大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 一里塚跡(いちりづか あと) |
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右側(写真1)の場所は、JAながさき県央・三鈴支店の駐車場入り口(右側=西側)です。説明板の前の市道を挟んで、反対側(撮影者の後方側)には、鈴田郵便局があります。さらに、この郵便局の北側直ぐに、大村市立鈴田小学校があります。 また、史跡説明板から西側へ40m強の位置には、鈴田地区住民センター(大村市鈴田出張所)があります。このように、大変分かりやすい所で、しかも鈴田地区の中心地ともいえる場所に、この一里塚跡の史跡説明板は立っています。なお、昔から、この周辺は賑わっていて、そのまま現在も同じと言えるでしょう。 あと、説明板前の市道は、旧・長崎街道です。以上のようなことからも江戸時代に、この場所に一里塚が設置されていた訳が、分かるような感じがします。 ・一里塚 まず、この用語についてですが、広辞苑には、次の「」内が解説されています。一里塚(いちりづか)=「街道の両側に1里ごとに土を盛り、里程の目標とした塚。多く榎(えのき)・松を植えた」(上野注:1里=約4km) この説明板前の市道は、旧・長崎街道です。長崎街道とは、長崎と小倉の間、約230kmを言います。この間には、宿もあり、例えば現・大村市内には松原宿、大村宿があり、現・諫早市内には永昌宿(えいしょうしゅく)がありました。あと、鈴田には、休憩所として鈴田峠に籠立場(かごたてば)や古松宿休憩所などもありました。(詳細は各リンク先ページから参照願います) 上記の宿や休憩所とは別に、道標(みちしるべ、どうひょう、主に石の角柱に道案内の碑文が彫られたもの)があったり、1里=約3.9kmごとに一里塚もありました。この塚の場合、高さ約1mで直径5〜6mあった塚(盛り土)があり、その上に榎(えのき)が植わっていたと言うことです。 以上のようなことから、江戸時代、(舟に乗らず)歩いて長崎から鈴田に来る旅人は、鈴田峠の籠立場(かごたてば)や、(当時は古松権現=現・鈴田大神宮近くにあった)古松宿休憩所などを経由してきます。そして、この一里塚に着けば、「大村宿まで約一里(約4km)ではないか」と計算したと思われます。 史跡説明板の内容
< 一里塚(いちりづか)跡 |
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