大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ | 浜田彪(はまだ ひょう) |
浜田彪(はまだ ひょう) |
浜田彪 三菱造船所・第6代所長・常務・会長などを歴任 大村や福重の学生に多大な貢献(育英資金) 長崎県立図書館建設時の史料収集の資金援助などに尽力 浜田氏の略歴 ・1870(明治3)年11月19日、福重村野田郷(町)で一瀬信造の次男(一瀬彪)として誕生。1938(昭和13)年11月7日に死去、享年69歳。 ・旧制の大村中学校(現・大村高等学校)、蔵前工業高等学校(後の東京工業大学)卒業。 ・1891(明治24)年3月に三菱造船所に入社。優秀な技術士となり、その後、取締役・造船所所長、常務取締役、会長などを歴任。 ・1929(昭和4年)に福重村へ1万円を寄付。(当時、福重村では家の建設費用が建坪約40で300円から400円で出来たので、いかに大きな金額だったか分かる) ・その後も『野田農事改良実行組合』設立援助のため750円を寄付。野田郷青年団へ100円を寄付し、その金で野田楽隊の楽器が購入された。 ・東京でも大村出身学生の育英資金、長崎県立図書館の蔵書資金の寄付、後で大村市長になった松本寅一氏のアメリカ留学中の生活や国際会館建設資金の援助もされた。 ・精緻な思考と強い信念の人ながら、後進には温かい高潔な人格者であったと言う。 出身地や学生時代までについて この浜田彪氏(旧姓・一瀬彪)の生まれてから学生時代頃までは、資料類がほとんどないので、詳細な事柄までは分かっていません。ただし、上記の略歴の通り、一瀬信造氏の次男(一瀬彪)として1870(明治3)年11月19日に誕生し、その生誕地は当時の福重村野田郷(現・大村市野田町)350番地です。
そして、一瀬彪氏の中学校までの学歴は不明ながら、当時の大村中学校(現・大村高等学校)の最初の(初代)卒業生名簿に「一瀬彪」として名前が書いてあります。つまり、中学校を卒業し東京の蔵前工業高等学校(東京高等工業学校)に入学するまでは、この出身地で過ごしていたと思われます。 あと、数少ない地域伝承を書いていきます。同氏の生まれた敷地の直ぐ横(南東側)には、(目測ながら)南北間(横幅)が25m弱、東西間(縦)で10m弱の高野堤(ため池)があります。ここで、大人(三菱造船所の技師)になってからと思われますが、この「高野堤に模型の船を作って試験していた」との話が残っています。ここからは、上野の想像ながら「模型の船で試験していた」というほどですから、かなり精巧な造りだったのではないでしょうか。 なお、東京の高等学校時代のことは、地元では全く地域伝承や資料などはありません。 三菱造船所時代などについて この項目に書いている資料や写真などについて------上野は、2006年5月24日、三菱重工・長崎造船所 史料館に行きました。この時の主目的は、今回紹介中の三菱造船所・第六代所長・浜田彪氏の資料関係の収集と、史料館内外の撮影でした。そして、「長船ニュース」(昭和59年7月2日、第287号)をコピーして頂きました。
「六代所長 浜田彪。入社後浜田と改姓。スポーツを好み、所内ボートレース大会では率先してこいだ。また同郷の友人の遺児・松本寅一(のち大村市長)の米国留学や、帰国後の理想現実に親身の援助を惜しまなかったなどエピソードから、後進への温かい人柄がうかがえる」 さらに「長船ニュース」は、浜田彪氏の三菱重工業における略歴を次の<>内の青文字のように伝えています。 <明治24年3月三菱に入社、長崎造船所の機械製図を担当。須磨丸、立神丸などの機関設計に続いて、明治28年本社から常陸丸建造について打診があった際、塩田泰介とともに『引き受け可』との報告を行ったが、これが当所飛躍の一大要因となった。 明治30年9月飽ノ浦中央発電所完成、続いて明治31年1月電気工場も新設され、浜田はその主任技士も兼任している。同年8月欧米出張、造船・造機および電気事業を視察し翌32年5月帰国した。 明治40年3月副長(副所長)心得、翌年3月機関工場支配人兼電気主任。44年3月副長、大正6年11月1日所長就任。当時、第一次大戦下の好況で当所生産は著しく伸び、従業員も1万8千人を超えた。 大正9年2月本社へ転じ常務取締役となり、大正14年12月には会長就任。昭和7年8月に辞任するまで世界的大不況のなかで当社経営に肝胆を砕いた。会長辞任後は顧問を委嘱されていたが昭和13年11月7日脳出血で急逝、享年69歳であった。 精緻な思考と強い信念の凛呼たる人ながら、後進には温かい高潔な人格者であった」>
