1)菅無田砦を紹介するにあたって
この菅無田砦について、江戸時代の大村藩領絵図には砦(城)の名称が描いてなく、(大村)郷村記には、「菅無田砦蹟」の項目で、微に入り細に入り詳細に記述されています。ただし、(大村)郷村記など大村藩が編纂した記録集で、大村氏関係や合戦などについて、まるで今見て来たように詳しい内容は、そのほとんどが創作(偽装)の歴史内容です。昔から「嘘つきほどよくしゃべる」との言葉と同じだと思います。
このようなことは、その都度書いてきましたが、その中でも特に有名な創作(偽装)内容は、「大村氏系図」と「大村純伊」伝説の二大偽装歴史事項です。(この件の詳細は、「お殿様の偽装(目次ページ)」、「大村の偽装の歴史や表現一覧表など」から参照) 今回テーマの菅無田砦に関係する菅無田合戦の記録も、現在では事実関係において、その大半が創作(偽装)と思われます。
ここで(大村)郷村記内容を 論破するような書籍を紹介しておきます。それは、長崎県内の歴史に関して大変詳しい外山幹夫先生(当時・長崎大学教授、現在・名誉教授)が出版された『大村純忠』(1981年5月10日発行)の「龍造寺隆信の大村領攻撃」(188〜192ページ)に分かりやすく具体的に書いてあります。
この本を引用・参照して、事実関係がどう違うのか極簡単な表にしてみました。なお、(大村)郷村記内容は、現在の『大村市の文化財』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行、19ページ)に同主旨で書いてあります。なお、原本を参照していますが、表作成上、主旨が伝わればと思い極簡略化している点は、あらかじめご了承願います。また、下記の注や補足内容は、上野の解釈も含めて書いていますので、ご注意願います。
菅無田合戦関係の対比表
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事柄 |
(大村)郷村記の内容 (『大村市の文化財』も同内容)
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『大村純忠』の内容「龍造寺隆信の大村領攻撃」
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合戦月 |
「12月」に菅無田合戦が戦われた |
「12月」説は間違いで事実は6月である(藤龍家譜より) |
激戦と全滅日 |
「12月11日から龍造寺軍が攻撃開始、12日に萱瀬軍は全滅」(注:峯釆女・弾正の墓の碑文には1日違いで13日と彫ってあり、墓碑の記録の仕方も全滅日自体も間違いである) |
事実は6月である(藤龍家譜より) |
大村純忠軍の追撃 |
「12月13日未明に大村純忠軍が追撃して龍造寺軍は死傷者を出しながら佐賀へ逃げ帰った」(補足1)、(補足2:このことの由来から現在の琴平岳(334m)を「朝追岳」とも言うようになった) |
純忠軍は敗北し、竜造寺と和睦した。(補足2:「朝追岳」(琴平岳)で純忠軍は竜造寺軍を追撃もしていないのでは?) |
勝敗の結果 |
萱瀬軍は全滅したが純忠軍全体では勝ったような書き方 |
純忠軍も含め結果は敗北し、純忠は竜造寺に和睦した |
大村純忠の和睦 |
(まるで勝ったような記述で和睦などは書いていない)(補足3) |
純忠は龍造寺に降伏・和睦して娘を龍造寺の妻に、その後さらに息子を人質に差し出した(補足3) |
注:菅無田砦跡と言われている尾根の頂上部(標高235m)付近にある峰釆女・弾正の墓に彫られている死亡日「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日)」が、山麓側(標高100m)の家来達の墓にある月日(前同12月12日)と1日違いがある。(大村)郷村記を書く時に当時の役人(侍)は、この峰釆女・弾正の墓の死亡年月日を書き写したのだが、その時に写し間違いをしたのである。このように1日違いではあるが、仮に間違い記述である「12月説」を採用しても菅無田合戦全体の日程に影響を与えている。さらに言えば、このこの峰釆女・弾正の墓も山麓側の家来達の墓碑も後世に建立あるいは碑文の文字を彫った可能性が充分に考えられる。つまり、両墓の碑文自体を後世に創作(偽装)した可能性もあると言うことだ。
