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中央部の丘陵(山林)のどこかにが西光寺山城があったと推定。<山林の手前側が鈴田川、さらに手前側にJR大村線を走行する列車が見えている>
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1)西光寺山城を紹介するにあたって
この西光寺山城は、江戸時代の(大村)郷村記に記述されていますので、後の項目で書きます。あと、この「大村の城シリーズ(目次ページ)」の個別城紹介ページでは、毎回のように引用・参照している『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会発行)、「大村市史」(大村市史編さん委員会発行)には、西光寺山城についての記述は何もありません。
また、江戸時代に作成された大村藩領絵図にも、この城の名前や場所の図示について、描かれていません。このようなことから、この城を語るにしては、資料(史料)が本当に少ない状況です。特に、城址調査で一番大事な場所の特定が難しいのは、城郭の遺構が失われていることや遺物なども出ていない現状にあります。
あと、この城があったと言う「西光寺山」の字(あざ)についてですが、この字は、南部や東部側は鈴田川を境に、北側は「千本桜公園」周辺もしくはその下側(南側)までのようですから、結構分かりやすいものです。
字(あざ)は、江戸時代の(大村)郷村記などに書いてあるからといって、全て正確というものではありません。近代になって変わった字=地名もあります。ただ、このように川などを境にした地名は、一般的に考えれば変えようがないとも思えます。そして、この字を由緒に西光寺山城が名づけられたとしたら、この字「西光寺山」の所に城はあったと考えるのが自然だといえます。
右側1番目写真の説明
この写真中央部に丘陵(山林)部が見えています。ここの上部は、現在「千本桜公園」がある所です。山林の手前側が鈴田川が流れ、さらに手前側にJR大村線を走行する列車が見えています。
仮に(大村)郷村記の距離が正しければ「鈴田川より約160mの所」、つまり写真に写っている山林の中腹部に西光寺山城はあったと推定されます。(大村)郷村記の距離では、「千本桜公園」の高い場所は、離れ過ぎで、その下側付近か、鈴田川近くの民家より上側何十メートル周辺とも思われます。
2)西光寺山城と大村郷村記の記述
江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)鈴田村の古城蹟之事の項目に、「西光寺山古城」(注:西光寺山城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、「西光寺山古城」については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えています。
あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。
「 一 西光寺山古城 天和の舊記に、宮薗といふ處より北の方四町程の處西光寺山にあり、此山の麓に廻リ拾町程、高さ拾貮、三間程、城の構へ東西拾六間、南北三拾四間、畝歩にして六畝拾四歩、北の方高尾續、南の方壹町半程下リ、鈴田川を水の手に用る外は水なしとあり、今其所を不知 」
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。
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<写真下側から斜め左側へ鈴田川が流れている>大村郷村記によると鈴田川から約160mの所(丘、山林部)に西光寺山城があったと言う(グーグルアース写真)
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また、(大村)郷村記は、西光寺山城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 一つ 西光寺山古城 天和(天和年間=1681〜1683年)の古記録によれば宮園という所から北方に約436mほどの所に西光寺山にある。この山の山麓の周囲は約1,090mほどで、高さは22m〜24mほどである。城の構え(規模で)東西(の長さ)約29m、南北(の長さ)約62mであり、広さにすれば約642平方メートルである。
北の方は高い尾根続きで、南の方は160mほど下り、鈴田川の水を利用するしか(城で用いる)水の確保ができないとあり、今もその場所は不明である。 >
右側2番目写真の説明
このグーグルアースの写真中央部やや左下側(南側)方向に「西光寺」の地名を表す白文字があります。その文字よりさらに下側(南側)に鈴田川が、写真右側(東側)から流れてきています。