<写真の補足説明> この長崎造船所 史料館には、歴代所長の写真が、(右側写真の通り)ずらっと掲示されています。その中に、「六代所長 浜田彪」との名前で、写真が飾られています。なお、ご参考までに、この史料館の写真は、このページ最上部右側の写真と、全く同じものです。 それは、なぜか? 元々、この浜田彪氏の写真は、大村市皆同町の松本家にあったものです。先の「歴代所長」写真を史料館に飾ろうとされたところ、長崎市内は原爆に遭っていたため、浜田彪氏の写真が、同市内にはなかったそうです。 それで、三菱重工の方々が、歴代所長の写真を探されたそうです。そして、こ浜田彪氏に、大変お世話になっていた関係上、松本寅一氏(大村市長)の家にあったということです。そして、この写真を数枚、複写・拡大して先の史料館始め浜田氏の生誕地である野田町公民館、(育英資金をたくさん提供を受けた生徒のいた)福重小学校(校長室)などに額縁・説明文付きで飾られているものです。 大村や福重の学生に多大な貢献(育英資金)、長崎県立図書館の史料(蔵書)などに尽力 浜田彪氏は、三菱長崎造船所の最高経営責任者であったばかりではなく、長崎県を始め当時の福重村及び大村出身の東京の学生への育英資金、あるいは地域に多大な貢献をしておられます。現在、資料や本などで分かっている範囲内で次に書きます。
(2) 1929(昭和4)年、福重村の若い学生のため、「育英資金」=奨学資金1万円を寄付されています。この当時、この村では、家の建設費用が、建坪約40で300円から400円で出来たと言われています。この奨学資金1万円は、単純計算ながら家30戸以上に相当する大きな金額でした。このような業績を讃えるため、大村市立福重小学校・校長室には、浜田彪氏の写真が飾られています。 ・地元への貢献も大きい (3) また、上記の奨学資金とは別に、同郷(当時の福重村)の松本寅一氏(後の大村市長)へは、アメリカ留学費用や生活費、帰国後の『国際フレンド会館』(インターナショナルハウス)の建設費用(1933年=昭和8年10月15日完成)などにも寄付されています。さらに、同郷(旧・大村藩内)出身で東京の高校や大学に進んだ学生に対して、他の方と共同で育英会を設立し、援助もされていました。 このような浜田さんの奨学資金、育英会活動を讃えて、大村市史などに「大村の偉人」として、紹介されています。また、旧・大村市立歴史資料館があった頃には、「大村出身の偉人展」などがあれば浜田彪氏は、写真と業績が展示されていました。 (4) 出身地の野田郷(現在の大村市野田町)へは、1930(昭和5)年、『野田農事改良実行組合』設立援助のために750円を、さらに1933(昭和8)年には、野田郷青年団へ100円を寄付されています。この資金をもとに青年団は、当時まだ珍しかった楽器の購入資金にあてられ、そして、当時の「野田楽隊」、つまり約10人編成のブラスバンドが結成されました。 その後、「野田楽隊(ブラスバンド)」は、当地にある赤似田堤(福重地域最大の溜池)の落成式、大村市内での各種行事、野岳湖での運動会や福重地区の敬老会などで演奏されました。 また、現在、出身地の大村市野田町にある野田公民館には、浜田氏の業績を讃えて新聞紙半分位の大きい写真と略歴が掲げてあります。 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・参考資料:「参考書籍・資料一覧表ページ」 、 「新編 大村市史」 ・関係ページ:大村市立史料館・企画展 大村人グレート (掲載日:2018年11月19日、第二次掲載日:2022年1月18日、第三次掲載日:2月26日、第四次掲載日:2月27日、第五次掲載日:3月4日、第六次掲載日:3月6日) |
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