はじめに 長崎県大村市は、古くは1万3000年前の旧石器時代の野岳遺跡を始め、その後の縄文・弥生・古墳、古代、中世、近代などの各史跡や遺物などが発掘されてきた歴史があります。また、大村市のキャッチフレーズの一つは、「花と歴史と技術のまち」です。そして2006年からの大村市総合計画の中には、「歴史観光立市」との表現もあり各年度ごとに「歴史観光立市推進事業」があります。 しかし、現在の大村市が実施しているのは、まるで「市役所中心主義=旧・市街地(旧・大村町)中心主義」みたいなやり方で、場所的には大村公園、武家屋敷通り、旧・楠本正隆邸など、人物的には大村純忠や天正遣欧4少年のことを何十年間も同じように繰り返しています。また、旧・市街地中心地は、主に戦国時代以降からの比較的新しい歴史や史跡しかありません。 旧・市街地(旧・大村町)よりも豊かな自然や歴史がある他の周辺部(松原・福重・竹松・萱瀬・西大村・鈴田・三浦の7地区)などは、全くなしとまでは言いませんが、大きく繰り返して取り上げられたことはありません。このことは、大村市の観光宣伝方法(ポスター、チラシ、ガイドブック、パンフレット、冊子、広報誌・ホームページ類など)を見れば良く分かります。(ただし、大村市立史料館・企画展「歴史の缶づめ」と「そこんにきヒストリー」と言う歴史パンフレットは全8地区取り上げて掲載してあります) そのようなことから県民や市民の方で、何十年間も判子で押したように同じ玖島城(大村城)の板敷櫓が背景にある大村公園の桜や花菖蒲写真が使われているのを見た人は多いと思われます。史跡・観光看板などについては、さすがに市周辺部に全くないないという訳ではありません。 しかし、例えば「全国百選の地」である歴史公園百選の大村公園には、何種類もの看板や石碑類が(中には立派な御影石で出来たものも含めて)あります。一方、(2013年3月現在で)ため池百選の野岳湖(野岳ため池)、日本の米づくり百選の野岳地区、歴史の道百選の鈴田峠などには、その説明板さえ全くないか、あっても大村市教育委員会設置のものしかない状況です。 同じように全国の方々が選んで下さった百選の地なのに、これほど大村公園と他の地域と扱いが違うものかと、驚くほどの偏重ぶりです。また、これらは代表例であって、実際に設置されている案内板や説明板の実態は、もっと極端な「市役所中心主義=旧・市街地中心主義」の偏ったやり方なのです。 しかし、この「市役所中心主義=旧・市街地中心主義」みたいなやり方を何十年間も続けた結果は、どうなったでしょうか。大村市に来て頂く観光客あるいは市民の方に対しても、「旧・市街地や大村純忠関係の人物以外、他の史跡や観光地は見なくてもよい、見るな」みたいにも思えて、”目隠し観光方式”の実態になってしまいました。 このような目隠し式の歴史観光方式では、長崎県内で陸海空・高速アクセス網が唯一そろった大村市でも観光客の方は良くて”日帰り観光”、悪ければ全くの立ち寄りさえない状態です。このことは長崎空港出口で見られるお客様の状況を見るまでもなく、「偉大な通過都市・大村」、「素通りのまち・大村」を大村市自ら作っていることと同じような状態にもなっているのです。 歴史のある所に史跡説明板 先に述べてきた通り、現行の偏ったようなやり方では、いつになっても真に豊かな歴史と自然のある大村市周辺部が取り上げられ、繰り返して語られることはないと思われます。ただ、批判めいたことばかりを書いても、なかなか改善もされないし、前に進んで行かないとも思っています。私は、もう一つの趣味のホームページである『上野ログハウス』に「住民もやるから行政も」という言葉を紹介しています。 そのようなことから、私も出来る範囲内で大村市内に数多く存在している史跡説明板、案内門柱などをホームページで紹介していこうと思いつきました。そして、このようななささやかなページであっても、今後、市や民間団体のご努力により、「歴史のある所に史跡説明板あり」となっていけば史跡巡りやウォーキングの準備や活用にも繋がっていくのではと期待もしています。 作成していく手順は、特に定まった順番はないのですが、流れとして史跡説明板の写真撮影、計測、文章の活字化・データ化、GPS測定器による緯度経度の計測などの後にホームページ掲載になります。そのようなことから、いずれにしても相当時間かかると思います。このシリーズも気長にお待ち願います。 これから掲載予定の各ページには、写真や史跡説明板の文章を中心に作成しますので、史跡そのものの詳細紹介は各ページ下段にあるリンク先から、ご覧頂く方法も考えています。様々な不足その他あるかもしれませんが、どうかよろしくお願い致します。(初回掲載日:2013年3月25日、第二次掲載日:2013年4月1日)