朝追岳(麻生岳、琴平岳)で追撃し、竜造寺軍は佐賀へ帰った)」が、違って来る可能性があれば話しは別だと思います。また、合戦の場所についても従来説とは違う疑問が出ている史料もあります。これらの件は、まとめて別の仮称「菅無田合戦及び菅無田古戦場跡」ページ詳細に掲載する予定です。
あと、この峯釆女と弾正は、キリシタンに殺害された峯阿乗の息子達になるので、先に掲載中の大村市寿古町にある大日堂、峯阿乗の碑との関係も重複しますが、このページでも触れていきたいと考えています。
1)墓碑の碑文内容と大きさなどについて
峯釆女・弾正の墓碑は、これまで掲載してきました記念碑などに比べて土台石はなくて、地面にそのまま大きな自然石が置いてあるだけです。まず、この石の大きさを下表に書いておきます。 (注:全てcm表示である)
峯釆女・弾正の墓碑の大きさ
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石全体 |
高さ約125cm |
横幅約160cm |
周囲:約520cm |
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峯釆女・弾正の墓碑(宮代町)
<黄色の線はCG写真加工>
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右側写真でも分かる通り、形状はやや丸い感じの石です。何か変わった特徴などは、ありません。大村市内なら、どこにでもあるような石質の自然石です。そのため、林道(農道)横から数メートルもないような所にあるのに、探す目的がなければ見落としてしまいそうになります。
・碑文内容
上記のような大きな自然石に縦書き4行で、次の「」内の太文字が彫られています。( )内は上野の補足です。
1行目:「天正五丁丑天」(天正5年=1577年)
2行目:(頭に梵字あり)「峯弾正墓」(峯弾正の墓)
3行目:「十二月十三日」(12月13日)
4行目:「峯釆女墓」(峯釆女の墓)
先の項目でも既に紹介していますが、改めて全文を続けますと、次の「」内通りになります。ただし、梵字部分は、除いています。「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日) 峯弾正墓(みねだんじょうのはか) 峯釆女墓(みねうぬめのはか)」
兄弟の順序は、当然お兄さんの峯釆女が先ですが、江戸時代のことですから萱瀬の峰城主だった弟の峯弾正を先に彫り込んであると思われます。この文字関係だけでは、兄弟の名前と死亡年月日だけですから、表記の通りです。しかし、問題は、この死亡月日が、菅無田合戦跡の山麓側(萱瀬小学校から東側へ約250mの所)にある4基の侍や乙女(おとな、現在の町内会長みたいな役職)の墓碑の内、3基の死亡月日=12月12日と比べて1日の違いがあるのです。
たった1日違いではあるのですが、江戸時代編纂の(大村)郷村記そのものが転記ミスをして峯兄弟も山麓側にある墓碑と同じ死亡月日として記述しています。そのため、後世の書籍類でも(大村)郷村記を引用して、「萱瀬軍は12月12日に総突撃して全滅した」と、間違った書き方になっているのです。
私は、この1日違いによって合戦の全体日程その他にも影響してくるような気がして、現在色々と調査中です。他にも従来説と違うことに私は気付きましたので、このページとは別に仮称「菅無田合戦及び菅無田古戦場跡」ページに詳細に書こうと思っています。その時に、また、この件は紹介します。
2)石灯籠の碑文ついて
まずは、石灯籠の大きさについてですが、それは下表の通りです。下記の大きさからして、市内に沢山ある石灯籠の大きさと、あまり変わらないものと思われます。(この石灯籠の全景は上部右側写真を参照。墓碑の左側に写っているのが今回の石灯籠である。石灯籠の碑文面は下部右側CG加工写真を参照)
峯釆女・弾正の墓碑の横にある石灯籠の大きさ
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石灯籠全体 |
高さ約90cm |
横幅約30cm(笠部分) |
周囲約130cm(笠部分) |
碑文のある竿(さお)部分 |
高さ約50cm |
横幅約19cm |
胴囲約75cm |
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石灯籠<青色線はCG写真加工>
(宮代町、峯釆女・弾正の墓碑横にある)
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・碑文内容について、下記の<>内(太文字)です。(右側の石灯籠写真参照。ただし、碑文の青線はCG加工である)
< 文政九年歳次 丙戌十二月 奉献 峯龍之丞邦 >
・上記の現代訳は、下記の「」内の通りです。
「文政九(1826) 丙戌(ひのえいぬ、へいじゅつ)の年12月に峯龍之丞邦が奉納した」
・龍之丞邦の読み方について
「龍之丞」だけなら、「たつのじょう」と読むのかなあと推測しました。しかし、後に「邦」があるので続けて読めず、不正確ながら仮に「たつのじょうのくに」と読むのかと思いましたが、本当はどう読むのか現在も分かっていません。
