最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村の城シリーズ 玖島城(くしまじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  玖島城(くしまじょう)
(2)別名  大村城(おおむらじょう)
(3)所在地  大村市玖島1丁目
(4)築城年代  安土桃山時代、慶長4年(1599年)に築城
(5)形式・特徴  平城、海城
(6)城主など  大村藩の初代藩主から12代藩主まで大村氏が居城
(7)現状(遺構)  建物以外の石垣や堀などの城遺構は現存
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記、大村藩領絵図
(9)土地や管理など  公有地(大村公園 、大村神社の境内)

(10)補足、感想など
  玖島城は、江戸時代の(大村)郷村記を始め近代・現代の大村市教育委員会や民間発行問わず何十冊もの書籍類に書いてある。このように沢山の書籍類やマスコミ含めて、大村市内の城紹介と言えば毎回毎号(他の城跡紹介は無視してでも)玖島城(大村城)と三城城は、必ず登場する。

 そのような状況からして上野個人が何か特別に調査するとか、新たな内容で書くようなテーマは、あまりない。ただし、現在まるで玖島城のシンボルみたい扱われ(当然マスコミの方なども、それを丸ごと信じて)毎回のように宣伝されている板敷櫓(いたじきやぐら)は、一説によると築城当時から何年間は別としても、ほぼ江戸時代の全期間通して存在しなかったのではないかとも言われているので、その証拠の城絵図などを掲載して紹介したいと考えている。

 以上のことから、このページは毎回のシリーズで紹介している『大村市の文化財』や、『新編 大村市史第二巻 中世編』などの引用・参照して書くことでおさめたい。なお、このページ掲載の写真、図などは、その項目ごとに出典を書いているので、先の書籍類同様に、必ず原本を参照願いたい。



絵図説明
 上記画像は、「2012年、大村市立史料館 特別展 懐古・知新」展のパンフレット(大村市立史料館発行)13ページから複写しました。この絵図とともに説明文があり、それには次の<>内のことが書いてあります。 <城郭全図大村県(長崎歴史文化博物館蔵) 大村氏の居城玖島城を描いた絵図。絵図には「庶民局」や「刑法局」とかかかれており、明治の廃藩後、大村県の県庁時代の様子を描いた絵図である。建物の配置や本丸をとり囲む海の様子など詳細に知ることができる。>

 補足しますと、上図の中央部右側(東北東側)の四角部分が本丸です。大手門(城の正門)は、本丸の下側(南南西)方向で、二つの内堀に挟まれた部分に大手門へ登る道も見えています。なお、この絵図は、上記<>内説明文によりますと、1871年(明治4)7月の廃藩置県の頃を描いてあるということです。絵図の東側部分の(まるで外堀のような)海は、まだ埋め立てられていないことが、良く分かるものです。

 現在の東側部分は、大村公園内の池(桜田の堀)や陸地になっています。さらに絵図最上部(北側)の海部分は、後世の大規模な埋め立てで(今は)野球場や駐車場になっていて、さらにその北部側には市役所などがあります。

 なお、玖島城(大村城)には、天守閣などは建築されませんでした。それは、江戸時代、城の増設や改築などは、幕府へ届け出て許可が必要でしたので、その要因もあります。また、大村氏は外様大名でしたから、幕府に恭順の意を示し、遠慮したため天守閣などは築かなかった可能性もあります。

 そのようなことから、この絵図状況は、慶長19(1614)年に城の改修や整備された部分を除き、慶長4年(1599年)の築城時から江戸時代通して、あまり変わっていないとも思われます。なお、今ある板敷櫓(いたじきやぐら)の件については、後の項目で詳細に書く予定です。

1)玖島城を紹介するにあたって
 玖島城(大村城)を記述してある書籍類は、江戸時代作成の(大村)郷村記を始め、近代・現代発行の本など何十冊とあります。さらには、公設・民間問わず各種ホームページ類も数多いです。この傾向は、長年変わりがなく、そのため大村市内には約30の城・砦・館跡などがあるにも関わらず、極端に言えば、このページの玖島城三城城のたった二城しかないみたいな紹介の仕方です。

