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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 福重飛行場跡・今富町(ふくしげひこうじょうあと・いまどみまち)

(史跡説明板)福重飛行場跡・今富町(ふくしげひこうじょうあと・いまどみまち)
 名称:福重飛行場跡・今富町  様式:説明板
 場所:大村市今富町(矢次第二号橋近く)  設置者:今富町内会、福重地区活性化委員会
 設置年:2017年3月1日(平成29年3月1日)  GPS実測値:32度57分13.61秒 129度57分5.97秒
 全体の大きさ:高さ145cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°57'13.61"N,129°57'5.97"E
 注:福重飛行場跡の史跡説明板について、説明文章や掲載写真は同様ながら、今富町側皆同町側の2か所にある。このページは、その内の今富町側である。

福重飛行場跡の史跡説明板今富町(右端側が飛行場跡の一部=幅約2.5m、長さ約860mの一直線の農道、左側は佐奈河内川の土手)

福重飛行場跡の史跡説明板今富町(右端側が飛行場跡の一部として残る幅約2.5m、長さ約860mの一直線の農道)

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、上側写真2枚を参照願います。両写真の右側端側に幅約2.5m、長さ約860mの一直線の農道が写っています。これが、福重飛行場跡の一部です。実際の福重飛行場の幅は、30mありましたが、飛行場から農地に変わった時点で、郡川(こおりがわ)寄り部分のみが、福重飛行場跡の農道として現在も残っています。この現存状況は、戦争遺跡(軍事施設跡)としては、長崎県内で最大級の規模と思われます。

 この史跡説明板の左側は、郡川の支流である佐奈河内川(さながわちがわ)の土手です。また、この説明板は、その佐奈河内川に架かる長さ約20mの矢次第二号橋(やつぎ だい2ごう きょう)から北北西方向へ、約25m行った所に立っています。(ご参考までに、この橋は、地元の通称で別名「第二矢次橋」と呼称されている方もいます)

 なお、ご参考までに、この矢次第二号橋から西側へ約40mの所には、郡川(こおりがわ)本流に架かる長さ約60mの矢次橋(やつぎはし)があります。次の項目で紹介していますが、矢次第二号橋近くの上流部=佐奈河内川の川床には、飛行機の誘導路橋の土台跡(コンクリートと穴)が現存しています。あと、福重飛行場は、コンクリート舗装だったため、そのセメントを練っていた作業場跡も分かっています。

写真の中央部の縦列:1945(昭和20)年当時のセメントの塊や欠片
写真中央部周辺:セメントを練る作業場(右側は佐奈河内川の土手)

福重飛行場の詳細紹介ページは、ここから参照願います

現存している福重飛行場関係の場所
 福重飛行場跡周辺に、この遺跡、遺物として、現存もしくは場所が分かっているのは、次の(1)〜(4)の4か所と思われます。

 (1)福重飛行場跡の一部として残る幅約2.5m、長さ約860mの一直線の農道 詳細は、福重飛行場を参照

 (2)佐奈河内川の川床に残る飛行機の誘導路橋の土台跡(コンクリートと穴) <詳細は、ここから参照

 (3)1945(昭和20)年春頃のもので、コンクリート舗装用のセメントの塊(かたまり)や欠片(かけら)

 (4)セメントを練っていた作業場跡

 上記の(1)と(2)項目については、リンク先の状況でもお分かりの通り、既に紹介中です。このページでは、(3)と(4)の項目のみを少し紹介します。まずは、右上側の写真を参照願います。これは、現在、農業用ビニールハウス周辺に置いてあるコンクリート舗装用のセメントの塊(かたまり)や欠片(かけら)です。

 地元の方の証言によれば、「飛行場建設当時<=1945(昭和20)年春頃>、滑走路をコンクリート舗装するために使われていたセメントの残りで、その袋ごと固まったものだ」「このセメントを練る(砂利や水などと混ぜる)場所も、この周辺だった」「セメントを練った後、猫車(一輪の手押し車のこと)で滑走路建設場所へ運んだ」「セメントは手塗りだった(手作業でセメントを塗っていた)」とのことでした。

 (右下側写真参照) このセメントを練る作業場は、福重飛行場跡・今富町の史跡説明板の位置から、北西方向へ佐奈河内川の右岸寄りに100数十m行った所です。あと、何故この場所だったかと言いますと、私の推測ですがセメントを練るには、その前後も含めて大量の水も必要なので佐奈河内川から用水路を通して得ていたと思われます。

 地元証言を聞きますと、いずれにしても一部の作業などを除き、飛行場建設のほとんど手造りだったようです。この時、福重小学校の児童も勉強もできず、郡川から滑走路用の石運びをしたという話も伝わっています。

史跡説明板の内容
 このページ上部左側から1と、2番目写真の中央部付近に写っています福重飛行場跡の史跡説明板今富町には、下記< >内の文章が書いてあります。(右下側の説明板の画像=PDFデータより加工を参照) 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。

福重飛行場跡の史跡説明板・今富町(PDFデータより加工)

  また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。 なお、この史跡の詳細説明は、「写真が語る福重の歴史や人(目次ページ)」の『福重飛行場』紹介ページなどから参照願います。

  なお、この史跡説明板掲載の古写真(白黒写真の複写版)について、地元の言い伝えでは、「戦後間もない頃にアメリカ軍が撮影したようで、その写真が何かの本に載っていたみたいだ」と言われています。

< 福重飛行場跡
 現在、郡川右岸に沿って南北方向にコンクリート舗装の一直線農道がある。これは福重飛行場の跡である。一九四四年一〇月の大村空襲などにより海軍航空隊の多くが使えなくなり、翌年突貫工事でこの飛行場が造られた。

 地元伝承によると「昭和二〇年(一九四五)五月二十七日の海軍記念日に滑走路が完成し一番機が飛んだ」と言われている。

一説によると「草薙(くさなぎ)部隊の名で知られた第352空の零戦、雷電、月光がここを基地として長崎、佐世保、大村地区の防空にあたった」、「滑走路は長さ950m×30m」と言われている。

 佐奈河内川(さながわちがわ)の南側にも延長計画があり、その整地部分も含めれば計画上の長さは千m以上であった。先の川床には飛行機の誘導路橋の土台跡(コンクリートと穴)が現存している。

 戦後もしばらくの間、小型機などが離発着していた。滑走路は一直線農道の一部として残っているが、それ以外は農地に戻った。

 二〇一七年三月一日  今富町内会・福重地区活性化委員会  >  

補足


(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


・詳細な関係ページ:、「写真が語る福重の歴史や人(目次ページ)」の『福重飛行場

(初回掲載日:2017年4月29日、第2次掲載日:4月30日、第3次掲載日:5月1日、第4次掲載日:5月2日、第6次掲載日: 月 日、第7次掲載日: 月 日) 


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