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大村藩領絵図の立福寺周辺(中央部上部に斜め小文字の若宮権現あり) |
概要紹介
この立福寺の若宮権現の創建年代と理由は、(大村)郷村記によれば「寛文年中(1661〜 1673 年)で、創建者=宮守(注1)の家に祟り(注2)があったので創建した」とのことです。
<(注1):宮守=神社の番をする人。(国語辞典の大辞林より)>
<(注2):祟り(たたり)=神仏や怨霊(おんりょう)などによって災厄をこうむること。罰(ばち)・科(とが)・障りと同義的に用いられることもある。(国語辞典の大辞泉より)>
なお、この若宮権現の石祠(せきし)の右側面(南面)に、「弘化三 年」(1846年)の碑文があります。そのことから、同年月日に石祠は、建立されたものです。
創建場所について、右側の大村藩領絵図を参照すれば、現在の立福寺公民館や高速道路(長崎自動車道)周辺と推測されます。<右側画像の中央部上部に斜めの小文字ながら「若宮権現」の文字が見えている>
また、この場所は、先の(大村)郷村記によれば創建当時、宮守(注1)をしていた個人宅周辺と思われます。そして、いつの年代が正確には不明ながら、推測すれば六社権現が近代になって遷座(せんざ)や整備された時に、同じ場所に移設されたと思われます。
先の立福寺の若宮権現の創建理由や創建場所から考えれば、当初は個人宅で祭っていたが、推測ながら近代になり六社権現と同じく場所になった時点で、立福寺郷(町)全体で祭られてきたと思われます。
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立福寺の若宮権現(石祠) |
大村郷村記内容
この若宮権現について、大村郷村記(藤野保編)には、第二巻、122ページに記述されています。 なお、原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
なお、見やすくするため「」内の太文字に変えています。ですから、あくまでも下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。
「 龍福寺
一 若宮権現 神躰石座像、宮代與次兵衛 例祭十一月十六日、快行院勧請 氏子中祭之
石祠
拝殿 九尺方 萱宇
地藏 石立像 例祭不知
外二古地藏壹躰あり
境内七間方
此屋鋪に住もの神の崇りありとて、寛文年中建立す、 延享四丁卯年二月再建 」
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立福寺の若宮権現、石祠屋根の前方部分(名称はCG) |
・現代語訳
上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。
( )内は、私が付けた補足や注釈です。下段の(注1〜3)も参照願います。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 龍福寺(郷、町)
一つ 若宮権現(わかみやごんげん) (ご)神体は石(造)の座像である。宮代(宮守)は與次兵衛である。 (毎年の)例祭は11月16日で、快行院に来てもらって祭っている。 (この若宮権現は)氏子で、これを祭っている。
石祠(せきし)がある。 拝殿(はいでん)は、(奥行が)2m73cm四方で、(屋根は)萱(かや)ぶきである。 地蔵は石(造)の座像である。例祭(月日など関係)は不明である。 ほかに古い地蔵が一体ある。 境内(けいだい)は12.7m四方である。
(若宮権現を建立した由緒は)この屋敷に住む者に神の祟り(たたり、注1)があるということから、寛文年間(1661年〜1672年)に建立した。延享(えんきょう)4丁卯(ひのとう、ていぼう)年(西暦1746年)に再建された。 >
注1:祟り(たたり)=神仏や怨霊(おんりょう)などによって災厄をこうむること。(国語辞典の大辞泉より)
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右側面(南面) |
後方面(東面) 、 左側面(北面) |
石祠の碑文
この石祠の正面に向かって右側面(南面)、後方面(東面)、左側面(北面)には、それぞれ碑文があります。私は、2017年5月22日、いずれの面も拓本作業をおこないました。その内、 建立年月日、建立者、寄付者、石工と思われる碑文の内、9割近くは、判明(解読)できました。しかし、未解読文字が多いので、今回いつも表示する活字版画像を、2017年7月現在で掲載していません。その点、ご了承願います。
まずは、右側2枚の写真を参照願います。左側の拓本写真が、石祠の正面に向かって右側面(南面)で、この面には建立年月日や建立者(代表者など)が彫ってあるものです。
右側写真は、後方面(東面)、左側面(北面)のものです。(この写真は、一部分のみですが、拓本CG加工をしています) この内、左側面(北面)には、寄付者と思われる氏名が彫ってあります。三面の碑文を左から順に横書きに直して下列記しますと、下表の太文字通りです。ただし、??は、未解読(不明文字)です。
(石祠に向かって)右側面(南面) |
弘化三丙午年三月吉辰
横目 田中左助
手代 佐藤安左衛門
?? 甚平
?? 砂右エ門 |
(石祠に向かって)後方面(東面) |
奉献 氏子中 |
(石祠に向かって)左側面(北面) |
宮代 興次??
年寄 米市 森之助
頭人 武左衛門 孫吉 三?? 夜左衛門 玄七
石工 恩祐 河野亀三郎 |
・碑文の現代語訳
上記の石祠の碑文を読み順に変え、注釈なども含めて書きますと、下記の< >内の青文字通りと思えます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。なお、「??」=未解読(不明文字)は、そのまま表記し、( )内などは上野が付けた注釈や補足です。また、下記の改行は、読みやすくしているだけですから意味はありません。下段の用語解説も、ご参照願います。
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立福寺の若宮権現(左端の石祠)、石仏三体(中央部やや右側) |
< (石祠などを)たてまつる(奉納する) 氏子(一同)(注1) (建立年月日は)弘化3年(1846)丙午(ひのえうま、へいご)3月吉辰(きっしん、めでたい日)である。
(建立者の代表者、世話役は)横目(役)(注2)の田中左助、手代(役)(注3)の佐藤安左エ門である。
(寄付者として)??(役)の甚平、??(役)の砂右エ門、宮代(宮守役)(注4)の興次??、 年寄(役)(注5の米市と森之助 、頭人(役)(注6)の武左衛門、孫吉、 三??、夜左衛門、玄七である。
石工(注7)は恩祐、河野亀三郎である。 >
・用語解説
注1:氏子(うじこ)= 一般にはある氏神に属する〈氏子〉というふうに,各神社の祭祀圏を構成する住民や世帯をいう。(世界大百科事典)
注2:横目(よこめ)=(江戸時代・大村藩の場合)地域在住の役人(武士の役職)の一つと思われる。
注3:手代(てだい)=)江戸幕府の郡代・代官の属僚。江戸初期の手代は〈てがわり〉と呼び,代官クラスをいう。江戸中期以降は農民,町人で地方(じかた)の事務の熟練者を縁故により採用した。(世界大百科事典)
注4:宮代(みやだい)=宮守(みやもり)=神社の番をする人。(大辞林)
注5:年寄(としより)=江戸時代、農村で、名主・庄屋を補佐する村役人。組頭くみがしら。(大辞林)
注6:頭人(とうにん)=集団のかしら。頭目。(大辞泉)
注7:石工(いしく)=石材を細工・加工する職人(大辞林)
補足など
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)
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