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鳥甲岳(769m、大村市黒木町より遠望。写真中央の先端部が頂上と思われがちだが、真の頂上は右奥方向へ約280m行った所で三角点もある)
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1)鳥甲城を紹介するにあたって
まず、この鳥甲城については、諸説あります。今回このページでは、現在の鳥甲摩利支天宮の場所にあったと仮定して書いていますので、その点は、あらかじめご了承願います。
この城址については、江戸時代に編纂された(大村)郷村記には記述されています。しかし、大村藩領絵図には山名はありますが、城名は書いてありません。また、近代なって大村市内の郷土史の先生方が、書かれた詳細な論文はないようです。
ただし、『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、次の項目で掲載)には、概要が紹介されています。あと、このページでは、2008年2月2日に第3回福重郷土史講演会が開催され、この時に講演された大野氏(大村市文化振興課)の話しや、その後のアド バイスなども参考にして書いています。
私は、この鳥甲岳には、今まで5回(内1回は拓本作業実施、1回は大村ケーブルテレビの番組企画で案内と説明も含めて)登山しました。この頂上登山とは別に、写真撮影のため鳥甲岳周辺の林道や市道などを歩き回ったこともありました。
そのような経験から、私自身も現地調査や城を遠望できる地点からの撮影などもしましたので、その範囲内ながら書いてみようと思っています。次に、先に述べたように鳥甲城址が紹介されている数少ない書籍の一つである『大村市の文化財』を下記に書いていきます。
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鳥甲岳(奥左側:頂上、奥右端側:鳥甲城址=鳥甲摩利支天宮、大村市中岳町の南川内から遠望)
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鳥甲城址=鳥甲摩利支天宮の境内(西側から撮影。手前が鳥居、奥が石碑、尾根に横幅7m、奥行き18mの真っ平ら部分があり、やや傾斜面を入れると奥行き全体では30m弱の平地がある)
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鳥甲摩利支天宮の石碑(中央左側、上記写真の奥側にあり、手前側が境内の平地)
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鳥甲城が紹介されている書籍
『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の22ページに、次の<>内のことが書いてあります。
< 鳥甲城跡
この城は、鳥甲山の主峰から南西に下った約665m(注1)の尾根にありました。堀切でさえぎられ、南西は断崖になっています。尾根上には東西に29m、南北に9mほどの平地があり、大手は西にありました。 (注2)文明6年(1474)16代純伊(すみこれ)と、有馬貴純が中岳原で戦った時に、大村勢の最後の拠り所として大村大和守純明に守らせた所といわれます。 鳥甲山は、頂上がとがって鶏の頭に似ているところから名付けられたといわれ、 摩利支天宮(まりしてんぐう )を祭る峰です。 摩利支天宮は、大村純忠の3男、大村右馬之介純直が剣術を修業した地としても知られています。 >
上記の補足と注釈:
(注1):この本には「約665mの尾根」と書いてあるが、上野調べの地図では、鳥甲城址=鳥甲摩利支天境内の標高は約751mであった。ご参考までに、鳥甲岳頂上は769mである。
(注1):次の「」内の「文明6年(1474)16代純伊と、有馬貴純が中岳原で戦った時に、大村勢の最後の拠り所として大村大和守純明に守らせた所」部分で「大村純伊」が書いてあるが、この「大村純伊」伝説自体全てにわたって、江戸時代の大村藩がおこなった創作(偽装)の歴史と言われている。仮に「大村純伊」が存在したとしても史実の年代が全く合わないと言われている。また、大村氏系図上の「第16代大村純伊」や「第18代大村純忠」などの代数も初代自体が存在せず、それ以降の代も事蹟がなく間違いであることも書いておく。(詳細は『お殿様の偽装』ページ参照)
