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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など   「戦争史」は一次資料からの調査を! 
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「戦争史」(戦闘、空襲や戦争遺跡など)は一次資料からの調査を
 
このページに書いていることは、簡略すると下記二つの事項である。
 ・大村の「戦争史」の資料類は燃やされて全部ないのではなく、現存もしている
 ・「戦争史」
(戦闘、空襲や戦争遺跡など)は一次資料からの調査を!
第21航空廠の本部
(出典:「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行、
編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)の
270ページ掲載写真より複写した。

はじめに
 念のため、これから書くこと(本ページ)は、あくまでも上野個人の解釈や解説である。そのため、賛成・異論・反対論もあろうと思う。かく言う私自身さえも、今回の意見に固執するようなことは、全くない。それどころか、新事実が見つかったり、新たな考えに変われば改訂や補足などを繰り返したいと思っている。その点は、あらかじめ、ご了承の上、閲覧願いたい。

なぜ、「戦争史」という用語を使っているのか?
 この「戦争史」という用語は、(2022年現在で)一般的ではない。先の大戦(太平洋戦争=大東亜戦争。世界的には「第二次世界大戦」。以降「先の大戦」と称する)の時代区分は、広義には近代史である。この近代史の中での戦といえば、古くは明治維新前後の戦、西南戦争、日清・日露戦争、第一次世界大戦中の青島の戦いもある。また、その後、中国各地であったノモンハン事件、「••事変」なども含まれる。

 しかし、先の大戦は、その規模、犠牲者数、広島・長崎原爆などの例を出すまでもなく、それまでの日本史でも世界史でもなかったことである。その意味で、上野個人の考えだが、他の戦争と分けて、先の大戦であった事柄を「戦争史」の区分として記述している。つまり、私の中では、「戦争史」とは、先の大戦であった多くの事柄を意味している。

「戦争史」の資料類は焼けて無いのではなく、現存もしている
 実は、大村での「戦争史」の資料類(一次資料)について、従来から公然と「戦前、燃やされたので何も無い」といわれてきた。(2022年現在も人によっては同様と思われる) 実際、私が、主には兄が翻訳してくれた大村にかつてあった第21航空廠(航空機製造工場)についての米国戦略爆撃調査団(英語: United States Strategic Bombing Survey:USSBS)の報告書を2016年10月20日に全体翻訳の約1/3のみ発表した。(この米国戦略爆撃調査団の報告書」紹介ページは、ここから参照)

1945年頃の福重飛行場
(滑走路の右端側の約2.5mは
現在も農道として残っている)
 その時期に他の人から聞いた話も同じだった。その当時、私だけでなく報道して頂いた長崎新聞の記者さんへも、「戦争当時の資料は全部燃やされて無いはずだ」 「事実でないことは書くな」 「アメリカの資料は信用できない」、あるいは戦後生まれの上野に対して「(戦争当時)生まれてもいないのに何故書けるのか?」などと、直接間接問わず聞いた。

 何故このようなことを言われたかの理由は、私が発表した内容が、それまでの従来説(その内容はは後記を参照)を根本から変えたからだと思う。ただし、この大間違いの従来説は、今でも堂々と大村市教育委員会設置(2基)の史跡説明板をはじめ大村市関係や県内外の各ホームページ類に掲載、情報発信されているので分かりやすい事項である。。

 先の方々や大村市教育委員会の従来説の間違いは、主に次の「」内である。 「大村にあった第21航空廠は東洋一の航空機製造工場で、その工員数は5万人だった」との内容である。しかし、先の米国報告書は、1945年の9月から10月頃、つまり、まだ第21航空廠(同年11月末まで存在)があった当時の調査(日本語の一次資料)を元に記述されたものだった。だからこそ、先の従来説の間違い内容を正す資料の発見でもあった。

 そして、それとプラスして全国の航空関係資料も参照すれば、「第21航空廠は東洋一でなく、日本で10数番目の製造機数しかしていない製造工場だった」 「工員数は5万人ではなく28,772名(約3万人)」であった。なお、私は、敷地面積も間違い、もしくは、再検証すべき内容であると考えている。つまり、次に述べる歴史事項の基本中の基本である5W1Hの内、3事項も従来説は間違っていたということである。そして、「戦争史」は、可能かぎり一次資料の調査が間違いの歴史事項を生まない元であることを教えてくれている。

