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福重の名所旧跡や地形

六社権現立福寺町)
 六社権現  場所:長崎県大村市 立福寺町


  六社権現の正確な創建は不明ながら平安時代に出来たと言われている龍福寺の鎮守神の役割があったと思われます。当初は「七社権現」で、その後、六社権現となりました。

 戦国時代の1574(天正2)年、キリシタンによる破壊、略奪、焼き打ちに遭って一旦なくなりましたが、正保4(1647)年5月に「六所(社)権現」として再建されました。

 現在、六社権現の拝殿、境内に薬師如来、地蔵、馬頭観音などの石仏もあります。(注:左側写真は改築前の六社権現)

概要紹介
 
(寿古町の増元さん作成資料によれば)六社権現は、創立当初から六社権現ではなかったようです。龍福寺を守るために創立は不明ですが、当初、「七社権現」が祀られていたようです。。七社権現は比叡山の仏を守る鎮守神です。しかし、龍福寺に関する1459年(室町時代)の古文書には「地蔵並びに六所権現」と書いてあります。

 七社権現とは、1,小比叡(薬師) 2,三宮(普賢) 3,大宮(釈迦) 4,八王子(千手) 5,聖真子(阿弥陀) 6,客人権現(十一面)と7,「禅師(地蔵)」の七つを言います。その七つの内「禅師(地蔵)が独立して祀られるようになったため、残りの六つが「六社(所)権現」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

  戦国時代の1574(天正2)年、キリシタンによる破壊、略奪、焼き打ちに遭って一旦なくなりました。しかし、江戸時代になり正保4(1647)年5月に六所(社)権現として再建されました。 大村藩領絵図には、「六社権現」の名称で書いてあり、(大村)郷村記の方は「六所権現(64ページ)、「六所権現(72ページ)名称で記述されています。

 六社権現の場所について、、以前は現在地と違う所にありました。(通称で)”権現山(ごんげんやま)”と呼ばれている龍福寺跡近くの木々が茂っている場所にあったようです。また、現在地では、若宮権現(大村郷村記によれば1660年に建てられ1747年に再建された)、薬師如来、地蔵、馬頭観音などが同じ境内に祀られています。

大村郷村記内容

 六社権現については、大村郷村記第二巻121ページに記述されています。下記の「 」内が、その引用致した文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています。また、2行になっている文章は、( )内で書いています。原文は、縦書きの旧漢字体などです)

 下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。ですから、あくまでも、ご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

「 七山の内竜福寺
一 六社大権現 (神躰座像鏡形鋳付 例祭九月十三日 宮代市左衛門 宝円寺勧請) 氏子中祭之

神殿 五尺ニ 六尺
舞殿 九尺方 瓦宇
拝殿 弐問梁ニ 三間 萱宇
石鳥居 壱基

旧記 壱巻
境内拾八間ニ 弐拾問程竹木あり外ニ 屋鋪畠弐畝四歩程

当社は元竜福寺と云寺蹟なり 正保四丁亥年五月六社大権現建立

棟礼
奉造立六所権現一間四面社一宇現当二世安楽
正保四年丁亥五月廿三日信心大檀那大村丹後守藤原朝臣純信公息災延命武運長久祈所 遷宮導師法印権大僧都清尊長久寺 」
 (注:は、梵字のマークあり)


現代語訳
 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。( )内は、私が付けた補足や注釈です。なお、(注)などは国語辞典の大辞泉を引用しています。念のため、この現代語訳は正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

  (郡)七山(十坊)の内の竜(龍)福寺
 六社大権現 ご神体は座像で鏡形をした鋳物に模様付きである。例祭は(毎年)9月13日である。宮代(神社の代表)は市左衛門である。(池田山)宝円寺で祀ってもらっている。氏子が、この例祭をおこなっている。神殿は(奥行き)1m50cm、 (横幅)1m81cm。 舞殿は2m7cm四方で瓦屋根である。 拝殿は梁の長さ3m62cm、5m43cmの藁ぶき屋根である。 石の鳥居が1基ある。

古記録が一巻ある。 境内は(奥行き)14m48.cm、 (横幅)36m程で、竹と木が外にあって、屋敷の畑が約211平方メートルである。 当社(六社大権現)は元・竜(龍)福寺と言う寺院跡である。正保4(1647)丁亥(ひのとい、ていがい)年5月に六社権現として建設された。

棟礼(注1) 、六所(社)権現は、屋根が一間(1.81m)四方あり、現世(この世)と来世(あの世)の二世に渡って幸福に暮らせることを願って建設、奉納された。

正保4(1647)丁亥(ひのとい、ていがい)年5月23日に領主・大村丹後守藤原朝臣純信公の息災・延命・武運長久を神に祈願する所として信仰心を持って建設された。長久寺の(大僧都の位にある)清尊(住職)によって遷座の儀式が執り行われた。 

(注1):棟礼(むねふだ)=棟上げのとき、工事の由緒・年月日・建築者・工匠などを記して、棟木に打ちつける札。むねふだ。
(注1):遷座(せんざ)=神仏または天皇の座を他の場所に移すこと。また、それが移ること。


補足など
 この六社権現の境内には、若宮権現の石祠(せきし)、薬師如来、地蔵、馬頭観音などがあります。この内、薬師如来と馬頭観音についての調査や拓本作業は、既に2011年11月7日に終了しています。ただし、これらの石仏を、このページに紹介するのではなく、別途ページを作成してみようとの構想もありますので、その時点までお待ち願えないでしょうか。

 あと、この境内では、毎年秋には、馬頭観音の祭りも開催されているようです。その時、供えられるものが、いくつかあります。その一部を『大村の歳時記』シリーズの「ごくさん、ごっくさん」ページに掲載中ですので、右側の写真とともに、ご参照願います。

 また、どの地域でも同様なことですが、町(郷)の権現様は、公民館ができるまで、その役割を果たしていました。例えば、町(郷)民全体での会合(当時は町内会の名称よりも「郷会」、「郷寄り」と言っていた)または集合写真を撮る場合、そのほとんどが権現様でした。

 つまり、権現様は、今で言う”町のコミュニティー・センター(公民館)”、”町の中心地”の役目だったといえます。当然、立福寺町でも戦後しばらくして公民館が建設されるまで、今回紹介の六社権現は、その役割を果たしていました。

2016年の改築

<概要説明文>
  この六社権現は、上記項目の写真をご覧になればお分かりの通り、古くなり改築の必要性がありました。5年ほど前から町内で浄財を集めたり、立福寺町出身者含めて寄付の要請などに取り組んでおられました。そのような改築基金に目処がついたこともあり、2016年8月25日に建物の解体工事をおこない、その後、改築が進みました。

  そして、秋には堂の建設は進み、建物の完成後の同年11月29日には魂入れもしておられました。そして、12月18日、六社権現の改築祝いと馬頭観音祭(立福寺町の秋祭り)が、盛大に開催されました。特に、立福寺の龍踊の龍を奉納するために、境内と堂を一周し、龍頭部分を堂内へ入れ拝礼されていました。

 また、餅まきも、近年見られない位の大量に用意されて、賑やかにおこなわれました。この完成祝い概要報告は、下記のリンク先からも参照できます。

関係ページ:龍福寺跡  、 「(2016年12月18日)六社権現の改築祝いと馬頭観音祭(概要報告)」 、立福寺の龍踊



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