鳥甲城写真の説明
まず、右側1番目の鳥甲岳遠望写真の撮影地点は、黒木町側からです。経ヶ岳(1076m)や多良岳(996m)の登山口(長崎県営バス終点)に当たる所から約150m〜約200m郡川砂防公園側に戻った周辺で、この山の形が見れます。
鳥甲岳の名前の由来は鶏の鶏冠(とさか)に似ているからです。(詳細は、鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮ページ参照)ただし、上記写真中央の先端部が頂上と思われ方がいらっしゃいますが、、真の頂上は右奥方向へ約280m行った所です。頂上からの見晴らしは、木に囲まれているため悪いのですが、土俵位の平地と中央には三角点もあります。
次に右側2番目写真ですが、この撮影地点は中岳町南川内の車道から撮ったものです。同じ鳥甲岳でも、先ほどの鶏の鶏冠に似た山容と全く違うように見えます。鳥甲城址=鳥甲摩利支天宮の場所は、頂上から(写真では右端側に下った)尾根の先端部上にあります。
右側3番目写真は、鳥甲摩利支天宮の境内です。手前が鉄製の鳥居、奥側に鳥甲摩利支天宮と彫られた石碑があります。ここには、他の石碑もありますので、その詳細は、鳥甲摩利支天宮ページを参照願います。あと、この境内の広さは、上野調べで横幅約7m、奥行き約18mが真っ平ら部分で、さらにやや傾斜面を入れると奥行き全体では30m弱の場所です。
2)鳥甲城と大村郷村記
まず、(大村)郷村記に記述された「鳥甲の古城」(鳥甲城)の項目は、大村郷村記第二巻241ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでもご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。
一鳥甲の古城
久艮原往還樓の兎路と云ふ處より巳午の方にあり、高サ平地より二町程、頂上東西拾六間、南北五間程野地なり、東の方高く、西南の方深谷、三方岩石峙て甚瞼岨なり、谷合の尾より上る口貮ヶ所あり、漸く一騎通りの細道なり、城外子の方三拾間程の處に水の手あり、尾續の間堀切の跡あり、此所今に堀切と名付く、往昔文明六年信濃守純伊有馬肥前守貴純と萱瀬村中岳に於て及合戦の時、此城に楯籠るなり
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鳥甲摩利支天宮(本宮)(周囲は大きな岩場で本宮は岩の中間に祀られている)
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現代語訳について
上記太文字の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、鳥甲城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
特に、毎回の城紹介ページでも書いていますが、「大村純伊」伝説などが記述されている場合、その内容は江戸時代、大村藩の創作(偽装)の歴史と言えます。また、この鳥甲城については、城址位置関係や周辺の地形説明部分で私の現地調べが悪かった関係もあるかもしれませんが、大村郷村記内容と違う部分が現状ではあると思われます。
< 鳥甲城 久艮原の道路の「兎路」と言う所より南南東の方角にある。高さは平地より218メートルほどである。東西29m、南北9メートルの平たい所である。(城址周辺は)東の方が高く、西南の方は深い谷、三方は岩石でそばだっており、それは険しい。
谷合の尾根より登る入口が二か所あって、しばらくは一人馬しか通れない細い道である。城外から北側方向54メートルほどの所に水を引き込む水路がある。尾根の間に堀切の跡がある。ここは今では堀切と名付けている。大昔の文明6年信濃守純伊が有馬肥前守貴純と萱瀬村の中岳においての合戦時、ここの城にこもった。 >
先の内容と重複して書きますが、江戸時代に編纂された(大村)郷村記は、その記述において方角や距離の間違い、さらには「大村純伊」伝説などは創作(偽装)内容もありますから、充分な注意が必要です。
私は、これを信じたばかりに大恥をかき、何回も後で訂正したこともあります。しかし、大昔の史跡を調べる上では他の書籍類に書いてないので貴重な情報でもありますので、参考程度に見て頂き、必ず自ら確かめて頂けないでしょうか。
3)鳥甲城を概要地図から推測して