補足1:この当時の戦死者の墓とし萱瀬軍側では峰釆女・弾正の墓とか山麓側にある家来達の墓はある。しかし、「純忠軍の反撃・追撃によって多数の死傷者が出た龍造寺軍」という書き方にしては、その龍造寺軍の武士の墓が(2012年12月現在の上野調べで)ない。(ご参考までに、福重の立福寺と今富の境付近で戦われた『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』時の墓=『今富の侍の墓』が現存していることからもおかしなことである。純忠軍の追撃により、龍造寺軍に死傷者が出て佐賀に逃げ帰るほどになったのか疑わしい記述である。
補足2:事実関係は上表の通りだが、現在の琴平岳のことを菅無田合戦時に純忠軍が龍造寺軍を未明に追撃したので別名「朝追岳(あさおいだけ)」と言うことになっている。しかし、元々の山名自体が朝追岳または麻生岳と呼ばれていたようだ。この山名から逆に「純忠の未明攻撃」の記述を思いついたのではないかとも思える。
補足3:この菅無田合戦で大村純忠は竜造寺に降伏・和睦したため、その後は竜造寺の配下みたいになった。また、竜造寺に命ぜられて純忠は波佐見村に一時期住んで、さらには息子まで人質に差し出した。純忠が負けたからこそ、このようなことをせざる得なくなったのではないか。そして、今までの援助者(同じキリシタン大名で純忠の実家の相続者でもある)の有馬晴信への竜造寺軍攻撃時には、その一員として純忠軍は参加している。このようなことを見ても、菅無田合戦の勝敗結果がもたらしたものととして良く分かる事例である。
上記の通り、(大村)郷村記は、真偽の問題が常についてまわるので要注意です。とりわけ、峰釆女・弾正の墓の碑文(死亡年月日)を1日間違って書き写したのは、創作(偽装)した菅無田合戦の日程ながら他の日時にも影響を与えています。それは、(大村)郷村記を「2次資料(史料)とはいえ正しいものだ」と信じて書かれている『大村市の文化財』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行、19ページ)の内容も同様です。
あと、大村藩領絵図に描かれている古戦場跡と、先の(大村)郷村記と『大村市の文化財』、山麓側にある菅無田古戦場跡の史跡説明板などと、合戦場の一部において違うことがあります。しかし、このページは、あくまでも菅無田砦の紹介ページですので、菅無田合戦そのものの詳細記述は、また別のページ掲載を検討してみます。
菅無田砦周辺の写真説明
菅無田砦関係写真の説明を、このページ右側掲載中の写真から順番に説明していきます。まずは、ページ上部にある「1)菅無田砦を紹介するにあたって」項目の「菅無田砦跡近くにある峯釆女・弾正の墓碑」からです。
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菅無田砦跡周辺の全景写真(宮代町)<尾根頂上部(標高235m)付近が砦跡と峰釆女・弾正の墓がある。山麓側の右側に大手門があったようだ。この写真に写っていないが左方向に(下記写真の)菅無田古戦場の跡史跡がある>
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大村市指定史跡、菅無田古戦場の跡(宮代町)<山麓側(標高100m)に4基の墓碑と石仏がある。> |
(1)菅無田砦跡にある峯釆女・弾正の墓碑(右上側1番目写真)
この墓碑は、尾根の頂上部(235m)付近にあります。菅無田砦跡そのものの場所は、遺跡や遺物などが見つかっていないためか、まだ砦(建物)跡の特定が出来ていないようです。ただし、「峯釆女・弾正の墓碑の所が、砦跡だったのでは」との説もあります。しかし、この場所は(現在は林の中ですが、仮に木々を切ったとしても)見晴らしに難があり、私はもう何十メートルか先の所(琴平岳方向に行った所)ではないかとも推測しています。