 そのような状況からして、『大村市の文化財』(2012年3月19日、大村市教育委員会)15ページと、『新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)822〜824ページを紹介するだけも十二分の分量がありますので、このページでは両誌を中心に書いていきます。 後の項目で、『大村市の文化財』、『新編 大村市史第二巻 中世編』の順番で紹介します。

 その前に、玖島城の位置や規模の概要を知って頂くため、大村公園(玖島城)内にある玖島城見取り図写真を下記に(上から2番目画像)を掲載しています。
玖島城見取図(大村公園内で2011年8月4日に撮影)

玖島城見取図の説明
  上記の写真は、大村公園(玖島城)内にある玖島城見取図です。念のため、一部、変色・汚れの修正やトリミングなどをおこない掲載しています。このページ上から1番目画像の玖島城の絵図も参照願います。見取図の外周部分は青色や白色部分ふくめて、元々は海(大村湾)でした。それは、玖島という名称からも分かりやすいです。現在は、城跡の北部側(写真上部側)が埋め立てられ、大村市役所やシーハットおおむらなどがあります。

 次に、角堀、長堀、南堀、空堀、さらに上図には描いてありませんが、高い石垣が周囲にある本丸、二の丸、平地も含めた三の丸などの様子が分かりやすいと思われます。なお、ご参考までに、見取図の右下側には、「本丸9,458平方メートル(2,861坪)、二の丸29,921平方メートル(9,051坪)、三の丸79,091平方メートル(23,921坪)」と書いてあります。

 城周囲が海だったため、上記写真内にも例えば「船役所」とか「新蔵波戸」など船や港に関係した場所があることが分かります。(注:城跡南西側は現在も海のままです) あと、「本丸」文字下部@=「国指定 大村神社のオオムラザクラ」、「船役所」文字下側付近のA=「県指定 大村藩お船蔵跡」との説明書きが、この見取り図下部に書いてあります。

 なお、本丸部分は、明治17年(1884年)に歴代の藩主を祭る大村神社が建てられ、現在に至っています。三の丸南側周辺は現在、長崎県教育センター関係の建物があります。

2)各書籍の玖島城紹介内容について
 大村市の文化財(2012年3月19日、大村市教育委員会発行)の14〜15ページに、玖島城(大村城)のことが紹介さ入れています。その内、写真が両ページに3枚、文章が15ページにあります。その文章は、次の<>内の通りです。ホームページ上、見やすくするために一部、改行その他を変えています。なお、引用される場合は、必ず原本からお願いします。

< 玖島城 
 ここは、初代藩主大村喜前(よしあき)が文禄・慶長の役から帰った後、慶長3〜4年(1598〜1599)に築いた城です。その頃、国内では豊臣秀吉が死去し、再び争いが起こる気配となっていました。大村では、それまでの居城三城城では鉄砲や大砲を使った新しい戦に対応できず、新しい城造りが急がれていました。

玖島城の本丸(南西部)の塀と桜<大村神社側から撮影>
お船蔵跡<長崎県指定史跡、元禄年間の頃に造られ大村藩主や藩用の船などが格納されていた>
新蔵波止(貞享3年1686年、新しい蔵を建て港として使用した)

 そこで、喜前が朝鮮出兵のとき立て篭もった順天(じゅんてん)城が海に面しており、大軍に囲まれても守りやすかった体験を生かして、三方を海に囲まれた玖島の地が選ばれ、玖島城が築かれました。初め北側を大手とし、石垣は自然石を使っ た野面積みの方法で築かれました。

 慶長19年(1614)2代藩主純頼(すみより)が大改修をして、大手を南にし、石垣を打ち込み接(は)ぎと呼ばれる工法で、角(かど)や面を加工し、高く反り返る石垣へと造 りかえました。喜前が加藤清正と特に親しかったことから、この改修にあたり指導を受けたと伝えられています。 玖島城には天守閣はなく、本丸には館(やかた)造りの屋敷がありました。

 また、本丸を中心に6つの櫓があり、周囲には、東側に広い角堀をつくり、さらに長堀から南堀、そして、西側に空堀(からぼり)をめぐらしました。また北側搦手(からめて)の下の海岸は遠浅で敵が海から来た時に備え、海岸近くには海中4mの深さの捨堀(すてぼり)がめぐらされたと言われています。これは他の城に見られない独特なものでした。

