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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 古田山疱瘡所跡

(史跡説明板)古田山疱瘡所(ほうそうしょ)
 名称:古田山疱瘡所(ほうそうしょ)  様式:説明板
 場所:東大村二丁目  設置者:大村市教育委員会
 設置年:1997年3月(平成9年3月)  GPS実測値:32度55分16.00秒 129度59分32.22秒
 全体の大きさ:高さ135cm、横幅102cm  (国土地理院)地図検索用ページ地図は、こちらから。
 本体の大きさ:高さ70cm、横幅90cm  グーグルアース用数値:32°55'16.00"N,129°59'32.22"E
(写真1) 古田山疱瘡所跡の史跡説明板中央部右側から標柱史跡説明板、句碑か?
・関係ページ:「長与専斎の旧宅」 「長与専斎先生の銅像

<用語解説>疱瘡(ほうそう)とは、(とうそう)の異称である。痘瘡(とうそう)とは、「痘瘡ウイルスの感染によって起こる悪性の伝染病。高熱と全身に小水疱 (すいほう) とが出て死亡することが多く、治ってもあばたが残る。感染症予防法の1類感染症、検疫法の検疫感染症の一。WHO(世界保健機関)の種痘の励行によって1980年地球上から消滅。天然痘。疱瘡 (ほうそう) 。」(デジタル大辞泉の解説より)

史跡説明板写真周辺の説明
  この項目、まずは下記看板が見えている4枚写真を参照願いたい。右列が大村市街地から市道で登った場合、最初に見えてくる看板(上部)と三叉路(下部)の写真。右列がさらに登った所にある看板と三叉路である。いずれも市道の脇に看板あるので分かりやすい。ただし、市道から入った小道は狭く、見学に行く場合なら軽自動車か、バイクが良いと思える。
 下記列は市道から一つ目の看板と三叉路  下記列は市道から二つ目の看板と三叉路
() 市道から疱瘡所跡まで600mの看板がある三叉路  市道から疱瘡所跡まで250mの看板がある三叉路
中央部が古田山疱瘡所跡の標柱、その左側が史跡説明板

古田山疱瘡所跡の史跡説明板の一部分=当時の敷地の取り図
(右側の現在地説明板のある場所)

 この古田疱瘡所跡へ、車で行くならば、大村市街地、長崎医療センター周辺から県営バス「横山頭(よこやまがしら)行き路線の場合、高速道路の陸橋を渡り、しばらくすると、右手(南側)に烏帽子池(えぼしいけ)バス停と、烏帽子池が見えて来る。

 そのバス停から約250m進むと、今度は左側に大村市上下水道局徳泉川内配水池(目測で直径20数メートルもある大きな水タンク)があり、そこから約50m先に上記左列看板が見える三叉路がある。ここから左側方向が一つ目の入口で、あとはコンクリート舗装の小道を道なり進むと、約600mで目的地に着く

 二つの目入口は、先の入口よりさらに市道を約460m登ると、上記右列看板のある三叉路があり、左側方向へのコンクリートとアスファルト舗装の小道約250m走行すると案内標柱や史跡説明板が見えて来る。

 現地の周囲は、中山間地ながら開けた土地で下流側へ、田畑が続き、近くには民家、小規模の溜池(ためいけ)もある。江戸時代頃の疱瘡所の敷地建物などは、説明板に表示されている見取り図を参照願いたい。

史跡説明板の内容
  (写真1)の中央部にあるのが、古田疱瘡所跡史跡説毎板である。これには、疱瘡・疱瘡所跡などについて、かなり詳しく書いてある。また、江戸時代後期当時の疱瘡所の見取り図も上記の右側写真=古田山疱瘡所跡の史跡説明板の一部分=当時の敷地の取り図の通り、分かりやすく掲示されている。

 下記の古田疱瘡所跡史跡説毎板には、下記< >内の青色文章が書いてある。なお、先の写真をご覧の通り、原文は縦書きだが、ホームページ用に横書きに直している。

古田山疱瘡所跡の史跡説明板

 また、原文は、そのまま生かしたいが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もある。そのようなことと、私の転記ミスもあるので、もしも、引用される方は、必ず実物の説明板からお願いしたい。

 <
 
市指定史跡 古田山疱瘡所跡
 江戸時代後期、文政のころ日本に疱瘡(天然痘)が流行し、大村藩でも その対策に悩まされていました。疱瘡とは顔などに発疹が出て高熱を引き起こす病気の一つでした。
 大村藩では、従来、疱瘡の患者が出ると「山揚げ」といって人里離れた小屋に隔離し、食料を与えて養生させる方法をとってきました。また、発疹がでた場所の家族などは、その場所から動くことを禁じるなど他へ病気が伝染しないようにしてきました。

 藩医長与俊辰は、文政十二年(一八三〇)藩命により痘家(種痘をおこなう医者)となり、これまで患者の収容所と自分の研究所のあったこの古田山に種痘の施術所、病舎などを建て、日夜疱瘡の根絶に苦心しました。

 俊辰は、これまで行われてきた余病併発など、危険性の多い人痘鼻種法を安全性の高い腕種法に改め、さらに嘉永ニ年(一八四九)、長崎に来日していたオランダ商館長モトケより牛痘を手に入れ、牛痘接種による疱瘡の予防に成功した。

 現在、疱瘡所の跡は残っていません。俊辰の墓は、長崎街道沿いの玖島の吹上墓地にあります。俊辰の孫は、近代医療制度の基礎を築いた長与専斎がいます。

平成九年三月
大村市教育委員会  >


 補足

 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)

・関係ページ:「長与専斎の旧宅」 「長与専斎先生の銅像

(初回掲載日:2024年10月18日、第2次掲載日:11月14日、第3次掲載日:12月7日、第4次掲載日: 月 日) 


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