あと、重複内容になりますが、この墓の碑文(死亡年月日)は、「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日)」となっています。これは、1日違いで(大村)郷村記を書いた役人(侍)が転記ミスしたものと言えます。つまり、仮に(大村)郷村記が正しかったとしても、合戦日程も萱瀬軍全滅日(12月12日)も、間違っていると言うことです。(『大村市の文化財』の内容も同様。詳細は峯釆女・弾正の墓碑ページ参照)
(2)菅無田砦跡周辺の全景写真(右上側から2番目写真)
この写真は郡川近くから菅無田砦跡のある尾根を撮ったものです。この尾根頂上部周辺に菅無田砦があったと言われています。砦へ向かうには曲がりくねった道を進みますが、その最初の所(山麓側、写真の右側付近)に大手門(城の正門)があったようです。
この尾根頂上部へ行くには、現在、舗装道路を車で走行すれば簡単ですが、歩く場合けっこうな上り坂です。戦国時代ならば(当然のことながら舗装道路もなかったので)厳しい地形だったと推測されます。尾根の両脇の谷(東側が”平石谷”、西側が”瀬上谷”)も、写真で見る以上に険しいものです。
(3)大村市指定史跡、菅無田古戦場の跡(右上側から3番目写真)
この山麓側(標高100m)にある墓碑には、一瀬半右衛門などの4基の墓と石仏があります。(大村)郷村記内容が仮に正しいとすれば、萱瀬軍は大将の峰弾正含め最後は総突撃して約300人が戦死したはずなのに、なぜ4基の墓しかないのか、疑問にも思います。
「いや、それ以外の人は自分が住んでいた郷墓(町墓)に葬られているはずだ」との意見もあります。しかし、私は、もしもそのような形で葬られるならば、逆に「何故、この4人(4基)も同じ萱瀬の人だから同様の扱いをしなかったのか?」と言う疑問も湧いてきます。そのような方法が、当時であっても自然なような気しますが、この4基はそうなっていません。
先の項目と重複しますが、福重の立福寺と今富の境付近で戦われた『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』時の墓=『今富の侍の墓』は、大村純忠軍側ではなく、佐賀軍(後藤貴明側)と思われます。戦死した侍の重量は相当なもので佐賀まで運びきれなかったと思われるからです。純忠軍側に戦死者が出ても、それは大村に住んでいたのですから、合戦後に郷墓(町墓)に葬られることは可能です。
この菅無田古戦場の跡にある4人(4基)も同じ萱瀬の人ならば同様の扱いになっても不思議ではないと思うのですが。萱瀬軍の大将兄弟の峯釆女・弾正の墓碑も、それは同様のことです。私の仮説ながら、尾根の山頂側と山麓側の墓碑は、江戸時代になって菅無田合戦の記念碑的な意味合いで建立されたものではないかとの可能性もあります。
あと、ここの墓の碑文には、いずれも死亡年月日については、峰釆女・弾正の墓の死亡年月日(1577年12月13日)と1日違って、「十二月十二日(12月12日)」と彫ってあります。つまり、どちらとも仮に「正しい」とするなら、(大村)郷村記による萱瀬軍全滅日も合戦日程全体の記述も、間違いと言うことになります。
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菅無田砦跡近くにある峯釆女・弾正の墓碑(宮代町)<黄色の線はCG写真加工、碑文の死亡日は「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日)」>
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2)菅無田砦と大村郷村記
大村藩が編纂した(大村)郷村記内容は、貴重な記録集ではあるのですが、真偽の問題が常に付きまとうことは度々申し上げている通りです。先の項目冒頭に同じことを書いていますが、特に、大村氏関係や合戦などについて、まるで今見て来たように詳しい内容は、そのほとんどが創作(偽装)の歴史内容です。昔から「嘘つきほどよくしゃべる」との言葉と同じです。今回の「菅無田合戦」内容も同様です。
