大村の城シリーズ | 玖島城(くしまじょう) |
記 述 項 目 |
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(1)名称 | 玖島城(くしまじょう) |
(2)別名 | 大村城(おおむらじょう) |
(3)所在地 | 大村市玖島1丁目 |
(4)築城年代 | 安土桃山時代、慶長4年(1599年)に築城 |
(5)形式・特徴 | 平城、海城 |
(6)城主など | 大村藩の初代藩主から12代藩主まで大村氏が居城 |
(7)現状(遺構) | 建物以外の石垣や堀などの城遺構は現存 |
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など) | (大村)郷村記、大村藩領絵図 |
(9)土地や管理など | 公有地(大村公園 、大村神社の境内) |
(10)補足、感想など |
玖島城の絵図(「2012年、大村市立史料館 特別展 懐古・知新」展のパンフレットより複写) |
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絵図説明 |
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1)玖島城を紹介するにあたって 玖島城(大村城)を記述してある書籍類は、江戸時代作成の(大村)郷村記を始め、近代・現代発行の本など何十冊とあります。さらには、公設・民間問わず各種ホームページ類も数多いです。この傾向は、長年変わりがなく、そのため大村市内には約30の城・砦・館跡などがあるにも関わらず、極端に言えば、このページの玖島城と三城城のたった二城しかないみたいな紹介の仕方です。 そのような状況からして、『大村市の文化財』(2012年3月19日、大村市教育委員会)15ページと、『新編 大村市史第二巻 中世編』(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)822〜824ページを紹介するだけも十二分の分量がありますので、このページでは両誌を中心に書いていきます。 後の項目で、『大村市の文化財』、『新編 大村市史第二巻 中世編』の順番で紹介します。 その前に、玖島城の位置や規模の概要を知って頂くため、大村公園(玖島城)内にある玖島城見取り図写真を下記に(上から2番目画像)を掲載しています。 |
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玖島城見取図の説明 |
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2)各書籍の玖島城紹介内容について < 玖島城
そこで、喜前が朝鮮出兵のとき立て篭もった順天(じゅんてん)城が海に面しており、大軍に囲まれても守りやすかった体験を生かして、三方を海に囲まれた玖島の地が選ばれ、玖島城が築かれました。初め北側を大手とし、石垣は自然石を使っ た野面積みの方法で築かれました。 また、本丸を中心に6つの櫓があり、周囲には、東側に広い角堀をつくり、さらに長堀から南堀、そして、西側に空堀(からぼり)をめぐらしました。また北側搦手(からめて)の下の海岸は遠浅で敵が海から来た時に備え、海岸近くには海中4mの深さの捨堀(すてぼり)がめぐらされたと言われています。これは他の城に見られない独特なものでした。 新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)822〜824ページに玖島城(大村城)のことが記述されています。その内、写真が2枚あります。その文章は、下記の<>内の通りです。ホームページ上、見やすくするために一部、改行その他を変えています。なお、引用される場合は、必ず原本からお願いします。
玖島城縄張図について |
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板敷櫓が長年あった説は間違い
このように大村市教育委員会の発掘調査時、櫓跡を示す遺構、屋根瓦などが出土しなかった点などは分かりやすい例と思われます。つまり、江戸時代のほぼ全期間通して櫓がなかったことは当然としても、築城当時も現在ある板敷櫓みたいな構えの大きな櫓が存在したこと自体も疑問と思えます。 |
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補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) |
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初回掲載日:2015年7月21日、第2次掲載日:7月23日、第3次掲載日:8月8日、第4次掲載日:8月9日、第5次掲載日:8月13日、第6次掲載日:8月14日、第7次掲載日:8月15日、第8次掲載日:8月16日、第9次掲載日:8月17日、第10次掲載日:8月 日 |
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