・歳次(さいじ)の文字(右側写真、右行の5〜6番目文字)について
(1)私は当初(当然CG写真加工前)、「上野式解読方法」で、いつもの通り何種類かのやり方で試みましたが分かりませんでした。それで福重郷土史同好会・会員にも尋ねましたが同様でした。
(2)大村市文化振興課の大野氏に写真を送り、ご教示願ったところ歳次(さいじ)と言うことでした。大野氏には、ここでも感謝申し上げます。
(3)歳次の意味は、国語辞典の大辞泉では次の<>内の通りです。<古くは「さいし」。「歳」は歳星すなわち木星、「次」は宿りの意。昔、中国で、木星が12年で天を1周すると考えられていたところから。としまわり。>
上記の辞典も参照しながら、さらには何事もズボラな上野解釈上では、「この文字は、現代語訳上、必要ない」と考え、先の解釈には入れてません。
・石灯籠についての補足と感想
この石灯籠の横、峯釆女・弾正の墓碑にある戦死の年月日は、「天正5年=1577年12月13日」です。この石灯籠は、249年後の「文政九年=1826年12月」に建てられています。さらに、この峰釆女・弾正のお父さんにあたる峯阿乗の碑(寿古町)は、「 大正七=1918年4月吉日 」に峯家ご子孫7名で建立されています。さらに、その碑の直ぐ横にある大日堂(峯阿乗の墓碑)は、現在でも峯家や寿古町の方々で祀っておられます。
このように峯一族は、戦国時代だけでなく江戸時代も大正時代も現在も、長年ご先祖を供養されています。私は、これに対し感心しました。あと、私が大村市内で見た範囲内のことですが、このような石灯籠や奉献碑は、どちらかと言いますと例えば、権現様のお堂(建物)などを改築された記念碑みたいにして建立されるているのが多いです。
しかし、この峯釆女・弾正の墓碑には、(大村)郷村記や近代発行の書籍類を調べてみても、「お堂があった」とは書いていないようですから、ある意味、本来の、本当の意味で、ご先祖を偲んで建立されたものとも思えます。また、このページに書いていることだけでなく、戦国時代の峯一族の功績や人間関係は、色々な意味で興味が尽きないものです。いずれ機会あれば、別ページで取り上げることも考えたいと思っています。
3)峯阿乗との親子関係について
この項目、結論から書けば先の項目や峯阿乗の碑紹介ページにも述べている通り、峯釆女・弾正の父に当たるのが、大村純忠時代、キリシタンが天正2(1574)年に殺害した僧侶・峯阿乗です。このことは既にご存知の方もおられたのですが、私は峯阿乗(みね あじょう)の碑裏面の拓本作業準備中に、「なぜ、峯阿乗の碑に、峯釆女(みね うぬめ)、峯弾正(みね だんじょう)、峯将監(みね しょうげん)のご子孫の名前が彫ってあるのだろう?」、そして「そうか、この(戦国時代の)4人は、親子だろう?」と考えました。
その後、その関係を確かめるため江戸時代に編纂された新撰士系録の士系録巻之 二十(士系録20巻目)に、先に挙げました4人の名前や事蹟(注:業績のこと)の項目があり、その系図の繋がりを確認したところ親子であることが分かりました。お父さんの峯阿乗は仏教を守るため大村から嬉野へ逃れようとしていた時に、福重でキリシタンに捕まり殺害され便所に遺骸は捨てられました。<その地に後世に建立されたのが大日堂(峯阿乗の墓碑)。大正時代にご子孫が建立されたのが峯阿乗の碑。なお、峯親子や大村の戦国時代についての略年表は右下側の「大村での戦国時代関係年表(概略)」参照>
大村での戦国時代関係年表(概略)
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1507年頃 |
佐賀側から来た「大村純治、郡城に入る」 |
(築城年不明) |
好武城築城(寿古町) |
(築城年不明) |
今富城築城(皆同町) |
1550年 |
大村純忠 大村家を相続 |
1563年 |
大村純忠、キリスト教改宗 |
1564年 |
大村純忠 三城城築城(三城町) |
1566年 |
後藤貴明の軍と鳥越・伊理宇の合戦(今富町、立福寺町) |
1571年 |
長崎港開港 |
1572年 |
大村純忠、三城七騎籠り(三城城での戦) |
1574年 |
キリシタンによる神社仏閣の焼打ち・峯阿乗などの殺害 |
1577年 |
竜造寺軍と菅無田の合戦(峯釆女・弾正など戦死) |
その以前の元亀3(1572)年、阿乗の息子達3人は、通称「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」と呼ばれている(大村純忠と三城城を守る)戦いに参加し、功あって守りきりました。しかし、それから5年後、天正5年(1577)12月の菅無田合戦では、峯釆女・弾正の二人が激戦・奮闘むなしく戦死しました。
つまり、1572年には大村純忠や三城城を守るための戦で、峯3兄弟は活躍したにも関わらず、その2年後(1574年)には大村純忠が宣教師に神社仏閣の焼打ちやキリシタンに改宗しない領民追放の許可を与えたため、3兄弟のお父さんの峯阿乗がキリシタンに殺害されたのでした。さらに、その3年後、再び大村領や純忠を守るために息子二人(峯釆女・峯弾正)は、菅無田の合戦で佐賀の竜造寺軍と激戦し、戦死したのでした。