戦国時代に佐賀の龍造寺軍と大村軍(萱瀬軍、大村純忠軍)が戦った菅無田合戦があったことは事実でしょう。しかし、先の項目にも書きました通り、その合戦月は”6月説”が正しく、(大村)郷村記に書いてある「12月説」は間違いと言われています。そのようなこともあって、これまでの城・砦紹介ページと違う文章量で紹介していることは、あらかじめご了承願います。
・大村郷村記内容について
菅無田砦と菅無田合戦については、大村郷村記第二巻243〜246〜ページの「菅牟田砦蹟 (菅牟田砦合戦 戦死之輩墓)」に詳細に記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
また、2行になっている部分は( )内に書いています。なお、見やすくするため文章の区切りと思えるところに空白(スペース)を入れたり改行もしています。ですから、あくまでも、ご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。 あと、他の城や砦紹介ページには、大村郷村記の全文を書きましたが、今回はかなりの長文なため活字版の約1ページ弱の文章のみを掲載しています。
「一 菅牟田砦蹟 (菅牟田砦合戦 戦死之輩墓) 菅牟田村にあり、高サ平地より三拾間程、頂上廣サ畝歩にして三町程、野或は小松山なり、東西尾續にて長く、南北拾間程、左右深谷なり、西南の間に細道あり、坂路至て峻し、東の方に平石谷と云深谷小川あり、
天正五丁丑年、隆信萱瀬へ攻入時、當邑の地侍等此砦に楯籠りて防戦せし所なり、此菅牟田山の頂上に、此戦ひに討死せし峰弾正の墓あり、丸の大石なり、銘二曰、峰弾正墓天正五年丁丑天十二月十二日とあり、側に石燈籠一基、古松二株あり、
又麓に同時に戦死せし今里瓣都始其外乙名共の墓四ッあり、何れも野石なり、内壹ッは今里の墓にて、銘文なし、同壼ッは長瀬名乙名の墓なり、銘に曰、長瀬名乙名某の墓、裏銘に、天正五丁丑年十二月十二日、戦死于菅牟田砦而埋于茲、因天保八丁酉十二月敬立碑とあり、同壼ッ吉丸名乙名兄弟の墓なり、 銘ニ曰、吉丸名乙名兄弟の墓裏銘前に同し、同壼ッハ一瀬半右衛門の墓なり、銘ニ曰一瀬半右衛門・藤原吉茂墓とあり、裏銘前の如し
菅牟田の砦蹟より午の方に當て高山あり、朝追岳 (舊名麻生岳)と云ふ、高サ平地より壹町四拾間程、上の廣サ東西四拾間、南北八拾間程、水の手寅卯の方壹町貮拾五間程の所にあり(今其所を不知)此所往昔天正五丁丑年、 龍造寺山城守隆信萱瀬襲來の時の陣場の跡なり、今此所に金毘羅の石祠あり、廻りに松敷拾株あり、此處より子丑の方平中に隆信腰懸石とて大石あり、隆信菅牟田の砦を攻る時、此石に腰を懸て軍兵を指揮せしとなり (以下、長文のため省略) 」
現代語訳について
上記太文字の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )、「」内、(注)や補足などは、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、菅無田砦の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
先の項目にも既に書いていますが、江戸時代当時の役人(武士)が墓碑からの転記ミスをしたり、菅無田合戦全体を「12月説」(真実は6月におこなわれた合戦)を書いたりと、この項目の記述は創作(偽装)問題が多いです。これを参考に書かれた『大村市の文化財』と言う本も同内容です。ただし、菅無田砦周辺の山谷や自然形状などの表現は、創作(偽装)ではないと思われますので、その部分は比較的正しいと思われます。あと、地名、砦名、村名の菅牟田は、現在の地名である菅無田に直して書いています。
< 菅牟田砦跡(菅無田砦跡)(菅無田合戦で戦死者たちの墓) 菅無田村にある。(この砦の)高さは平地より54mほど(注1)である。(砦のある尾根の)頂上(周辺)の広さは畝歩換算(注2)で3町(約3ha)ほどで野原あるいは小さな松の山である。東西(方向に)尾根が続いて長く、南北(方向)は約10mほど(注3)である。(尾根の)左右は深い谷である。西南の間に細い道があって、坂道で険しい。東方向に平石谷(ひらいしだに)と言う深い谷と小川がある。
