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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など   皆同砲台(皆同防空砲台) 
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(写真1) 中央やや右側は北から数えて1番砲座跡、左側のコンクリートは砲弾庫または倉庫上部の換気塔(2024年4月25日撮影) 
(写真A)  (上記写真はグーグルアースより) 黄色点線内は皆同砲台跡 中央部緑色の山林中、目測で南北(横幅)約160m、東西(縦)約70mの間に砲台施設(砲座、指揮所・電気・無線・弾薬庫・倉庫・炊事場・兵舎など)があった。この写真では極一部しか写っていないが福重飛行場の全体長950mの内、皆同町側には約190mあった。
 (写真B) 北西側の 換気塔跡(砲弾庫または倉庫の上部か?) (写真C) 南東側の換気塔跡(倉庫または砲弾庫の上部か?)
皆同砲台(皆同防空砲台)の概要紹介
 まず、この皆同砲台のあった場所の紹介である。ここは、平地の多い大村市皆同町で唯一、小高い丘(最高所で約22m)である。(周囲の田畑が平地ばかりゆえ、まるで海に浮いている小高い島みたいにも見える所でもある) そのようなことと、古代以前から皆同町のある当時の福重村や隣村の松原村・竹松村(この3村を「郡村(現在の大村市郡地区)」ともいう)は、大村市内で有数の穀倉地帯である。
(写真D) 皆同砲台跡、測距儀か指揮所跡かも?(一部分のみを撮影)
(上記は皆同砲台のほぼ中央部にある)

 穀倉地帯=経済力や交通の便の良さから、古代肥前国時代には、その役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)郡衙(ぐんが)が、寿古町・沖田町・竹松にあったともいわれている。このよう歴史的経過からか、後世の戦国時代の寿古町には好武城(よしたけじょう)が、この皆同町にも今富城(いまどみじょう)が築城された。

 今回の皆同砲台が置かれた主な理由は、先の歴史的な事柄よりも、この場所が周囲より小高いため見晴らしが良く、砲台を設置するのに適していたためと推測される。ただ、戦国時代の城(今富城)と、近代の太平洋戦争(大東亜戦争)の砲台という時代の隔たりと、その役目の大きな違いはあっても、軍事上この場所が、ともに選ばれている共通項の一点においては、興味深い事柄である。

 あと、この皆同砲台は高射砲陣地ではあったが、なぜ設置されたのか、あるいは、その主たる戦闘任務や結果内容などの詳細は分かっていない。ただし、近くの軍事施設から考えれば、設置理由の推測はできる。その主なものとして、大正時代から隣村の竹松村(現・竹松地区)にあった大村海軍航空隊(主に草地の飛行場で1600m×1400m)、その後、隣町の沖田町にできた第三五二海軍航空隊(「352空」=「草薙部隊」、戦闘機迎撃部隊)と、皆同町と今富町にできた福重飛行場(約950m×約30m)に攻撃(空襲)をかけてくるアメリカ軍機に向かって撃ち落とすのが、その主目的であったろう。

敷地・装備・現状など(概要)
 後の項目に装備や施設については、個別ごと詳細に書く予定であるため、ここでは皆同砲台の規模(敷地)、装備(設備)状況、現存する遺跡状況などを先に簡単に紹介したい。
(写真A) 黄色の点線内皆同砲台敷地
目測ながら南北で約160m東西で約70mと推測


・規模(敷地)-----上野の目測ながら皆同砲台の敷地全体は南北約160m、東西約70mの広さであった。当然、敷地内全部が使われていなくて、装備や諸施設があった所が主である。また、装備や諸施設のあった場所は、一カ所集中ではなく、個々に離れていた。(点在状況だった)
 
・装備(設備)状況
-----高射砲と砲座測距儀探照灯発電機指揮所待機室砲弾庫倉庫炊事兵舎などである。(高射砲、砲座、測距儀、探照灯、炊事、兵舎などは地表面だが、それ以外の多くが地下構造であった。また、砲台の下部には民間人も空襲時に避難できる防空壕もあった)

・現存する遺跡状況-----現存している装備などは皆無である。地表面、地面下含めてコンクリート製の施設跡だけが、数十ヶ所あるようだ。また、終戦後約80年近くになるが、コンクリート部分の保存状態は一部を除き良好である。

 ただし、一部の砲座を除き、崖崩れや地盤の陥没などによって、当時はあったはずの砲座や装備の跡が、確認できない場所もある。

諸施設(設備)跡の一部が分かりにくい
 皆同砲台諸施設(設備)跡は、先の項目に、その名称を書いている通りである。ただし、その一部が今となっては分かりにくい所もある。これらの諸施設を知る手がかりとして、文書関係では、終戦後になってアメリカ軍への引き継ぎ書図面が、アメリカ国立公文書館(ワシントン)に所蔵されている。

 (写真E) 西北西側:中央部の2カ所のコンクリート換気塔跡
(この下側=地下に砲弾庫または倉庫がある)
 それらが、現在では複写版ながら、「国立公文書館・アジア歴史資料センター」などのサイトからも閲覧できる。先の文章上の諸設備事項は分かりやすいし、ほぼ正確であろう。しかし、図面(諸設備の配置図)が、あまりに大雑把過ぎと、方角などが間違っているようだ。

 そのため、上野が国土地理院から購入したアメリカ軍が1957年11月7日撮影した航空写真、あるいは皆同砲台跡の現地(実地)調査で確認する方が、正確といえる。さらに、今も視認しやすいコンクリートなどが現存している場所や石垣などを確認すると、より正確度が高まる。 あと、残念ながら、諸施設の中には、特に西側(郡川方向)を中心に崖崩れ樹木の繁茂、その他の理由で、先の図面対比で不明となっている諸設備もある。

 改めて言うまでもなく、諸設備は沢山あっても砲台(高射砲陣地)ゆえに、メイン施設は、砲座(砲台)といえる。次から、そのことも含めて書いていく。

座、砲弾庫、倉庫、指揮所、測距儀、探照灯、発電機、兵舎などについて


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



皆同砲台と関係ある諸事項


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


補足


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:「皆同砲台」 「福重砲台(通称「今富砲台)」)  「野田機銃台」  「箕島砲台」 「諏訪砲台」 「福重空襲」 「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」 「福重飛行場」 「福重飛行場跡の史跡説明板」 「福重小学校の歴史

(初回掲載日:2021年8月28日、第2次掲載日:10月14日、第3次掲載日:11月21日、第4次掲載日:2023年3月8日、第5次掲載日:2024年6月25日、第6次掲載日:8月4日、第7次掲載日: 月 日、)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  下記3講演内容の詳細報告 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) 掲載中
       
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