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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など    第21航空廠(第二十一航空廠) (21空廠) 
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 (写真1) 正確には撮影年月日不明ながら戦前の第21航空廠の本部

(出典:「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)の270ページ掲載写真より複写した。

 注:さらに補足説明を書く予定。

 
(写真2):1944(昭和19)年頃の21航空廠を中心とした航空写真
(出典:「軍都」大村の歩みと市民〜回顧1896ー1945(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子)9ページ掲載写真より複写した。
<写真説明>
 ・左側(北側)方向には、大村海軍航空隊があった。
 ・下部の黒色は大村湾。当然、さらに下部(西側)方向に当時「箕島(みしま)」があった。しかし、この箕島は、1975年5月1日に供用開始した長崎空港が開港した。
 ・上側(東側)方向には、当時の陸軍46連隊(現在の陸上自衛隊・大村駐屯地)があった。
 ・中央部と海岸側に写る大きな建物群21航空廠(工場・倉庫・格納庫・病院など)である。

 注:さらに補足説明を書く予定。
第21航空廠の概要経過
 注1:名称について、第21航空廠の正式名は「第二十一海軍航空廠」である。しかし、この正式名称より大村市民の間では、「第21航空廠」との呼称が多い、そして、その省略形で「21空廠」あるいは単に「航空廠」や「空廠」などの呼び方が、圧倒的に多い。そのため、このページも、そのような通称で書いている。

 注2:下表は「「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)新編 大村市史 弟四巻 近代編」 「軍都」大村の歩みと市民〜回顧1896ー1945(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子)むかしの竹松(1997年12月日 竹松を語る会)などである。また、寿古町の増元氏が2012年8月9日・郡中学校を始め各小中学校で話された大村空襲の講演内容も引用・参照している。さらに、地域伝承も参考に作成した。あと、地名は現在の地名を主に使っている。

 注3:今後、引用・参照資料として、1945(昭和20)年、第21航空廠が存在していた時に書かれた21航空廠の(日本語)資料、さらには、その資料をそのまま使って書かれた「米国戦略爆撃調査団報告書」をもとに、補足・改訂を繰り返す予定である。

 注4:下表内容は追加(補足)、改訂を繰り返す予定なので、あくまでも(閲覧時点での)参考程度に、ご覧頂きたい。なお、念のため引用される場合は必ず原本や地域の方への聞き取り調査などを実施して頂きたい。

 注5:この第21航空廠を記述する場合、まるで枕詞か重要な形容詞みたいに大村市教育委員会による設置・発行の史跡説明板・書籍類、ホームページ類に必ず書いてある「東洋一の航空機製造工場」「工員数は5万人」とかの表記は、大間違いである。しかも、5年程前から上野が具体的に、まだ21航空廠が存在していた1945年当時の作成された資料(一次資料)を提示しながら大間違いの改訂を要望しても、市は改訂されていない事項である。また、この21航空廠の敷地面積も従来説は、再検証の必要がある事項である。

 注6:下表の色分けは分かり安くしているだけで何の意味もない。
 
第21海軍航空廠の略年表 
年 月 日 など 主 な 経 過 内 容
1919(大正8) 佐世保海軍工廠に造兵部飛行機工場を設置
1934(昭和9)年 6月 佐世保海軍工廠造兵部飛行機工場が航空機部として独立。      
1937(昭和12) 年2月 佐世保市日宇に移転が決定。
1939(昭和14)年 3月
         6月
         12月
日宇の地盤が弱いため、航空機部を大村に移転することに決定。
大村での用地測量と土地買収が始まる。
第21海軍航空廠設立準備委員が任命される。
1941(昭和16)年10月 第21海軍航空廠が開廠(広さ:645,000u、工場:62棟(延べ建坪31,854坪)
1942(昭和17)年2月11日 大村市の誕生(大村町、三浦、鈴田、萱瀬、福重、松原5村の合併)
1943(昭和18)年2月 航空廠工員養成所落成同官舎34棟竣工。
1944(昭和19)年2月 官舎、工員住宅、寄宿舎(官舎・職員住宅:93棟、工員住宅:693棟、寄宿舎:87棟)
         6月 航空廠拡充計画工事竣工
         9月 学徒動員令
         10月25日 大村大空襲(死者:285名または272名、(注意A) 重軽傷者:300人余り、建物被害:210,000u
          11月 (学徒動員、女子挺身隊含む)人員が最大数を記録= 28,772名(注意B)
1945(昭和20)年8月15日 終戦
        8月17日 学徒勤労動員解除。学徒、女子挺身隊、徴用工が帰郷
 10月6日〜11月11日 米国戦略爆撃調査団が21航空廠を詳細に調査。同時進行もしくは先に当時の海軍省の用箋などを用いて日本人による漢字、漢数字あるいは図面が多数作成された。(この日米の資料類は21航空廠の閉鎖(閉廠)前に作成されているので一次資料である(注意C)
1946(昭和21)年2月 米国戦略爆撃調査報告書の発行(補足、同時期に当時の大統領に報告された)
 上記の約30年後 1946年当時は機密扱いだったが、情報公開法に基づいて(推定ながら約30年後に)公開された。原本、原紙はアメリカ国立公文書館に所蔵。複写版は日本でも各サイトから閲覧できる
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- (注意A):空襲犠牲者(死亡者数)は、大村だけでなく全国例でも、各地で様々な数値があるという。それは主に正確な資料がそのもの無いを始め、統計のとり方、調査年月や場所の違いなどに起因している場合もあるという。