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菅無田砦跡周辺の全景写真(宮代町)<尾根頂上部(標高235m)付近が砦跡と峰釆女・弾正の墓がある。山麓側の右側に大手門があったようだ。この写真に写っていないが左方向に(下記写真の)菅無田古戦場の跡史跡がある>
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天正五丁丑年(西暦1577年)、(佐賀の龍造寺)隆信(注4)が萱瀬に攻め入った時に、当村(萱瀬村・菅無田村)の地侍(地元・在野の武士)(注5)などが、この砦に立てこもって防戦した所である。この菅無田の山の頂上に、この戦で討ち死にした峰弾正の墓(注6)がある。丸い大きな石である。(碑文の)銘文には、「峰弾正墓 天正五年丁丑天十二月十二日」(1577年12月12日)(注7)となっている。(墓の)そばに石灯籠(いしどうろう)1基と古い松が2株(本)ある。
また、山麓には同時に戦死した今里瓣をはじめその他の墓が4基ある。いずれも自然石である。その内1基は、銘文(碑文)がない。 (前に)同じく1基は長瀬名と言う乙名(注8)の墓である。銘文には「長瀬名乙名某の墓」、裏側の銘文には「天正五丁丑年十二月十二日(注9)、戦死于菅牟田砦而埋于茲、因天保八丁酉十二 月敬立碑」と(彫って)ある。
(前に)同じく1基は、吉丸名乙名兄弟の墓である。銘文は吉丸名乙名兄弟の墓の裏側の銘文(前に書いた内容)と同じである。(前に)同じく1基は一瀬半右衛門の墓である。銘文には「一瀬半右衛門・藤原吉茂墓」とある。裏側の銘文(前に書いた内容)と同じである。
菅無田砦跡より南の方角に高い山があって朝追岳(旧称は麻生岳)(注10)と言う。高さは平地より約181mほどである。(山の)上の広さは東西約47m、南北約262mほどである。水の確保できる所が東北東方向約140mにある(今、その所は不明である)この所(朝追岳)は、天正5(1577)年に龍造寺山城守隆信が、萱瀬村来襲の時に陣場(軍を配置した場所)の跡である。今、この所には金毘羅(神社)の石祠がある。
まわりには松の木が10株(本)ある。この所より北北東(方向の)の平らな場所に(龍造寺)隆信の腰かけ石(注11)と言う大きな石がある。隆信は菅無田砦を攻める時に、この石に座って軍勢の指揮をした。 」(大村郷村記は、まだまだ長文だが省略)
現代語訳の注釈や補足など
(注1):「平地より54mほど」と書いてあるが、山麓側の4基の墓がある所が標高100mで、この頂上側が230mなので差し引き「平地より130mほど」が正しい表現である。ただし、砦が低い位置にあったならば当然別である。
(注2):「畝歩」とは尺貫法の畝などで数える方法である。、
(注3):ここに書いてある(菅無田砦周辺の)尾根形状は方角・方向や長さも実際と全く違う数値である。掲載写真を見れば、それは一目瞭然である。
(注4):龍造寺隆信=(1529〜1584)戦国時代の武将。肥前の人。幼時に出家し、のち還俗。佐賀城に拠り、少弐・大友・有馬各氏らと戦って勢力を拡大したが、島津氏に敗れて自刃。(大辞泉より)
(注5):地侍とは、国語辞典の大辞泉では「中世後期の有力名主層。惣(そう)の中心になるとともに、守護や戦国大名の家臣にもなった」と書いてる。この菅無田合戦では萱瀬村・菅無田村に在住している「地元の侍」と言う意味合いである。
(注6):峰弾正の墓についての詳細は、峰釆女・弾正の墓ページを参照。
(注7):大村郷村記にには「十二月十二日」と書いてあるが、峰釆女・弾正の墓の碑文には十二月十三日(12月13日)となっていて転記ミスである。たった1日違いではあるが、短い合戦日程の全てに影響を与えている。そのため、この日の前も後も間違い記述になっている。仮に創作(偽装)の菅無田合戦が「12月説」だったとしても、(大村)郷村記も、それを参考に書かれた『大村市の文化財』の内容も合戦日程関係は間違いである。
