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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など    大村海軍 竹松通信所跡 
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(写真A) 右側の(写真B)をトリミングし拡大したもの。
やや右上部:白く見えている5棟位の建物付近が「通信所」 
(写真B) 右上部:白く見えている5棟位の建物付近が「通信所
 中央部の横線は国道34号線、下部は大村海軍航空隊の草地。ただし、一部分のみ。
<上記(写真A)と(写真B)は、いずれも「軍都」大村の歩みと市民の6〜7ページの写真をトリミングしたものである>
(地図1) 右側の(地図2)を竹松通信所を中心にトリミングしたもの (地図2) 中央部に竹松通信所、下部の紫色は大村海軍航空隊の一部
 注1:先に大村海軍航空隊」ページの文章・写真・地図などを参照願いたい。特に、このリンク先ページの大きな大村海軍航空隊の写真の閲覧を願う。
 注2:上野は2024年6月現在で、この「大村海軍 竹松通信所」についての一次資料を探し切れていない状況である。そのため、限られた書籍あるいは地元の方の証言を基に、本ページは作成している。

 注3:また、この「大村空襲・戦争遺跡・遺構など」シリーズは、あくまでも、その名称通りで、決して軍事専門ページではない。どちらかというと、大村の郷土史的な内容で書いている。そのため、大村にあった軍事施設跡の詳細な歴史・諸施設などは、必要最小限度の内容にしている。

 注4:引用・参照文献は後でも追加していくが、2024年6月現在で、放虎原は語る(1999年3月31日、大村市発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)「軍都」大村の歩みと市民〜回顧1896ー1945(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子)、むかしの竹松(1997年12月日 竹松を語る会 )などである。また、今後、一次資料や有力な地元証言が得られれば、追加、改訂を繰り返す予定である。

名称について
 先の注2にも書いているが、上野は2024年6月現在で、この「大村海軍 竹松通信所跡」についての一次資料を探し切れていない状況である。ただし、注4で紹介の「放虎原は語る」の付録の地図には、「海軍送信所」とある。また、地元の竹松(出身者含む)の方々からは、一例として「竹松通信隊」、「海軍通信所」、また、単に「通信所があった」とか、様々の名称がある。

 以上のことからと、場所を示す名称があった方が分かりやすく、今後、同種同内容の軍事施設跡も掲載する可能性もあるので、このページでは、「大村海軍 竹松通信所跡」の名称で書いている。なお、何らかの理由で一次資料や正式名称が判明すれば、その時点で本名称の再検証・再検討をしたいので、あらかじめ、ご了承願いたい。

(地図1) (地図2)を竹松通信所を中心にトリミングしたもの
文字の「」周辺の紫色が竹松通信所の敷地と思われる
 
(写真1) 北側の「海軍用地」の文字が見える境界標柱(境界杭)
 (写真2) 南側の「海軍用地」の文字が見える境界標柱(境界杭) 
地図の概要説明
 上図の(地図1と2)は、放虎原は語る(1999年3月31日、大村市発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)付録の地図からトリミングしたものである。念のため、先に別ページ=大村海軍航空隊に掲載中の大きな地図を参照願う。次に、(地図2)には先の大きな地図にも写っている大村海軍航空隊敷地の一部分である。

  '(地図1)は、(地図2)をさらにトリミングして、今回紹介中の「竹松通信所」と思われる場所を中心に拡大したものである。なお、この両地図には、紫色で表示され、文字で「海軍送信所」と書いてある。何故このページで、この「海軍送信所」の名称を、あえて使っていない理由は、上記項目の「名称について」を参照願いたい。

 なお、この地図や先に紹介した(最上部の)航空写真2枚を見ると、地名(町名)は、原口町で現在、大村市「市営原口アパート」の敷地と、ほぼ一致していることが分かる。

境界杭(境界標柱)の「海軍用地」ついて
 まず、(写真1と2)の「海軍用地」との碑文がある境界標柱(境界杭)写真を閲覧願いたい。(以降、「海軍省の境界杭」または省略して「境界杭」とも記述している) 

 また、上野が調べた期間や範囲内で 境界杭は、2基ある。念のため、市営アパート敷地の東側の境界杭の調査は、(2024年8月現在で)できていない。

  この「海軍省の境界杭」の両方とも、「大村海軍 竹松通信所跡」=現在の大村市「市営原口アパート」の敷地の西側(国道34号線方向側)にある。なお、北側と南側の境界杭の間隔は、数十メートル離れている。

境界杭の大きさと敷地について
 また、地上面に出ている境界杭の大きさは、目測の大雑把な数値ながら、次の通り。
 ・横幅奥行き(真四角の一辺の長さ)は両方とも同じで約20cm。
 ・高さは北側が約30cm、南側が約25cm。

 境界標柱の材質は、両方とも同じでコンクリート製のようだ。この境界杭は、当然、戦前からあり、そのまま現存しているものである。つまり、この地に「大村海軍 竹松通信所」があったことを物語っている。また、現在の大村市「市営原口アパート」と、他の民間敷地との境界も示してもいる。

住宅地に現存し戦争遺跡を示す境界杭は大村市内では少ないのでは?
 なお、戦前の大村市内には、海軍省関係で大規模なものだけとしても、例えば「大村海軍航空隊」「352空海軍航空隊(草薙部隊)」「福重飛行場」「第21海軍航空廠(航空機製造工場)」など沢山あった。そのため、その周辺には、まだ、「海軍省の境界杭」は、いくつか現存知していると推測される。

 ただし、市営アパートや住宅地に現存していて、しかも誰でも直ぐに視認できる「海軍の境界標柱(境界杭)」は、分かりやすい戦争遺跡でもある。そのような現存状況は、市内で数少ないことであろう。

補足

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:「大村海軍航空隊」「352空海軍航空隊(草薙部隊)」「福重飛行場」「第21海軍航空廠(航空機製造工場)

 (初回掲載日:2024年6月18日、第2次掲載日:6月29日、第3次掲載日:8月15日、第4次掲載日:8月18日)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
       
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