結果、戦国時代(このページで登場している)峯親子4人の内、天寿を全うできたのは峯将監だけと思われます。このようなことは、「戦国時代のことだから当然あったさ」と言えばそれまでですが、それにしても時代に翻弄された親子だったとも思えます。今は、阿乗の墓(大日堂)も、(このページで紹介中の)息子二人の墓とも、車が近くを通行しない限り静かでひっそりとした雰囲気ですが、両墓碑を見るたびに戦国時代は、話で聞く以上に激しかったのだなあと思い直します。
後書き
このページでは、峯釆女、峯弾正の墓碑を書いてきました。墓碑に彫られていることだけを書いたり、CG写真加工などの作業は、多くの時間は要しませんでした。ただ、この峯兄弟のことや菅無田合戦などを調べていたら時間が経ってしまって、掲載の方は結局一カ月位かかってしまいました。今回は、これで何とか後書きとなり、主に梵字のことや(大村)郷村記の転記ミスなどを書いてまとめにします。
・梵字について
先の項目で詳細に書いていないのですが、この墓碑には梵字(ぼんじ)が彫り込まれています。兄弟2名の内、峯弾正の名前の上に、その梵字はあります。不勉強者の上野としては、梵字全体どんな文字で、どんな意味があるのか率直言いまして、その知識がありません。
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峯釆女・弾正の墓碑(宮代町)
<黄色の線はCG写真加工>
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このページ右側写真の文字部分だけをCG加工する時、当初「梵字のことそれ自体は分からないままでも、彫ってある部分だけを写真のCG加工してみよう」と思ってはいました。この黄色CG線は、石に彫ってある線(通常は黒く見える線)をCG化するだけですから作成しようと思えば可能でした。
ただ、どうしても梵字の作りそののが良く分かっていないため、まだ実施していません。ただし、私の推測で不確かですが、ここに彫ってある梵字は、「”大日如来”を表すもので、真言宗系の墓碑かもしれない」と想像しています。これは、あくまで私の推測で間違いあるかもしれないので引用や参照などはなさらないよう、ご注意願います。
墓碑としては、梵字が付いている、ついていないは関係なしに、私が見たい文字は、墓碑名、命日(死亡年月日)、建立者名などです。この墓碑には、残念ながら建立者名や建立年月日はないようですが、市内に沢山ある古い年代の墓碑と対比しても分かりやすい方だと思います。
・(大村)郷村記の墓碑年月日の転記ミスについて
あと、既に先の項目で書きました通り、この墓碑にある「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日)」を、(大村)郷村記では転記ミスして「12月12日」にしています。その結果、菅無田合戦全体の日程さえも間違って書いてあるのではと考えています。これは、ただ、単に(大村)郷村記だけでなく、この史料から引用されて書かれた現在使用されている『大村市の文化財』(改訂版、大村市教育委員会2004年3月26日発行)19ページ、あるいは市指定史跡・菅無田古戦場跡の案内板文章にも影響あると思います。
ただし、この”1日違い”問題は、その歴史があったかどうかの真偽とか、「古記録(大村郷村記)の死亡年月日が墓碑より信用できる」とか、「いや、墓碑の死亡年月日の方が古記録より信用できる」と言う信用度レベルのものではありません。それは、(大村)郷村記(さらに、それを引用して書かれた『大村市の文化財』や史跡案内板)の転記ミス自体の問題です。
この件は、先に書いた通り(大村)郷村記の転記ミスですから、今後もっと私自身も良く調べて、「はじめに」にも書きました通り、別に作成予定の(仮称)「菅無田合戦及び菅無田古戦場跡」ページ詳細に掲載する予定にしています。現在進行形で調べていますので、もしかしたらタイトル自体も(仮称)「菅無田合戦及び菅無田・琴平岳古戦場跡」などに変えるかもしれません。いずれにしても分かった範囲内で今後書いていこうと思っています。
このように一地方の郷土史と言えども、何事も歴史は繋がってもいますし、「これにて終り」と言う事項は、なかなかないと思います。ましてや、私が書いた文章ですから、足りない部分や改訂すべきところも多々あるかと思っています。その点は、今後も直していきたいと考えています。
関係ページ:峯阿乗の碑 、 大日堂
(初回掲載日:2012年4月1日、第2次掲載日:4月5日、第3次掲載日:4月6日、第4次掲載日:4月7日、第5次掲載日:4月8日、第6次掲載日:4月日、第7次掲載日:4月日、第8次掲載日:4月25日、第9次掲載日:4月27日、第10次掲載日:4月28日、第9次掲載日:4月29日)
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