この項目、まずは右側2枚の地図(上下2枚の画像)を、ご覧願います。上側地図の左上部にあるのが鳥甲岳(769.4m)です。同じく右側上部が現在、鳥甲摩利支天宮がある場所(750.7m)で、この地が鳥甲城があった所と言われています。
鳥甲城址の三方は険しい谷で自然の石垣のようだ
この場所は、ゆるやかな尾根道以外、三方に険しい谷があり、大きな岩場が直立している所ですが、そのことは地図上の等高線間隔でも分かります。実際この場所に立って眺めてみますと、文章や等高線間隔よりも実感として「険しいなあ。こんな所に戦国時代、城(砦)があったのかあ?」と思うほどです。
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鳥甲岳(769.4m、左側上部の三角点) 右側上部に鳥甲摩利支天宮(750.7m、鳥甲城があった場所と言われている) |
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鳥甲摩利支天宮(750.7m、鳥甲城址、西側に大手=城の正面があったと言われている) |
さらに考えれば、これだけ急峻な尾根があると、通常、城(砦)には、ちょっとした石垣もあるものですが、この鳥甲城に関しては何も必要ないと思いました。つまり、大きな岩場そのものが、「自然の石垣」のようにも見え、この城は天然の要害だったと思えました。<大きな岩などは右上側より5番目の鳥甲摩利支天宮(本宮)写真を参照>
あと、この城址周辺だけでなく鳥甲岳頂上に至る尾根伝い(登山道)の両脇(北側と南側)の斜面は、どこでも険しい谷なっています。特に、頂上尾根へ登る最後の数100mは険しく、登山道の一部で岩の間を通り抜けるような感覚になるくらいです。(上側地図の等高線も参照)
次に下側地図は、上側地図の右上部を拡大したものです。この地図で、鳥甲摩利支天宮の境内は黄色部分です。この境内の広さは、上野調べで奥行き約18m、横幅約7mが真っ平らな所で、やや傾斜面を入れると奥行きでは全体で30m弱あります。(右側上から3〜4番目写真参照)
先に書いています通り、この真っ平らな所と、その周辺を入れた場所が、鳥甲城址と言われているのですが、私なりの考えで補足をこれから書いていきます。ただし、山麓にある登山口からの行程説明は省略します。
西側にある鳥甲岳頂上方面と東側にある鳥甲摩利支天宮への登山道分岐にもなっている尾根の三差路(下側地図、中央やや左下部の茶色点線の3本が重なった所)から鳥甲摩利支天宮へは5分位で着きます。
(蛇足ながら、ここの尾根道は広くて落葉サクサクで、まるでスポンジの上を歩いているような大変気持良い登山道です)平らな境内に入る前に少し上り坂があります、それを過ぎると鉄製の鳥居が見えてきます。
鳥甲城と関係ある「水路」と「堀切」の場所は?
ここに至る間に、本来ならば大村郷村記にある(現代語訳で)「城外から北側方向54メートルほどの所に水を引き込む水路がある。尾根の間に堀切の跡がある。ここは今では堀切と名付けている」と言う内容が、先の三差路周辺に痕跡でもいいからないといけないはずです。
しかし、私が何回調べた範囲内の結果で、「水を引き込む水路」や「尾根の間に堀切の跡がある」などについて、候補地のいくつかはありましたが、判明や確定に至りませんでした。戦国時代や後世の時代も含めて、このような山では何も城(砦)や戦だけでなく、通常の山仕事あるいは鳥甲摩利支天宮へ参詣する時などで、水の確保は最重要のはずです。
また、(私の推測ながら、この場合にじむように湧き出している)清水は、山容全体が大きく変化しない限り、水源そのものは変わらないものです。特に、鳥甲岳頂上から下っている尾根伝いの地形は、太古の昔から変わってないように思えます。機会あれば、また調べてみたい場所でもあります。
あと、上手の左端よりさらに左(西側)へ行った先に先に紹介中の宝満城があります。そのページにも既に書いていますが、鳥甲城と宝満城の関係で(大村)郷村記には(現代語訳で)「この砦(宝満城)は鳥甲城の防衛のために築かれた砦と言う説が伝わっている」とあります。しかし、二城の間は、遠い距離(直線でも3km前後)ですし、現在、高い狼煙を上げない限り、どちらからでも見渡せない山並みや地形からして、本当に先の説が正しいのか、どうか疑問のあるものです。
鳥甲城の標高と全国の城との関係