また、 御船蔵や波止なども残っており、海城としての特徴をよく残しています。 明治2年、廃城になるまで戦火を受けることはありませんでした。現在は、 本丸が大村神社、城全体が大村公園となっています。

なお、ご参考までに、上記の紹介文章ほど長文ではないものの、大村公園内にある玖島(大村)城の史跡説明板も、ほぼ同趣旨(同内容)で書いてあります。(その史跡説明板の写真や文章の紹介は、このページでは省略)

新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)822〜824ページに玖島城(大村城)のことが記述されています。その内、写真が2枚あります。その文章は、下記の<>内の通りです。ホームページ上、見やすくするために一部、改行その他を変えています。なお、引用される場合は、必ず原本からお願いします。

 なお、玖島城縄張図も823ページにありますので下方に掲載し、若干の説明も加えています。ただし、縄張図に関しては、原本の方が大きいので見やすいです。

< 三、玖島城
 大村市玖島一丁目に所在する標高約一七メートルの近世城郭である。慶長三年(一五九八)、大村喜前は朝鮮出兵時の経験から、海に近い要害こそ防衛に適すると考え、もともと島であった当該の地に築城し、大村氏の近世における居城として幕末まで機能した。長崎県内における織豊系城郭としては、壱岐市勝本城や対馬市清水山城、南島原市 原城など(20)がある。

 玖島城は幾度となく城の修理が行われて、また周囲も公共施設があちらこちらに作られているため、当時のままの様相を見ることはできないが、随所に中世から引き継がれた城づくりの形状が観察される。 現在の本丸への大手口は南側であるが、元来は北側であった。いろは坂には本丸の石垣とは明らかに異なる古相の石垣(a)が残る。

 また、本丸西側にみられる横矢と櫓台を有する鈎形(かぎがた)に折れ曲った巨大な堀(b)は海上からの防御を明らかに意識した築城当初の形状を残す遺構と推測される。 現在見られる玖島城は、第二○代大村純頼が行った大改修後の姿であり、その際、加藤清正の助言を受けたといわれている。城に入るには長堀と南堀の間を渡る土橋から入り、大きく西側に曲がり更に三度折れて二の郭(c)に至る。

 二の郭に取りつくように本丸の南と西に二ヵ所の虎口が見られる。本丸の南西側には外郭(d)があり、南隅には櫓台がある。市制施行記念で板敷櫓が建設されたが、過去に行われた大村市教育委員会の調査では建物の遺構は確認されていないらしい。本丸の北側には東西に横矢掛けの張り出しがあり、中央の搦手口にかけて塁線が僅かに「く」の字型になった平入りの虎口(e)が残る。

 城壁には狭間が復元されており、当時の面影をうかがうことができる。城の西側の海に面したところには「大村藩お船蔵跡」(f)がある。現在残る石 積みの上には等間隔に穿たれた方形の柱穴が残っており、覆い屋があったことがうかがわれる。お船蔵は昭和四十四年(一九六九)四月二十一日に県指定史跡となっている。本丸の館や櫓も壊され、のちに本丸跡には歴代の藩主を祀る大村神社が創建された。現在では、大村公園として市民の憩いの場となっている。 >

玖島城縄張図(長崎県教育委員会作成、新編 大村市史第二巻823ページより複写)

玖島城縄張図について
 新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)823ページに玖島城縄張図があります。このページ掲載分は、全体やや小さくて分かりにくかもしれませんが、上記説明文(文章)の(a)(f)は、右図の縄張図にあるアルファベットと同じですので、見比べて頂けないでしょうか。

 あと、玖島城は、上記説明文の通り築城以来けっこう改修が重ねられられました。それ以降、火災や戦災(空襲)などにあっていないものの、近代・現代の建築物なども多く建てられ、この縄張り図の中央部から左側半分が海岸部を除き、築城当時や江戸時代の状況と、かなり変わっていて分かりずらくなっています。

