戦争遺跡(軍事施設跡)の資料類について---大別すると次の3点と思われる
1)アメリカ国立公文書館に所蔵されていた「引渡し書」などの(日本語)資料類
2)上記1)でない元々ずっと日本にあった資料類
3)一次資料ではないが、地元証言に基づく書籍類 など
戦争遺跡などが掲載されている資料類について
あらかじめ申し上げるが、これから書いている内容は、あくまでも上野が今まで見た範囲内のことであって、戦前戦後当時の資料について、ほんの一例に過ぎない。
他にも沢山の内容(形式)や、所蔵場所があると思われるが、私は調べきれていない。その点は、ご容赦願うとともに、逆に情報提供も願っている。
アメリカ公文書館所蔵の資料類が日本でも公開されている
終戦後、日本側からアメリカなどの占領軍に軍事施設が移管された時などに作成された(軍事施設の)「引渡し書」(注:この標題や表示が違う場合が多々あり)というのがある。それらは、アメリカ、ワシントンにある国立公文書館などに所蔵されていた。
公文書公開法に基づいて(どこの国も、ほぼ30年間を経て)続々と公開され、その資料類の多くは、日本でも例えば「国立公文書館・アジア歴史資料センター」などのサイトでも閲覧することが可能である。その資料類は、戦前あるいは戦後直後の施設を調べる時、第一次資料で内容も、ほぼ正確であり、当時を知る上で貴重なものといえる。
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福重砲台(今富砲台)跡(西側)
(地下の施設に入る場所と推測される) |
軍事施設は「引渡し書」内容だけでない点も注意が必要
しかし、先の「引渡し書」の名称通り、それは、終戦後に占領軍に「諸施設を引き渡した時点に存在したもの」が、ほぼ全てともいえる。逆に言えば、その前に軍事施設は確かに存在したものでも「引渡し」の時点で、もしも撤去や解体などによって無くなっていれば、引渡しようがなく、当然「引渡し書」には記載されなかっただろう。
また、「引渡し書」に書いてあった内容でも、引渡しの時点で最盛期頃より規模縮小あるいは施設の統廃合などによって、大きな変化もある。だから、地元の方の証言(「確かに存在した」「規模は、もっと大きかった」など)の証言内容と、「引渡し書」の内容とでは違ってくるのは当然のことである。
つまり、「引渡し書」の内容は、その時点では正確であっても、全体の流れの中では過不足があることもやむを得ない。あえて、結論めいた言い方をすれば「引渡し書」内容そのものを絶対視するのではなく、それまでの資料類や地元証言も加味して考えないと、当時そこに存在した軍事施設(戦争遺跡)の全体像を記述したことにはならないと思われる。
大村市内で戦後発行された戦争遺跡関係書籍類の長所と注意点
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2021年7月20日、第2次掲載日:7月22日、第2次掲載日: 月 日)
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<古写真や資料提供のお願い>
戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) <念のため、下記枠線内の色分けは見やすくしているだけで何の意味もありません>
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