 なお、後の項目でも書いているので、ここでは、「戦争史」など戦前の資料が所蔵されている場所のリンク先だけを紹介したい。それらは、「アメリカ国立公文書館(ワシントン)」、日本の「国立国会デジタルコレクション」と「国立公文書館アジア歴史資料センター」である。あと、アメリカの大学図書館などにも、所蔵されている場合もある。

[戦争史」含めて歴史全般は一次資料と5W1Hが基本
 歴史事項は、伝聞(伝承)優先ではなく、一次資料を基本にすべきことは、極当然である。また、一般に報告書作成などに用いられている5W1H(「When:いつ」「Where:どこで」「Who:だれが」「What:何を」「Why:なぜ」「How:どのように」)は、歴史事項調査でも同様であろう。

 特に、その中でも歴史事項の場合は、「When:いつ」=「年月日」が最重要と思われる。次に、「Who:だれが」(作成者や建設者など)である。他の事項も大事であるが、「場所」や「目的」は、その事柄がある所在地や全体の状況(全文、全形、敷地など)を見れば、少しながら把握できる場合もある。以上のことは、有史以来からも近代史でも同様である。
アメリカ国立公文書館(ワシントン)
<写真は「ウィキペディア(Wikipedia)」より>
 国立国会図書館(2019年9月7日撮影)

「戦争史」の一次資料はアメリカ公文書館や日本の各サイトにもある
 先の大間違い記述を招いた発言「戦争当時の資料は全部燃やされたので今は無い」などは、これ自体も大間違いであることが、現在では判明している。それでは、どこに戦前資料はあったのかというと、当然全部が全部ではないが、「アメリカ国立公文書館に主に所蔵されていた。

 そして、作成後の約30年後、次々と機密解除となり、今では公開されてきた。また、便利なことに、その複写版が、数十年前から日本の国立国会デジタルコレクション国立公文書館アジア歴史資料センターなどでも、その日本語資料あるいは英語版資料が閲覧できるようになっている。

 ここから、(戦前の正式用語を、あえて分かりやすい表現に変えて)戦争中作戦計画戦時日報軍事施設人事異動などの文書記録・図面類、さらには軍事施設や空襲時の写真まである。このようなことから、私は他の戦争史研究家からのご教示もあり、例えば先に紹介した(大村、第21航空廠を詳細に記述されている)米国戦略爆撃調査団の報告書を始め、竹松にあった大村海軍航空隊の空襲写真を初公開(冊子「竹松地区の空襲」を参照)して書いてきた。

 まだまだ、アメリカ国立公文書館やアメリカの各大学図書館などに、大村や長崎県内の「戦争史」に関係する一次資料が所蔵されていると推測している。私は、このような資料が存在する以上、従来の伝聞に基づくだけで書く「戦争史」は極力避けて、一次資料に基づくべきではないかと思う。さらにいえば何の根拠もない、ただ自慢話みたい記述から大村の「戦争史」も卒業しないと、他市や県内外の方から根拠(一次資料)を持って反論されたら何も言えなくなるだろう

 さらにいえば、従来の書き方、例えば「大村市教育委員会設置の史跡説明板や書籍類に書いてあるから」(いわゆるお墨付き的な書き方)は、それ自体が大間違い事項もあるので正しい書き方ではない。ただし、自ら調査して正確と思うならば、先の事項は大いに引用・参照して欲しいと願ってもいる。

戦争遺跡は従来の書籍類だけでなく現地調査も大事
 大村市内の戦争遺跡について、それ自体は、そう有名ではない。また、戦後に住宅地、農地、道路や会社敷地などに変わり、失わなれた場所も多い。しかし、ほぼ、そのまま現存している場所もあれば、失われた所でも古い航空写真地図を見ながら現地を調査すると概要ながら分かる場合もある。

福重飛行場用の誘導路橋2本の基礎部跡
佐奈河内川の川床にある>
 一例として、「ここに・・・砲台があった」とか「・・・飛行場の端側の直線道路だ」というのが、大体分かる。あと、軍事用の防空壕(疎開工場や倉庫)の場合は、入口付近の形だけながら多くが現存している所も多い。また、地元の方から聞いた話し=(右側写真参照)「福重飛行場用の誘導路橋2本の基礎部跡の場合は、古い航空写真に基礎部ではなく誘導路橋そのものが写っていて、先の地元証言とともに、二重に確認できた例もある。