(注8):乙名(おとな)とは、国語辞典の大辞泉には次の<>内が書いてある。<1 (「長老」「宿老」とも書く)室町時代、惣(そう)を指導した有力な名主(みょうしゅ)。 2 江戸時代、長崎で町役人の職名。長崎奉行に属し、町内の行政事務を扱った。> この辞典の意味から推測して現代風に言えば地域の町内会長みたいな人が、菅無田合戦に参加し戦死したと同じことと思われる。
(注9):山麓側(標高100m)にある墓の碑文には、死亡日として「天正五年丁丑天十二月十二日」(1577年12月12日)おり、尾根山頂(230m)にある峰釆女・弾正の墓のに彫られている死亡日が1日違いがある。本来なら、仮に創作(偽装の)「菅無田合戦12月説」だったとしても、(大村)郷村記は山麓側の墓碑を書き写したと思われる。
(注10):現在の琴平岳(ことひらだけ、334m)について(大村)郷村記では「朝追岳(旧称は麻生岳)」とある。しかも、「朝追岳」の由来は(概要)「萱瀬軍全滅後、大村純忠軍が龍造寺軍を未明に追いかけて退却させた」からだみたいなことを書いてある。しかし、この記述自体が創作(偽装)の歴史で実際は大村純忠は負けて龍造寺に和睦したのが事実経過であって、「朝に龍造寺軍を追いかけ退却させた」こと自体なかったことであろう。私の推測ながら合戦とは関係なく、この山は「麻生岳」、「朝追岳」両方の山名で呼んでいたので、むしろ「朝追岳」の山名から、創作(偽装)の「合戦経過」を思いついたと考えられる。ご参考までに(大村)郷村記より相当早く出来た大村藩領絵図には「朝追岳」、(大村)郷村記の完成より50年ほど先に大村領を測量した伊能忠敬の絵図には「麻生山」と描かれている。また、当時の山川の地名だけではないが、音読みで合っていれば漢字表記の方は様々な当て字や似たような文字も書いてある。
(注11):上野は「龍造寺隆信の腰かけ石」を探してまわった。いくつかそれらしき石は見調査し撮影もした。しかし、(大村)郷村記の記述通りの方角方向ではない。また、この山(現在の琴平岳のこと)の形状からして、尾根沿いの斜面に木が繁っていれば「腰かけ石」から自軍も菅無田砦周辺(現在の萱瀬小学校の東側地域)も見えない。しかも、ここは急斜面過ぎてスキー場が出来るくらいで、そんな所は戦がしにくい。しかし、頂上より東側の沢状斜面の上側にある(腰かけ石になりそうな)大きな石の方が、むしろ見晴らしも良く指揮しやすい所である。大村藩領絵図にも山の東斜面に「古戦場」の文字と楕円形のマークが描かれている。したがって、琴平岳頂上直下(萱瀬小学校方向)の「腰かけ石」説は地形上からしてもおかしいと思われる。これは大村市設置の菅無田古戦場跡説明板にある絵(龍造寺軍の陣容)も一部において間違いと思われる。
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大村市指定史跡、菅無田古戦場の跡(宮代町)<山麓側(標高100m)に4基の墓碑と石仏がある。> |
後書き
このページご覧の通り、菅無田砦についての基礎史料(資料)が少なく、また例えば砦跡の敷地状況や遺物なども目に見える形ではないので書きにくかったのが正直なところです。さらに菅無田合戦を記述してあります(大村)郷村記内容が、創作(偽装)の「12月説」で、しかも大河ドラマみたいな詳細内容になっているので、そのような事項に反論書くのも相当かかりました。
様々な状況から、これまで掲載してきました他の城・砦・館の紹介ページと違って合戦の状況を多く書いたことは、やや本来目的(菅無田砦紹介)から外れてもいまして、その点はご容赦願います。
なお、私だけかもしれませんが、菅無田砦について現地で調べればしらべるほど色々な疑問に突き当たってきます。特に、「本当に峰釆女・弾正の墓がある所(標高約230m)が砦跡だろうか?」と言う基本的な事柄もあります。また、私は菅無田合戦時の二か所(山麓側と頂上側)の墓碑そのものについても、疑問を持っていることは先に書いた通りです。今後、菅無田合戦については、現地の調査と写真のCG加工作業中もあり、いずれ機会あれば別建てページで紹介も考えています。
古記録は参考にせざるをえませんが、先入観や早急な結論を持つことなく、じっくり、ゆっくり調べていきたいとも思っています。そのような段階で何か新しい資料や調査結果が分かれば、このページを改訂したいと考えています。