この項目、まず日本三大山城と呼ばれている3城址を紹介します。それは、次の岩村城(717m、岐阜県恵那市岩村町)、高取城(583.9m、奈良県高取町)、備中松山城(430m、岡山県高梁市)です。いずれも、城にまつわる興味深い歴史があり、豪壮な城の構えや石垣などの姿形も良く、さらには立派に保存されています。城ファンの方なら、一度は訪ねてみたい名城ばかりです。
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鳥甲摩利支天宮(東側から撮影。手前左側が石碑類、奥側に鉄製の鳥居が見える。境内は真っ平である)
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それに比べ、城の建物跡も石垣跡も今回の鳥甲城にはありません。人工的な石垣では当然ありませんが、周辺には「天然の石垣」みたいな高さ15mを越す直立した岩場があります。(右側上から5番目写真参照)そのような岩場や三方が急斜面の谷は、まさしく「天然要害の城」とも言えます。
あと、ここには城址と思わせる平らな場所(上野調べで横幅約7m、奥行き約18mが真っ平ら部分で、さらにやや傾斜面を入れると奥行き全体では30m弱の場所)があります。(右側上から5番目、8番目写真参照)右側の写真は、摩利支天宮境内の東側から撮ったものですが、石碑のある反対側(東側)には鉄製の鳥居が見えていますが、その部分までは真っ平らな所です。
現在、一般には、ここは鳥甲摩利支天宮の境内と言うだけの認識だと思えます。ですから、通常、登山客や市民には、この境内が「城のイメージ」とか、先に紹介しました日本三大山城とは印象が違うように見えておられるかもしれません。
しかし、この鳥甲城は、江戸時代に編纂された(大村)郷村記に鳥甲の古城と記述されている、まぎれもない城跡です。その場所(現在の鳥甲摩利支天宮の境内)の標高(750.7m)は、上図の2枚の地図(画像)が、正しければ標高日本一の岩村城(717m、岐阜県恵那市岩村町)より、約33mも高い位置にあることになります。
私は、全国にある城址の標高を全部調べた訳ではありませんが、「この鳥甲城は、もしかしたら 日本一高い標高にある城址かもしれない」 とも思っています。
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鳥甲摩利支天宮(東側から撮影。戦国時代、鳥甲城があった頃に大村右馬之助純が剣術修行をした場所)
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4)大村純忠の三男とも関係ある鳥甲城
この鳥甲城は、戦国時代、大村純忠の三男、大村右馬之助純直(おおむら うまのすけ すみなお、1618年7月死去。戒名は發性院日然大居士 )と関係があります。この件は、既に鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮ページに大村郷村記やその現代語訳で紹介中です。
詳細は、先の鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮ページをご覧頂くこととして、その概要を箇条書き風に書けば、大村右馬之助純と鳥甲城は、次のような事柄があります。
(1)大村右馬之助純は、鳥甲城で剣術の修業をした。
(2)その後、三尺(約91cm)の太刀を大きな岩の間に納めた。
(3)そして、この太刀を御神体として、摩利支天と崇め祀った。
それから、このご神体の太刀は、様々な変遷がありますが、詳細を知りたい方は、太刀の概略図含めて鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮ページに紹介中ですので閲覧願います。あと、これらの事項とは、直接の関係はないと思われますが、大きな岩の中間にある鳥甲摩利支天宮の本宮(右側の上から5番目写真参照)の下側には、稲荷も祀ってあります。
まとめ
鳥甲岳(769m)は、春夏秋冬を問わず登山客の多い山です。大村市内で標高700m以上の山と限定すれば、私の推測ながらベスト3に入るような人気の山と思われます。特に、春や夏休みなどを利用して、小・中・高校生始め何十人規模の大勢で登山されている場面を何回か見たこともありました。
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鳥甲岳(奥左側:頂上、奥右端側:鳥甲城址=鳥甲摩利支天宮、大村市中岳町の南川内から遠望)
