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立福寺の地蔵

写真
所在地:大村市 立福寺町(六社権現の境内)

  この立福寺の地蔵(りふくじのじぞう)は、立福寺町、六社権現(ろくしゃごんげん)の境内にあります。(注:数十年前の工事の時、作業者の方が薬師如来と地蔵の土台石を取り違われ、現在この地蔵立福寺の薬師如来の土台石の上に乗っている) 地蔵本来の土台石には、碑文などはありません。 この地蔵本体の大きさは、高さ52cm、横幅25cm、胴囲は53cmのスマートな造りで、姿形が良いです。

 江戸時代に編さんされた(大村)郷村記には、六社権現の敷地内で記述されています。その当時の場所は、龍福寺跡のやや北部で通称「権現山」の周辺にあったと思われ、近代になって現在地に移設されたと推測されます。 (左側写真:中央部が立福寺の地蔵。ただし、土台は立福寺の薬師如来のものである。奥の左端側は立福寺の若宮権現である)

 地蔵とは、国語辞典の大辞泉によれば、次の「 」内の通りです。「釈迦の入滅後から弥勒(みろく)仏が世に現れるまでの間、無仏の世に住み、六道の衆生(しゅじょう)を教え導くことを誓いとした菩薩。中国では唐末、日本では平安中期から盛んに信仰された。像は慈愛に満ちた円満柔和な僧形に作り、多くは右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ。 」

名称について
 この立福寺の地蔵を話す場合、地元・立福寺町の方々は、通常「地蔵さん」とか「地蔵」とか呼称されています。当然、町や地域(集落)単位では、この名称でも良いです。ただし、仏の里・福重(目次ページ)」にもあります通り、同じ福重地区内でも同種の地蔵は、他にもあります。例えば既に掲載中の竈権現の地蔵(かまどごんげんのじぞう、寿古公園横)もありますし、まだ、未掲載の地蔵もあります。

左手前側:立福寺の地蔵
(中央部:立福寺の薬師如来、右側:立福寺の馬頭観音
)

 また、似たような名称ながら、その種類も建立年代も違いますが、六地蔵もあります。さらに言えば、大村市内全域ならば、地蔵の数は沢山あります。このようなことから、重複による混乱を避けるため、名称については、今後、立福寺の地蔵と書いていこうと思っています。この点、ご了承願います。

大村郷村記の記述
 この項目、あらかじめ書いておきますが、江戸時代に編さんされた(大村)郷村記に記述されている、この立福寺の地蔵についての内容は少ないです。また、地蔵の本体や土台石に碑文もないため、(大村)郷村記の内容が、今回の地蔵について記述されているのかどうか、明確な判断ができません。

 また、(大村)郷村記に記述されている地蔵は、若宮権現の項目にあります。この若宮権現は、推測ながら近代になって六社権現と同じ所に移転したものと思われます。しかも、その郷村記内容を見ますと、地蔵が2体あったように書いてあります。そのような事柄も念頭にして、ご覧願います。

 なお、下記には地蔵に関する記述のみを書いていますので、前後の記述含めて知りたい方は、若宮権現ページの「大村郷村記内容」項目を参照願います。(大村)郷村記の内容は、下記の太文字部分です。下段の青文字は、上野の現代語訳です。

 地藏 石立像 例祭不知   外二古地藏壹躰あり
 
<現代語訳> 地蔵は石(造)の座像である。例祭(月日など関係)は不明である。 ほかに古い地蔵が一体ある。 

 注意:上記の通り、地蔵が2体あったように書いてあります。そのことから、このページで紹介しています立福寺の地蔵が、どちらになるのか、これ以上の記録や碑文などがないため、現在では正確に言えば不明と言わざるを得ません。

補足説明
 

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


(初回掲載日:2017年8月2日、第2次掲載日:8月5日、第3次掲載日:8月6日、第4次掲載日:8月 日)

 

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