1)中岳砦を紹介するにあたって
まず、この中岳砦が史料(資料)関係に登場してくるのは、先の項目に書きました通り、大村の偽装の歴史とも言われている「大村純伊」伝説や、その関連の「中岳合戦」説を記述した(大村)郷村記、それと単に「小城」と言う名称で描かれている大村藩領絵図です。他の史料関係にも記述されているかもしれませんが、2011年1月現在では調べきれていません。
ここで、私の推測ながら、(大村)郷村記よりも早い時期に完成したと思われる大村藩領絵図には、単に「小城」と言う名称です。そして、大村藩領絵図よりも後期に出来たと思われる(大村)郷村記には「中岳の砦蹟(なかたけのとりであと)」と記述されています。単に名称表示だけかもしれませんが、同じ場所で同じ砦(城)なのに、大村藩領絵図では「小城」、(大村)郷村記では「中岳の砦蹟」と言う表記の違いがあります。
その違いに何か意味があるのか、別に何の関連もないのか、今の段階では調べきれていません。既に紹介している大村市福重地区の5つの城(岩名城、尾崎城、江良城、好武城、今富城)の場合、(大村)郷村記と大村藩領絵図では、漢字あるいはカタカナ表記など若干の違いはあります。しかし、これらを全て漢字名称に直すと、先に書いた通り5つの城名表記と同じようになりますので、この「中岳砦」と「小城」の名称違いは少し気にはなります。
|
右手前側の小山:中岳砦 、左奥側の山:宝満城
(宝満城のある山は円錐形で頂上付近に鉄塔が見える)
|
|
中央の小山:中岳砦
(上記2枚の写真とも国道444号線側から撮影)
|
たぶんに、この「小城」と言う表現は、中岳砦から200m位にある宝満城との関係から、このような名称になっている可能性も考えられます。つまり、宝満城を「本城」(中岳砦に比べたら”高い城”、あるいは”大きな城”と言う意味)とするなら、中岳砦は「小城」(宝満城に比べたら”低い城”、あるいは”小さい城”と言う意味)の関係です。
ただし、中岳砦と宝満城との関係は、次の城シリーズの『宝満城』ページで書く予定ですので、ここではこれ以上触れないことにします。(補足として、ご参考になればと思って、このページには中岳砦と宝満城の位置関係が分かりやすい右上側写真も掲載もしている)
あと、近代なって郷土史の先生方が、この城址について城名程度の記述はいくつかありますが、城の大きさ、造りや形式などを詳細に書かれた論文はないようです。そのため、今回、大村市文化振興課の大野氏から頂いた縄張り図を参照したり、私自身も現地見学、計測や撮影などもしましたので、その範囲内で書いてみようと思っています。
中岳砦写真の説明
右側2枚の写真説明前に、この撮影地点について書きます。大村市街地から経ヶ岳や黒木方面へ車で行く場合、国道444号線を走ります。大村市萱瀬出張所の建物を左側に見ながら、さらに500m弱進むと、右手方向に南河内方面への道路があります。その十字路周辺の土手で撮った写真が、右側の2枚の写真です。
右側2枚の写真の内、上側から説明をします。この写真の中央部より右の手前側に、こんもりとした小高い山があります。ここが、中岳砦跡です。次に下側写真をご覧願います。先ほどの写真で説明した、”こんもりとした小山”部分を中心に拡大した感じの写真になっています。写真中央右側に白く何基か見えるのが町の墓石などです。
この小山みたいに見る所を地元の方は、「城の辻(しろのつじ)」と呼ばれています。この通称「城の辻」の意味ですが、色々な解釈があるかもしれませんが、私は「城のあった小高い所」みたいなことだろうと思っています。あと、もう一回、上側の写真ですが、中岳砦の奥側(上側)から左の山へ伸びる稜線があります。
この稜線の一番高い所=写真では頂上付近に小さく鉄塔が見えます。この頂上付近に宝満城址があります。なお、宝満城については、次の城シリーズで掲載予定ですので、これ以上の紹介は、このページでは省略します。なぜ、二つの山=城址(砦跡)の写っている上側の写真を掲載しているかと言いますと、中岳砦と宝満城の位置関係が分かりやすいのではないかと思っているからです。
2)大村市史の記述と縄張り図
近代・現代に発行された書籍類で、この中岳砦について記述されているのは、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)が詳しいと思われます。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史827〜828ページに、「三 中岳砦」の記述と、「中岳砦縄張図」があります。縄張り図の作図は、大野安生氏です。
|
|
(右図の拡大版) 中岳砦の縄張り図 |
|
今回、下記< >内の通り、市史の記述内容と縄張り図を紹介します。なお、市史の全体図は周囲の状況も分かり、見やすいのですが、ホームページのレイアウト上、小さくなりますので中岳砦を中心とした拡大図も併せて掲載しています。
原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。また、縄張り図の縮尺比率は同じでも、サイズは違っていますので、その点もご了承願います。
< 中岳砦
大村市中岳町にある砦である。郡川と南河内川の合流する場所で西に鹿島への往還を望むことができる。
また、その南西側には峰城(23)を臨む。城下一帯は、有馬氏との間で行われた中岳古戦場の跡地といわれている。
大村郷村記』には、 「真中に廣さ四畝』(約四○○平方メートル) ほどの小高き所あり。廻りに隍(ほり)の形あり。 」とあり、文明六年(一四七四)の中岳合戦の際に、大村純直がこの砦に籠もったといわれている。.
