大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など | 福重飛行場の誘導路橋の基礎部(コンクリートと柱穴) |
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(写真1) (佐奈河内川の川床にある) 福重飛行場の誘導路橋の基礎部(コンクリートと柱穴跡) 2本(個)ある 場所:今富町、矢次2号橋の上流側。 大きさ:(目測で)長さ約30m、幅約1m |
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福重飛行場の誘導路橋の基礎部(コンクリートと柱穴跡)の概要紹介 <用語解説> ・誘導路(ゆうどうろ:):「飛行場で、滑走路と駐機場との間の、飛行機を誘導するための道路」(デジタル大辞泉より) ・基礎部(きそぶ):「(注:1は省略) 2 建造物の荷重を支持し、地盤に伝える最下部の構造物。地形 (じぎょう) ・土台など」(デジタル大辞泉より) 補足:この誘導路橋の場合は、佐奈河内川の川床に柱穴を含むコンクリート製の土台を指している。
なぜなら、この日のゼロ戦は、隣の竹松地区にあった大村海軍航空隊か、または第三五二海軍航空隊(草薙部隊)から誘導路を来て福重飛行場から離陸して、着陸は大村海軍航空隊だった」との証言もあるからだ。なお、基礎部のコンクリートは、橋脚の柱を立てる穴が空いているので木製の橋を基礎部から支える役割があったことが、分かりやすい。 あと、当時の工事は、重機などがない、しかも終戦の年ゆえ、作業員も物資もあまり得られない状況下、人力で造られたと推測される。 この基礎部は、(2022年現在で)完成後、約77年間経ち、その間には「1957(昭和32)年の大村大水害」から「2020年7月6日の大村水害」まで、少なくても4回の水害に遭っている。しかし、、このコンクリートの基礎部は、少しだけ表面上の摩耗(まもう)は見られるが、全体ビクともしない頑丈さを誇っているのは驚異的でもある。 誘導路橋の場所・大きさなど まず、右側の(写真5)の佐奈河内川の上に架かっていた「誘導路橋=長方形のコンクリート跡」を参照願う。この場所は、今富町にある福重飛行場跡の東側先端部(写真では下側)周辺である。そして、ここから竹松方面に向かう所に矢次橋(やつぎばし)があって、さらに大村海軍航空隊 あるいは第三五二海軍航空隊(草薙部隊)との間に誘導路や橋があった所である。 この誘導路橋の目的は、後の項目に詳細に書いているが、主に福重飛行場の滑走路(距離)を確保するため川の直近まで造ったので、飛行機の移動上、必要な誘導路を確保するために佐奈河内川に丸太の柱を立て、その上に厚さ30cm位の頑丈なコンクリート板の乗る誘導路橋を設置したものと思われる。 写真中央部、佐奈河内川に福重飛行場東側(写真では下側)から続いて白い長方形コンクリートが見える。この大きさは、推測で長さ約30m、奥行約10mであろう。この長方形部分が、飛行機の誘導路=駐機や移動する時の走行路、あるいは方向転換などに使われた跡と思われる。この周辺は、矢次橋側が数メートル高いので福重飛行場からは、かなりの坂道にもなる。そのため、この長方形部分を設けて、飛行機が方向転換しながら登ったり、降りたりできる造りにした可能性もある。 誘導路橋は何のために使われたのか? この項目、再度右側の(写真5)の中央部、佐奈河内川に架かる(航空写真から見れば)灰色の誘導路橋を、ご覧頂きたい。この大きさは、先で繋がっている福重飛行場(長さ950m × 30m)を参考にすれば、横幅は約30m、長さ(川の幅 橋の長さ)は約10mであろう。
