1)三城城を紹介するにあたって
三城城を記述してある書籍類は、江戸時代作成の(大村)郷村記を始め、近代・現代発行の本など何十冊とあります。さらには、公設・民間問わず各種ホームページ類も数多いです。ご参考までに、玖島城(大村城)は、さらに多い状況です。この傾向は、長年変わりがなく、そのため大村市内には約30の城・砦・館跡などがあるにも関わらず、極端に言えば今回の三城城と玖島城のたった二つしかないみたいな紹介の仕方です。
そのような状況からして、『大村市の文化財』(2012年3月19日、大村市教育委員会)17ページと、『新編 大村市史第二巻 中世編』(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)820〜821ページを紹介するだけも十二分の分量がありますので、このページでは両誌を中心に書いていきます。
後の項目で、『大村市の文化財』、『新編 大村市史第二巻 中世編』の順番で紹介します。その前に、三城城の位置や規模の概要を知って頂くため、グーグルアースの航空写真を複写して、上側(右側)2番目写真を掲載しています。
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写真中央部の丘陵部が三城城址(グーグルアースより)
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写真説明について
上から(右側)2番目写真(グーグルアースの航空写真より)を説明します。写真の上側が北側で、あと方位は、ご覧の通りです。この写真では南北間に大きな道路みたいに線が3本見えます。最も左側(西側)が2車線の道路、そのやや右側がJR大村線です。写真上側方向が諏訪駅方面、下側方向が大村駅方面で、ここからは数百メートルです。そこから離れて逆の右側(東側)の端近くが長崎県道257号大村外環状線(久原池田線、2車線)の道路です。
写真左下側(南西側)のオレンジ色の屋根が少し見えていますが、ここが向陽学園(高校)です。左上側(北西側)の端に斜めに流れている川が、大上戸川(本堂川)です。
中央部の丘陵部(下側)南側に、長方形の広場がありますが、この一帯は県忠霊塔のある場所です。また、後の項目の縄張り図では、「曲輪1」です。
中央部の丘陵の北東部に開けた畑もしくは広場みたいに見れる所が、縄張り図では、「曲輪2」となります。そして、丘陵の北部に、こんもり大きな林が見えていますが、この周辺を縄張り図では、「曲輪3」です。
なお、写真で見る中央の丘陵部は、大変大ざっぱな目測ながら、南北間も東西間も350m位のようです。念のため、この面積の全部が三城城だったと言うことではありません。
2)各書籍の三城城紹介内容について
大村市の文化財(2012年3月19日、大村市教育委員会発行)の17ページに、三城城のことが書いてあり、それは次の<>内の通りです。なお、引用される場合は、必ず原本からお願いします。
< 三城城 この城は、日本最初のキリシタン大名大村純忠が、永禄7年(1564)築城し、大村家の居城とした城です。純忠は、南蛮貿易港として長崎を開港し、 天正遣欧少年使節をローマに派遣するなど、日欧文化交流の基礎をつくった人物として有名です。
三城城は、現在長崎県忠霊塔がある場所を主郭とし、東側や北側に大きな曲輪を配し、さらにいくつかの小さな曲輪を配していました。 この城は、この地に石垣で城を築く技術が入る前の城で、土塁(どるい)や空堀(からぼり)によって周囲を囲まれた山城です。そのほとんどが残されていることが分かり、戦国時代末の貴重な古城 となっています。発掘調査では、鉄砲の弾や茶道具、その他生活用品が出土しており、当時の城の様子が少しずつ分かりつつあります。
三城城で一番大きな戦として伝えられているのが元亀(げんき)3年(1572)の戦です。この時、武雄の後藤氏、諌早の西郷氏、平戸の松浦氏の連合軍約1,50 0名が突然城を囲み攻撃をしました。しかし、城にいた7人の武将と女、子ども合わせて70余名の大奮闘と富永又助の活躍、郡村と萱瀬村の侍の決死の援助により大勝利をおさめたと伝えられています。この戦を、「三城七騎こもり」 といいます。