砦は約一○メートル四方の主曲輪とその西側に二ノ曲輪、更にその南側に広い三ノ曲輪が階段状に配置されている。主曲輪には北側に櫓台があり、現在は「山神宮」と書かれた祠が祀られている。主曲輪及び二ノ曲輪の切岸は非常に明瞭であり、二ノ曲輪の北側隅には横矢が見られる。三ノ曲輪の周囲には一部に崩落が見られる乱積みの石垣が見られるが、当時のものとしては考えにくい。
曲輪の東側には堀切(a)が残り、現在は通路として利用されている。 堀切に接する主曲輪の南北には、堀切から二ノ曲輪への侵入を防ぐための土塁が見受けられる。曲輪の周囲は、畑 として利用されているため旧状は不明である。 >
3)中岳砦と大村藩領絵図
まず、右側の(縮小版の)大村藩領絵図をご覧願います。この画像では、やや分かりにくいですが、絵図下部に赤い色があります。この周囲で左側に薄い紺色に見えるのが郡川(こおりがわ、画像では左側斜め方向が上流)です。次に同じ赤色部分から右側方向に一筋の川の色がありますが、これが郡川の支流の一つである南川内川(みなみのかわちがわ)です。
赤い所の直ぐ右上側方向に、尖った三角形の山に見える所があります。この山の中腹部に「ホウマン城」(宝満城)の文字があります。その右隣に、山頂をやや角ばった感じで描いてある山があります。この中腹部には「小城」との文字が書いてあり、これが中武砦(中岳城)です。
この二つの山は、見た目まるで大小、親子の山みたいに繋がっているように見えますが、実際の地形では上記の右側写真(2011年1月17日撮影)でも分かる通り、直線で約600m離れています。また、この二つの城の間や周辺は、戦国時代や江戸時代当時の状況までは分かりにくいですが、現在は全て森林ばかりです。
既に掲載中の 大村藩領絵図紹介ページなどにも書いていますが、この絵図は同じ江戸時代作成の(大村)郷村記より相当早く完成したものです。その関係から考えて、私は当時の萱瀬村に伝わっていた記録や伝承をそのまま絵図に描いたものと思っています。その意味からしたら、私は絵図にある「小城」=「中武砦」(中岳城)の存在も位置も正確と推測しています。
なお、地元では、この中武砦(中岳城)のある小山を、通称で「城の辻(しろのつじ)」と呼んでおられます。私の大村弁解釈を交えると、この通称の意味は「城のあった高い所(山)」と推測されます。このような言葉が今なお地元伝承として残っているので、この砦(城)は、萱瀬の地元では大きな存在だったのかもしれません。この項目で紹介しました大村藩領絵図の文字、幾重に強固な城構えや地元伝承の通称からしても、この中岳砦は、むしろ中岳城と呼んだ方が、より正確な呼称かもしれません。
4)中岳砦と大村郷村記
江戸時代の大村藩によって編纂された(大村)郷村記に記述された中岳砦蹟(中岳砦)の項目は、(復刻版)大村郷村記・第二巻243ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
|
手前の平地:中岳砦の主曲輪 、奥側:山神宮
(上記は現在、山神宮の境内である)
|
|
中央の斜面:切岸、右側:堀切
(左側:山神宮境内に登る階段。高い所が境内の周囲)
|
|
一段高い手前側が主曲輪、奥に広がる二ノ曲輪 |
|
左側は切岸、右側は主曲輪、中央部は土塁?