それは、主に下記の三つの理由が考えられる。 (1) 橋を通る時、飛行機(小さな戦闘機から大きな爆撃機まで)、橋の両脇にある欄干(らんかん)に翼が当たらないようにした。(これが一番大きな理由と思われる) (2) この大きさ(広さ)は、下流側が橋の隅となるので、上流側に広がった造りであることが、直ぐに目につく。それは、写真に写る福重飛行場へ飛行機が行ったり、来たりする場合、左右両方へのターン(回転=切り返し)を、しやすいための広さであろう。 (3) さらに滑走路の延長計画(上流側に、あと500メートル弱)があり、「既に整地は終了していた」(道路も一直線が残っている)との地元伝承がある。その滑走路の延長に備えて、誘導路橋も使いやすくするため、上流側に広くなっていると想像される。 ご参考までに、もしも整地だけでなく滑走路のコンクリート舗装が完了していたならば福重飛行場は、全体の長さ1300m~1500m前後になっていたと思われる。これだけの滑走距離があれば戦闘機だけでなく当時、重装備の爆撃機でも離発着は可能だったと思われる。(旧・大村空港=現・海上自衛隊・大村航空基地の滑走路の長さは1200mで。昔は64人乗りのYS11プロペラ機も離発着していた。また、仮に1500mの滑走路ならば民間の小型ジェット機も可能) あと、(2)の補足である。この誘導路橋の周辺は、航空写真や地図より、現在、少し坂に見える。福重飛行場は、元々、農地(水田)だったため、現在のコンクリート製農道より1mほど低かった。逆に、誘導路橋の架かっていた佐奈河内川の堤防、あるいは隣の郡川に架かる矢次橋の堤防は、当然、滑走路面より数メートル高かった。
当時の戦闘機を平地を短い距離で押したり、引いたりするのは、そんな労力はかからなかったと思える。しかし、先の二つの航空隊から、この誘導路橋まで来るならば、直線でも約1kmあり、さらに、わずかでも坂まであれば、なかなかの重労働であったろう。 そのような状況下、飛行機を移動上や、切り返ししなどをしやすくするために、橋の長さ(川幅)の約3倍も広い誘導路橋に造ったのではないだろうか? 3回以上の水害に遭っても壊れていない頑丈な造り この誘導路橋の基礎部の周辺は、記録が残る分だけでも、例えば「1957(昭和32)年の大村大水害」 「1962(昭和37)年の大村水害」 「2020年7月6日の大村水害」 (被害不明ながら「1982年(昭和57年)の長崎大水害」時にも大雨が降った) などの水害があった。 そのような豪雨・濁流があれば「2020年7月6日の大村水害」の時の用に、一部分ながら両岸の堤防まで壊れる強さだった。川床を流れ下る水の力も相当なものだったと想像される。しかし、この誘導路橋の基礎部は、(最低でも3回以上の)水害に遭いながらも、ビクともしない頑丈な造りを今にとどめている。 今(2022年現在)から約77年前、ほとんど人力(手作業)で造られた橋の基礎部が、ほぼそのまま現存しているのは驚異的でもある。佐奈河内川の川床で、しかも誘導路橋の基礎部のみという、かなり目立たない戦争遺跡の存在ではあるが、ある面、当時の土木技術などを知る上でも貴重かもしれない。 あと、この周辺は、「2020年7月6日の大村水害」後の対策として、(「2021年3月24日 「佐奈河内川災害復旧助成事業」説明会」にて)佐奈河内川の川幅が広がったり、堤防(護岸)工事がなされると聞いている。ただし、川床まで、どうのような工事になるのか、私は知らない。いずれにしても、この誘導路橋の基礎部(コンクリートと柱穴跡)の見学や撮影される方は、矢次二号橋から見られたらと思う。 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ:「福重飛行場」 「福重飛行場跡の史跡説明板」 「福重砲台(通称:今富砲台)」 「皆同砲台」 「野田機銃台」 「福重空襲」 「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」 (初回掲載日:2022年2月8日、第2次掲載日:2月14日、第3次掲載日:2月17日。、第4次掲載日:2月19日) --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ <古写真や資料提供のお願い> 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) |
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