大村郷村記の内容が仮に正しいとしたら、この鈴田川より約160m北側の丘陵部(山林)に西光寺山城はあったことになります。たったこれだけの情報では、城址のあった場所を特定するのは難しいです。ただ、先の「鈴田川より約160m北側」をヒントに考えると、この城址は写真中央部より下部周辺(「西光寺」の文字上側周辺の山林から、斜め下側方向=東端の山林まで)が、可能性として考えられます。
あと、(大村)郷村記には、「西光寺山古城」と、字(あざ)=地名「西光寺」の下に、わざわざ「山」の文字が入っているのは何故でしょうか。これは普通に考えれば、この城址のあった場所は、鈴田川流域の平地ではなく、やはり「山」の文字が入っている通り、丘陵(尾根)部=山林部を示しているのではないかと推測されます。
また、この丘には、泉や川などがなかったようですから、城の場所は水確保のためにも川からあまり離れていない位置関係だったとも思われます。いずれにしても、城郭の遺構が失われているようなので、現在のところ場所を特定して考えるより、広範囲の場所から、何らかの情報を探している状況です。
3)鈴田小学校・創立百周年記念誌の地図が示していること
大村市立鈴田小学校の創立百周年の時に、「鈴田小学校・創立百周年記念誌」(以降、「記念誌」と称す)が、発刊<昭和42(1967)年3月20日、創立百周年記念誌編集委員会>されています。この「記念誌」は、鈴田学校の歴史だけでなく、鈴田地区の名所旧跡(史跡)、歳時記、自然、産業など、実に詳しくて、しかも分かりやすい本です。
鈴田地区の名所旧跡の地図(極一部分) (鈴田小学校創立百周年記念誌より) |
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中央部やや左側の円内に片仮名の「ホ」が西光寺山城跡 |
この「記念誌」にも当然、今回の西光寺山城跡についても、その城跡名と、他の名所旧跡とともに地図で図示されています。右図=「鈴田地区の名所旧跡の地図(極一部分)を先に参照願います。
ただし、実物は、右図の何倍ある大きさですが、ホームページ用に、西光寺山城跡を中心にトリミング後に縮小して、また、位置関係が分かりやすいように鈴田川(本流のみ)を水色で彩色しました。これから箇条書きで、地図の補足説明をしていきます。
(1)地図中央部やや左側、円内に片仮名表記の「ホ」が西光寺山城跡で、同じく数字の「24」は西光寺跡、なお、このような並べて一部重なったような表示は、ほとんどの場合、同一場所を表している。つまり、どちらが先が現時点では不明ながら、西光寺山城跡とも西光寺跡とも年代差はありながらも同じ場所に存在したものと推測される。
(2)地図左側で(前同)アルファベットの「C」が現在の鈴田小学校、(前同)「M」が専念寺、片仮名の「へ」が岸高城跡である。(他の説明は省略)
(3)上野は推測ながら上記(1)の片仮名表記「ホ」=西光寺山城跡も、数字の「24」=西光寺跡も同じ場所と思っている。そして、その場所の現在の状況は、山林内ある墓地周辺と考えている。この周辺は、東西(横幅)が短く、南北(縦)が長い場所である。
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中央部の丘陵(山林)のどこかにが西光寺山城があったと推定。<山林の手前側が鈴田川、さらに手前側にJR大村線を走行する列車が見えている>
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・地図と大村郷村記を照らし合わせて
このページの「2)西光寺山城と大村郷村記の記述」と、今回の地図と照らし合わせてみますと、主に次の共通項があることが分かります。
・字(あざ)が、同じ「西光寺」内であること。
・大村郷村記の記述が正しければ、西光寺山城跡のあった「鈴田川から北側へ約160m」の内容は、今回の地図上からも、ほぼ同じ位置であること。
・「西光寺城跡」も「西光寺跡」も、上野の推測ながら戦国時代頃より現代まで長期間、地元に伝承であったからこそ同じ場所で地図に図示できたと思われる。
・「西光寺山城」も「西光寺」も同時代に同じ場所に存在したのか、または年代差があり、どちらが先に存在したのか現時点では不明である。しかし、字(あざ)として「西光寺」が言われ続けてきたのには、福重地区にある地名(町名)、弥勒寺町や立福寺町と似た経過や状況だったと思われる。つまり、寺は、天正2(1754)年のキリシタンの焼打ちなどにより、その後、寺としては存在しなくても、地名として「寺名」の影響は大きいと考えられる。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
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