(中央奥側:横幅約6m、奥行き約4mの大きな石)
|
なお、見やすくするため改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。
「 一 中岳の砦蹟 中岳村にあり、高サ平地より拾五間程、眞中に廣サ四畝程の小高き所あり、廻りに隍の形あり、今は柴山或は畠となり不分明、
此砦ほふまん岳の尾續にて、三方は深谷、左右に流水あり、往昔文明六年有馬貴純と大村純伊と中岳原に於て合戦の時、一族大村掃部純直此砦に籠るなり 」
現代語訳
上記「 」内の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。
また、(大村)郷村記は、中岳砦の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。今回も中岳砦の項目では、「大村純伊」伝説の話が出てきます。
しかし、この説は史実の年代も合わないし、江戸時代の創作(偽装)の歴史と言われていますので注意が必要です。下記、現代語訳では一応書きますが、その下段の(注)の項目で、「大村純伊」伝説の創作(偽装)の事柄も簡単ながら書いていますので、参照願います。
< 一つ 中岳の砦蹟(跡) (この砦=城跡は)中岳村にある。高さは平地より27mほどで、真ん中に広さ約400平方メートルほどの小高い所(注1)がある。周り(周囲)に堀の形がある。今は柴山(シバの木の林)あるいは畑にとなっており、(それらの)分け目は明らかでない。
この砦(中岳砦)は宝満城(ほうまんじょう)のある尾根続き(の所)にあって、三方は深い谷、左右に流水(水の流れ)がある。大昔の文明6年(1474年)(注2)、有馬貴純と大村純伊(注3)と中岳の原(中岳村の平野部)においての合戦の時に、(大村側)の一族である大村掃部純直は、この砦にこもった(籠城した) >
(注1):先の項目=「2)大村市史の記述と縄張り図」にも書いている通り、この小高い所には、主曲輪とその西側に二ノ曲輪、更にその南側に広い三ノ曲輪が階段状に配置されている。
(注2):次の(注3)とも関係あるが、この中岳の合戦や「大村純伊」伝説は、近代の研究では江戸時代の大村藩が創作(偽装)した歴史と言われている。(中岳古戦場跡の墓も同様)
(注3):上記の(注2)とも関係あるが、この「大村純伊」伝説は、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した歴史と言われている。仮に、この「大村純伊」が存在したとしても史実の年代と全く合わないとも言われている。当然、大村郷村記に記述されている中岳砦の項目も、この部分は創作(偽装)の内容と言える。
まとめ
大村市萱瀬地区(旧・萱瀬村)には、城・砦・館跡が全部で次の通り、7城あります。(注:次の番号は分かりやすく付けただけで特に意味はありません。念のため、4,中岳砦にリック先がないのは、このページがその紹介ページだからです)
1,鳥甲城(とりかぶとじょう) 、 2,切詰城(きりづめじょう)、 3,宝満城(ほうまんじょう)、 4,中岳砦(なかたけとりで)=このページで紹介、 5,尾上城(おのうえじょう)、 6,菅無田砦(すがむたとりで)、 7,坂口館(さかぐちやかた)
この7城は、大村市内の地区別の城数では、鈴田地区(旧・鈴田村)にある8城(砦、館含む)に次ぐものです。戦国時代、この萱瀬へは、経ヶ岳(1,056m)を主峰とする多良山系を越えて攻め込んでくる佐賀の軍勢から防御するために、上記のような城や砦が多く築城されました。
その中でも、「2)大村市史の記述と縄張り図」項目でも紹介しています通り、中岳砦(中岳城)は、主曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪などが配置されています。このような城構えは、上野調べながら萱瀬地区内では、この中岳砦(中岳城)の一城のみと思われます。また、この城も自然の地形をうまく生かした造りといえます。
大村藩領絵図には、近くの高所にある宝満城と対比してと推測されますが、中岳砦のことを「小城」と描いてあります。しかし、「小城」どころか、これだけの城構えは、宝満城はじめ萱瀬地区内に確認できる城はなく、最も城らしい造りとも言えます。その意味でも、大村郷村記に書いてある中岳砦の名称よりも、むしろ”中岳城”の呼称が、ふさわしいものといえます。
あと、現在でも城の遺構として、築城当時とは当然変わっている部分もあります。しかし、長年、主曲輪の所に山神宮が祀られてきたことや、城跡がほぼ全部山林や畑だったため、戦国時代からの城構えの雰囲気が良く残っています。
特に、先にも紹介しました通り、主曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪が配置されている様子が現在、誰でも明確に確認できるの城跡は、萱瀬地区内だけでなく、全体で30城近くある大村市内の城跡の中でも、数的には大変少なく、むしろ珍しいとも言えます。