この城は、純忠の子喜前(初代藩主)まで使われ、喜前の代には改修が行わ れました。しかし、慶長4年(1599)に玖島城を築き、移ったことから居城としての役目は終わっています。 >
新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)820〜821ページに、三城城のことが書いてあり、それは次の<>内の通りです。全て縦書きですがホームページ用に横書きに直し、さらに一部見やすくするために改行などを変えています。なお、引用される場合は、必ず原本からお願いします。
< 三城城 大村市三城町に所在する標高約三七メートルの低丘陵上に築かれた複数の広大な曲輪を配置する戦国期大村氏最大の平山城である(巻頭写真)。 『大村郷村記』には「追手(大手)は西に向き、搦手は北に向く。本丸は二、四○○坪(約八、○○○平方メートル)、二之郭一、 五○○坪(約五、○○○平方メートル)、三之郭六○○坪(約二、○○○平方メートル)、北之出郭五○○坪(約一、七○○平方メートル)」 とある。
時期については、『大村郷村記』に大村純忠がキリスト教に入信した翌年である永禄七年(一五六四)に築城し、その子喜前が玖島城に移転するまでの約三五年間の居城とあるが、大村市教育委員会が実施した発掘調査による出土 遺物からは十六世紀前半には既に存在していたことが明らかであり、築城者については文献資料とのそごが生じる。 元亀三年(一五七二)、武雄領主後藤貴明が平戸の松浦隆信及び伊佐早の西郷純堯らと謀り三城城を攻撃する激戦が行われた(「三城七騎籠」)敵軍約一五○○名に囲まれた大村氏の勢力は七名の家臣を中心に約一○○名であっ たが、大村氏家臣の奇策により応戦し、撤退させたという記録(16)がある。
三城城は八つの曲輪から成り立っている。曲輪Tは東西約二○○メートル、南北約一○○メートルと広大な平場であることから主曲輪と推測される。北側中央部(曲輪Xと接する部分)が入口部分と推測され、この部分と南東部隅に横矢(17 )が見られるなど戦国期の城郭の特徴を顕著に表わしている。曲輪Uは曲輪Tに続く広さを有し、やや北側に緩やかに傾斜する平場であり、畑地として利用されていた。
平成十三年(二〇〇一)に大村市教育員会により行われた発掘調査(18)では、南側塁線上に二重の横堀とそれに挟まれた土塁が確認されている。ただ土塁の下からは四棟の掘立柱建物跡が確認されていることから、緊迫した戦国期において大改修を行ったことをうかがうことができる。二重の横堀の外側の堀は曲輪Tの南側(曲輪Z・帯曲輪)まで続いており、その長さは約三五○メートルと大規模である。
三城城縄張図(『新編 大村市史第二巻 中世編』821ページ) |
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曲輪Vは周囲を土塁で囲まれた径約六○メートルの楕円形状の平場である。平成十五年度の大村市教育委員会による発掘調査(19)では、平場の中央にV字型の堀が確認されており、元々は二枚以上の平場があったことが推測される。
また、北側の土塁の下からは古い時代の切岸が確認されており、この曲輪が大規模な造成ののちに築かれたことが推測される。南側中央に西に開口す る出入口があり、階段状の遺構も確認されている。
曲輪Wはまわりの地形とほとんど差がない平場の曲輪であり、北西側の土塁と堀で区画されている。主曲輪への動線としては、曲輪W西側の塁線を大手口とし、現在富松神社社殿が鎮座する位置から境内裏に上がり曲輪T・Vにかかる土塁に突き当たり、その手前から南へ曲がり曲輪Xに至る。
曲輪Xは曲輪Tの馬出し状の平場であり、西側の大手から眼下登城路にかけてを見張るには絶好の場所である。 >
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)