大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など | 福重飛行場(ロケット戦闘機「秋水」用の滑走路) |
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福重飛行場(ロケット戦闘機「秋水」用の滑走路)
実は、福重飛行場について、既に「福重ホームページ」の「写真が語る福重の歴史や人、福重」飛行場」を掲載中である。しかし、このリンク先ページは、主に従来説、例えば竹松地区にあった「大村海軍航空隊」の第二飛行場」的な書き方をしてきた。 しかし、上野が2023年11月20日発行した冊子:「大村の福重にあったロケット戦闘機秋水の秘密工場と飛行場」(以降、省略して「秋水の冊子」と称する)で、先の従来説は、全く違う説を書いている。 簡単に言えば、それは次の通りである。 1) 福重飛行場の建設と使用目的は、ロケット戦闘機秋水用の滑走路だった。 従来説の竹松にあった「大村海軍航空隊の第二飛行場」説とか、「代替え滑走路」説は、完全否定まではしないが、先の説が根拠がある。(その根拠は先の「秋水の冊子」に」詳細に述べている) 2) 滑走路があった今富町から、「(鬼橋町の)鬼橋近くまで滑走路延長のために整地だけはしてあった」との地元証言がある。また、今富町の「段」集落の民家近くに滑走路進入コースの目印(進入標)の高い旗竿も立っていたとの地元伝承がある。 (何故、通常の戦闘機ならばコンクリート製の長さ950mもあった福重飛行場を、さらに延長して1200m以上の滑走路にする必要があったのかについては、上記同様、先の「秋水の冊子」詳しく書いている) 3) 先の冊子「大村の福重にあったロケット戦闘機秋水の秘密工場と飛行場」を書くきっけともなった「原爆前後X」の書籍にも、詳細ではないが福重にロケット戦闘機秋水用の飛行場のことらしきことが触れられている。 以上、簡単ではあるが、上記の新たな情報からして従来説は変えるべきだと、私は思った。 長期間かかると思うが、福重飛行場の新たな説も含めて、詳細な事柄をまとめたくて、このページを新設することにした。これから、この説に至った経過、根拠や事柄を書いていくが、結論から簡単にいえば「福重飛行場はロケット戦闘機秋水用の飛行場だった」ということである。 ただし、念のために、私は、アメリカ軍からの空襲や飛行機を一時隠すために「大村海軍航空隊」の第二飛行場的な役割までをも完全否定している訳では、ない。そのような活用法もあったことも事実である。実際に戦前、竹松から誘導路や誘導路橋を使い、福重飛行場との間を飛行機を押しているところを見ていた地域の証言者もいる。 ただし、一部未完成ながらも1945(昭和20)年5月27日(海軍記念日)にゼロ戦が祝いで1回飛んだ以外は、その後、戦前は1機も飛ばなかったことも事実である。このようなことから、あくまでも、福重飛行場の主目的は「ロケット戦闘機秋水用の飛行場だった」と、繰り返し述べておきたい。 |
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」福重飛行場の概要 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい) |
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福重飛行の様々な名称について (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 福重飛行場の概略年表 (下表は作成準備中。しばらく、お待ち下さい)
第一部分完成でも従来の戦闘機ならば離発着可能なのに (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 何故、1200m以上の滑走路を造ろうとしたのか (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 福重飛行場はロケット戦闘機秋水用の飛行場だった (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) / ・参考書籍類:「」 「「むかしの竹松」 「新編 大村市史 弟四巻 近代編」」 (初回掲載日:2024年9月10日、第2次掲載日: 月 日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日:月 日) --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ <古写真や資料提供のお願い> 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) |
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