 重ねて何故、戦争遺跡は現地調査が必要かというと、資料類だけでは、その規模や当時の周囲の状況が分からないためもある。また、このような調査を繰り返していく内に、先に述べた従来説の間違いに気付く時もある。だからこそ、私は、ホームページや書籍などに大村の戦争史跡を紹介する場合、事前に必ず現地調査をお勧めしたい。

歴史・戦争史は「複写と貼り付け」のみの作成は大間違いの元にもなる
 まず、私のもう一つのホームページ「上野ログハウス」の「聞いた言葉シリーズ(もくじ)」に、俳人の松尾芭蕉の言葉で「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」という内容を詳細に紹介している。この言葉の解釈を上野流に直すと、<先人の作品の模倣(もほう)ばかりして同じものを作ろうとせずに、先人が追い求めている心(芸術心)を探究して作りなさい>との意味であろう。
皆同砲台、測距儀跡、または指揮所跡か?

 さらに現代のパソコン風の意味に言い換えると、「人の書いた内容をコピー(複写)とペースト(貼り付け)ばかりするのではなく、ちゃんと自分自身で実物や現場を調査、検証して書きなさい」と、ほぼ同意語とも思える。

 この松尾芭蕉の言葉は、元々は俳句、音楽、芸術などのアート系に向けられた内容であろう。しかし、歴史、郷土史や戦争史などの分野でも同じことがいえる。このページにも既に書いているが、例えば今では大間違い記述と判明している「大村にあった第21航空廠は東洋一の航空機製造工場で、その工員数は5万人だった」の内容が、現在でも沢山記述されている。

 この大間違い内容は、既に戦前戦後頃からあり、書籍類にも 大村市史(1961年2月11日発行、編者:大村市史編纂委員会) 、放虎原は語る(1999年3月31日発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会) 、楠のある道から(2003年10月発行、編者:活き活きおおむら推進会議)などに、堂々と書いてある。さらに、その間違いを決定付け広く使われて始めたのが、第21海軍航空廠本部防空壕跡(大村市古賀島町)大村市の指定史跡になってからである。

 その後、大村市教育委員会設置の2基の史跡説明板(先の防空壕跡と慰霊塔のある場所)、書籍類として大村市の文化財(2004年3月26日発行の改訂版から間違い記述が始まった)「軍都」大村の歩みと市民~回顧1896ー1945(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子)など、さらに大村市ホームページにも盛んに掲載されるようになった。

1944(昭和19)年頃の21航空廠を中心とした航空写真
(出典:「軍都」大村の歩みと市民~回顧1896ー1945
(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子
)9ページ掲載写真より複写した。
 ただし、私が、2016年頃に日米の一次資料をもとに市の間違い指摘したところ、大村市ホームページの同内容の詳細ページだけは、こっそり、ひっそりと削除されている。しかし、同じ市役所内で作成されている「観光ナビ」の「軍都大村の歴史」ページには、その大間違い記述が今でも、そのまま掲載中である。

 そして、上記で特に、史跡説明板、書籍の大村市の文化財などから引用された長崎県、あるいは新聞・テレビ・出版物に同様の大間違い記述を何十年も繰り返し報道や記述が続いている。ただし、長崎新聞の2016年10月27日付けでは、上野が公開した「米国戦略爆撃調査団の報告書(一次資料)に基づいて、21航空廠の行員数は大間違いの「5万人」ではなく、キチンと「28,772名(学徒や女子挺身隊の動員数含む)との報道がされたり、あるいは、西日本新聞の2020年5月29日の「なぜ?第21航空廠の従事者数、食い違う数」見出しで、大村市教育委員会などの間違い記述を正しておられることも紹介しておきたい。

 それでもなお、現在でも残念ながら既に大間違い記述として判明している「大村にあった第21航空廠は東洋一の航空機製造工場で、その工員数は5万人だった」の内容が、沢山記述、継続中が多く存在していることも、また事実である。


  (後半原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)

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補足:


・関係リンク先ページ:「アメリカ国立公文書館(ワシントン)」 「国立国会デジタルコレクション」 「国立公文書館アジア歴史資料センター」、(大村、第21航空廠を詳細に記述されている米国戦略爆撃調査団の報告書)

 (初回掲載日:2022年8月17日、第2次掲載日:8月19日、第2次掲載日:2023年6月21日、第3次掲載日:6月26日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) <念のため、下記枠線内の色分けは見やすくしているだけで何の意味もありません> 
       
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