(注意B):上野は先の日米の一次資料に基づき書いた。なお、大村市教育委員会設置の2基の史跡説明板や、これをもとに書かれた報道内容、書籍類とホームページ類に「工員数5万人」などの表記は、大間違いである。また、この最大人数は壊滅的な空襲の後ということにも、ご注目願いたい。(このことの詳細は、後の項目で書く予定)

(注意C):この日米の資料類は詳細かつ正確である

海軍工廠と海軍航空廠の成り立ちと製造の違いについて
 まず、海軍工廠について、デジタル大辞泉より引用すれば次の「」内(青文字)が解説してある。「海軍技術工廠=海軍の艦船・兵器・弾薬などの製造・修理・購入・実験などをする施設。旧日本海軍では、横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各軍港に設置されていた。」  ここからは、上野の補足である。つまり 先の国語辞典通り海軍工廠は、最初から船舶(軍艦など)の建造目的に設立された。そして、平時も戦争中も船舶を造っていた。この点が、下記の海軍航空廠と成り立ちが違う点と思われる。なお、この海軍工廠として、例えば広島県の呉工廠や長崎県の佐世保工廠などがあった。

第21海軍航空廠の本部
(出典:「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行、
編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)の
270ページ掲載写真より複写した。
 海軍航空廠について、国語辞典の用語解説を探しきれないので、様々なホームページから上野が要約した内容を書いていく。ただし、あくまでも参考程度に、次からは閲覧願いたい。全国全部の海軍航空廠は、最初から海軍機(戦闘機や水上偵察機など)製造を主目的にしていた訳ではない。当初の成り立ちとして、(横須賀などにあった)海軍航空技術廠は、航空機に関係した調査、研究、設計、開発、技術、品質、審査、その他全般にわたっておこなう機関であった。それが(太平洋戦争前の風雲急を告げるような情勢もあり)、それ以前から航空機の重要度が高まっていた。そのようなこともあり、海軍省直轄の軍需工場(航空廠)でも航空機の製造をおこなう必要性が出てきたので、先の大戦前から本格的におこなうようになったと推測される。(各航空廠の名称や所在地などは下段の別項目を参照)

 以上の成り立ちや経過などからして、先の大戦期間中のみながら、全部の海軍航空廠を合計した製造機数は、同期間対比で大手民間会社1社に対しても大変少ない製造状態だった。なお、当時の民間航空機製造メーカーの例えば中島飛行機、三菱重工(航空機部門)、川西飛行機などは、最初から航空機製造が主目的で設立されているので、たとえ1社のみでも先の大戦期間中で1万機とか、何千機という単位で製造実績がある。つまり、「大村にあった21航空廠は東洋一の航空機製造工場だった」の表現は、あまりにも大間違い過ぎる書き方である。

 あと、戦前の長崎県内や大村市内では、戦闘機などの製造機数が例え100機でも多いように感じられたかもしれない。しかし、国内では有名なゼロ戦(零戦)だけでも約1万4百機も造られている。さらにアメリカの場合、戦闘機含む航空機合計なら1年間だけでも8万機とか9万機、戦争期間中の合計なら数十万機が製造されている。 以上のことから改めて「戦争史(戦闘、空襲や戦争遺跡など)は一次資料からの調査を!)」を書く場合、その所在地域だけでなく、広く全国や世界に目を向けて調査することの大切さを教えてくれている。

全国の海軍航空廠の所在地など


   (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



第21航空廠の内容


   (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



第21航空廠へ空襲



   (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


補足



 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



 (初回掲載日:2021年12月16日、第2次掲載日:2022年3月11日、第3次掲載日:3月22日、第4次掲載日:6月17日、第5次掲載日:2023年4月11日、第6次掲載日:6月7日、第7次掲載日: 月 )
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  下記3講演内容の詳細報告 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) 掲載中
       
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