 なお、ご参考までに、このページ上段の玖島城の絵図も参照され、見比べて頂ければと思います。あと、縄張図(a)周辺の石垣は、上記説明文の「古相の石垣」表現にもある通り、他の場所に比べて古い石垣で、推測ながら築城当時のものかもしれません。

板敷櫓について
 まず、大手門の南側で、大体同じ位置から同じ方向を向いて撮影された下段の写真2枚(モノクロ横位置写真とカラー縦位置写真)を参照願います。 念のために、右側のカラー写真は、2006年4月3日に上野が撮影したものですが、2015年現在も、ほとんど変わりありません。

 左側のモノクロ写真(この写真は1964年以前に撮影されと推測され増元氏のご親戚から提供して頂いた)は、築城当時の何年間を除けば江戸時代や近代・現代を通して長年、この周辺の石垣上に板敷櫓(いたじきやぐら)などのなかった本来の姿を現している写真です。(蛇足ながら、この板敷櫓のない写真は現在では珍しい写真とも言える)

 また、このことは、上段の玖島城の絵図と見比べて頂ければ分かりますが、この絵図にも現在ある板敷櫓などは描いてありません。むしろ、白い塀が櫓(やぐら)のあったと思われる敷地内を横切っていることが、明確に分かります。 (注意:写真2枚の下段へ文章は続く)

板敷櫓のない本来の玖島城(石垣)(写真は増元氏のご親戚から提供)
現在の状況(2006年4月3日撮影)

板敷櫓が長年あった説は間違い
 そのようなことから、観光チラシ、パンフレットを始め、それを信じて県内マスコミなどが、「板敷櫓が江戸時代通して長年あった」とか「板敷櫓は玖島城(大村城)に(天守閣がなかったので)長年、城のシンボルみたいな存在だった」との説明や紹介文は、明らかに間違いと思われます。

 これらは、例えば先に紹介しました新編 大村市史第二巻 中世編(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)824ページにある玖島城の記述に、次の<>内ことが書いてあり、注目されます。(太文字やアンダーラインは上野が付けた) < (前略) 南隅には櫓台がある。市制施行記念で板敷櫓が建設されたが、過去に行われた大村市教育委員会の調査では建物の遺構は確認されていないらしい。 (後略) >

大村藩領絵図の玖島城部分
<九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版より>

 このように大村市教育委員会の発掘調査時、櫓跡を示す遺構、屋根瓦などが出土しなかった点などは分かりやすい例と思われます。つまり、江戸時代のほぼ全期間通して櫓がなかったことは当然としても、築城当時も現在ある板敷櫓みたいな構えの大きな櫓が存在したこと自体も疑問と思えます。

  念のため、江戸時代中期に描かれた大村藩領絵図の玖島城部分(右側画像=上から9番目画像)も、ご参照願います。本丸部分は(絵図中央部右側に)広い面積があるので、直ぐに分かります。しかし、本丸よりは10数分の1以下の小さな板敷櫓のあった場所は、敷地が小さ過ぎたためか何の印(しるし)もありません。むしろ、周囲の塀、石垣、林や堀と同化した描き方になっています

  あと、ここからは私の推測ですが、玖島城の絵図や1964年以前に撮影されたと思われるモノクロ写真から考えて、築城当時の何年間あったと思われる何かの四角形建物(敷地)の跡は確認はできます。しかし、それは例えば規模の小さい、(瓦屋根ではない)茅葺き屋根の車庫程度の建物だったと言うだけではないでしょうか。。

 なぜなら、発掘調査時に建物遺構や瓦屋根などがあったならば柱石(礎石)や瓦の破片など、規模や数の大小は別としても多くの場合、それらは出土するものです。しかし、その遺構や遺物が出なかったということは、現在ある規模の大きい2階建ての板敷櫓みたいな櫓は、築城当時からなかったと見た方が、むしろ自然とも思えます。

 以上のことから、あたかも板敷櫓が長年あったと言う説は明らかに間違いと言えるでしょう。


補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2015年7月21日、第2次掲載日:7月23日、第3次掲載日:8月8日第4次掲載日:8月9日第5次掲載日:8月13日第6次掲載日:8月14日第7次掲載日:8月15日第8次掲載日:8月16日第9次掲載日:8月17日第10次掲載日:8月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク