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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 白水寺跡

(史跡説明板)白水寺跡
 名称:白水寺跡  様式:説明板
 場所:大村市皆同町の市道脇   設置者:大村市教育委員会
 設置年:2007年3月(平成19年3月)  GPS実測値:32度57分36.59秒 129度56分55.89秒
 全体の大きさ:高さ126cm、横幅103cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ70cm、横幅90cm  グーグルアース用数値:32°57'36.59"N,129°56'55.89"E

注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差がある。グーグルアースは航空写真上に表示するため、かなりの誤差が出るが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)

白水寺跡の史跡説明板(写真中央、奥側の畑や木々のある部分が白水寺跡と言われている)

史跡説明板写真周辺の説明
 この説明板の前身(旧型の説明板)は、以前、写真右側の松本さん宅の庭先にありました。そのため、一般には松本さん宅が白水寺跡と思われている方もいました。

 しかし、(一部その周辺もありますが)実際の寺院跡は、この説明板の奥側最上部に丘や木々が見えていますが、その周辺にあったと言われています。丘陵地帯に神社仏閣のあった場所は、「見晴らし(眺望)が良い所であること」と、既に<古墳と神社仏閣の場所>ページに書いていますが、白水寺も同様だったと思われます。

 この寺院があった小高い丘の西側方面には、今富城址があります。また、白水寺のあった周辺に大手門があったとの説もあります。あと、この白水寺は大村純忠の頃、天正2(1574)年にキリシタンによる他宗教弾圧事件が起きた時、焼き討ち・破壊攻撃を受けてなくなりました。

 その時、キリシタンは大村家の墓を暴き、遺骨は近くの郡川に流したとの記録もあります。いずれも、場所は白水寺周辺と思われます。その後には、ルイス・フロイスの記録にあるサンタクルス教会が建てられた可能性があります。

 また、白水寺の僧侶の墓と言われるのが、この説明板から東側へ直線で265m行った所に石祠(一般には冷泉寺跡とも呼ばれているが実際の寺院跡は、この場所よりもっと上側にあった)があります。これは、キリシタンによる寺破壊を恨んで白水寺跡を向いて建立されたとの伝承もあります。

 あと、白水寺の正確な建立年は不明ですが、紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんみょうじえんぎ)によれば、既に平安時代に寺院名が登場していますので古代からの寺院と思われています。なお、この件については、後の項目で補足も書きます。

史跡説明板の内容
 右上側写真に写っている史跡説明板には、下記「 」内の文章が書いてあります。なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに変えています。今回の説明板には、英語での紹介文もありましたので掲載しています。また、一部、送り仮名の位置を漢字後方の( )内していますが、それ以外は原文通りです。なお、(注1)(注4)などは、上野の注釈・補足です。

「 白水寺跡
 この付近は、郡七山十坊の一つ白水寺があった場所です。郡七山十坊(注1)とは、郡川下流域(注1に中世(注2)からあった十の寺院の総称ですが、現 在では全て無くなっています。『紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)』という資料で は、久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五)の宗論に白水寺も参加したとありますが、 この資料の成立時期及び内容に疑問(注3)があり、寺の創建年代については不明です。

白水寺跡周辺にある通称”姫墓

 寺の境内には大村家第十七代(注4)大村純前(すみあき)(天文二十年一五五一没) の墓所があったと記録されています。しかし、天正(てんしょう)二年(一五七四) キリシタンによって寺とともに破壊されてしまいました。

 その跡に 江戸時代の正保(しょうほう)四年(一六四七) 家老の大村彦右衛門が観音堂を・建 て、純前を観世音として祀りまし た。文政(ぶんせい)十一年(一八二八)大風のため倒壊したので、翌十二年石祠を再建しています。西側の高台 は戦国時代大村氏の居城と伝えら れる令冨城の跡です。

  平成十九年三月 大村市教育委員会 

(注1):郡七山十坊とは、広義に解釈すれば旧・郡村=現在の郡地区(松原、福重、竹松の3地区の総称)に沢山の寺院があったということである。しかも、場所は単に「郡川下流域」だけでなく、龍福寺は佐奈河内川の中流近く、弥勒寺は石走川の源流域、唐泉寺、東光寺、延命寺など、松原・福重の多くの寺院は、小高い丘陵地帯にあった。

(注2):「中世」に仏教寺院が全て建立されたと言う従来説は、間違いであると思われる。延命寺、太郎岳大権現、東光寺、龍福寺、弥勒寺、唐泉寺などは、古記録からしても、さらに平安時代末期に経塚の上に乗っていたと言う単体仏10体の具体的存在からしても、古代から仏教寺院があったことを事実で示している。

(注3):「疑問」と書いている方が、上記(注2)より、むしろ疑問と言わざるを得ない。このように否定的に書く従来説は、間違いであると思われる。

(注4):この大村氏系図での「初代」(大村直純)自体が存在がしなかったと言われている。つまり、「大村氏系図」は「初代」から大村純忠の数代前まで江戸時代の大村藩による創作(偽装)の歴史である。(詳細は、「お殿様の偽装」ページを参照)したがって「十七代大村純前」あるいは「十八代大村純忠」などの代数表記すること自体間違いである。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確である。

英語説明文
 下記が白水寺跡の英語説明文です。この英字による紹介文は、右側一番目写真でもお分かりになる通り、向かって左下側に書いてあります。上記日本語説明文と違って簡略化されて書いてあるようですが、かえって分かりやすい内容となっているようです。和訳とか注釈などはしていませんので、上記の日本語説明文と併せて、ご覧願います。
The Site of Hakusuiji Temple
 Hakusuiji was a Buddhist temple that stood here in the Middle Ages. It used to contain the tomb of Omura Sumiaki, the 17th lord of the manor, but was completely destroyed by Christians in 1574.
 In 1647 the temple was rebuilt and Sumiaki was once again venerated. In 1828, it was blown down by typhoon, so the small stone shrine was replaced later.

補足

 先の項目にも書いていますので多くは述べませんが、この白水寺跡の丘周辺には、白水寺跡だけでなく戦国時代当時の今富城址、サンタクルス教会跡、近代になって皆同砲台などの戦争遺跡などが集中している所です。その中で2008年に今富城址で大村純忠時代の横堀(空堀)が出土した位で、この丘一帯の北側や東側には、まだまだ先に挙げた遺構や遺物が眠っているのかもしれません。

 何かの機会に発掘、出土さらには史料(資料)などが見つかれば、この白水寺跡の件で新たなことが書けるかもしれないです。今後も追加、改訂していこうと考えています。

・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『白水寺跡

(初回掲載日:2013年4月19日、第2次掲載日:4月20日、第3次掲載日:4月22日、第4次掲載日:4月24日) 


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