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このように鳥甲岳は人気の山なので多くの登山客の中には、先の項目でに紹介しました尾根伝いの三差路から少し歩いた所にある鳥甲摩利支天宮にも立ち寄れたとも想像しています。しかし、この境内には鳥甲摩利支天宮の石碑と日露戦争の記念碑などしかないので、一般には、この場所が戦国時代、鳥甲城だったと思われる登山客や参詣客の方は、ほとんどおられないと推測しています。
現在、一般の地図やグーグルアースの航空写真などから、当時の大村領全域さらには萱瀬の鳥甲城付近を眺めてみると、「なぜ、標高750mを越す急峻な所に山城(鳥甲城)を築かなければならなかったのか?」という疑問が解けるような気がします。
この城は、当時、大村領侵攻を狙う佐賀側の軍勢に対し防衛や睨み(にらみ)を効かす、あるいは他の城への連絡拠点と言う重要な役割を担っていたと想像されます。当時、大村領内に数多くの城や砦が存在していましたが、鳥甲城は、ある面”最前線の城”の一つだったともいえます。
また、先の項目で紹介した通り、大村純忠の三男、大村右馬之助純直が剣術修行をした所とか、それが縁で、その後この地が鳥甲摩利支天宮になった経過もあります。さらに重複したことを書きますが、私は「この鳥甲城は、もしかしたら 日本一高い標高にある城址かもしれない」 とも思っています。
このように鳥甲城は、けっこう事柄や話題のある城址でもあります。このページをご覧になった方で、今後、鳥甲岳(頂上)登山の折、少しだけ脇道にそれ鳥甲摩利支天宮にも足を向けて頂けないでしょうか。そして、「あー、ここが戦国時代、最前線の城だったのか」とか「標高750mにある鳥甲城は日本一高所にある山城かあ」などと、当時の侍の活躍なども含めて想像して頂ければと思っています。
この鳥甲城について、新たに何か有力な史料(資料)が出てきましたら、このページへ補足、訂正含めて今後も掲載していこうと考えています。何か情報お持ちの方は、連絡メールなどもして頂ければ嬉しい限りです。(メールは、ここからお願いします)
5)大村市史の鳥甲城について
この鳥甲城について、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)に記述があります。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史825〜826ページに、「一、 鳥甲城」として下記<>内の通り書いてあります。
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鳥甲岳(769m、大村市黒木町より遠望。写真中央の先端部が頂上と思われがちだが、真の頂上は右奥方向へ約280m行った所で三角点もある)
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なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。また、パソコンで表示できない文字は、似た文字に変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。
< 鳥甲城
大村市黒木町・中岳町の境界に所在する、標高約七七○メートルの鳥甲岳の山頂付近にある城といわれる。鳥甲岳は佐賀県鹿島市へ通じる往還の東側にあり、山頂から摩利支天宮まで細長く続く岩山である。
城について 『大村郷村記』には、 「頂上東西拾六間 (約三○メートル) 、 南北五間 (約九メートル) 程の野地なり。 東の方高く、西南の方深谷、 三方岩石にて峙て、甚だしくて険阻なり。 」 とある。文明六年 (一四七四) の大村純伊の時代に、有馬貴純との中岳合戦の際、この城に立て籠ったという。
ただ、 「頂上」 には 『大村郷村記』 に記述されているような規模の平場は確認できない。板状玄武岩の露頭した部分が尾根上の西側に多く見られ、人為的な石積みに見うけられるところもある。
城の立地から推測すると、鹿島からの往還を見張る機能が考えられるが、かなり奥まった山地であり、山頂部の木々を除いたとしても眼下への見通しは悪い。尾根の東方に摩利支天宮の祠がある平場があり、ここは切岸が明瞭で、眼下に黒木の集落と道路を見ることができる。見張り台としての機能を求めるのであれば、この場所が有力と思われる。 >
補足
(今後、補足があれば順次書いていきます)