(史跡説明板)矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡) |
名称:矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡) |
様式:説明板 |
場所:福重町(福重小学校の入り口前) |
設置者:福重町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2022年3月1日 |
GPS実測値:32度57分51.70秒 129度57分2.13秒 |
全体の大きさ:高さ145cm、横幅70cm |
国土地理院の地図 (国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'51.70"N,129°57'2.13"E
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中央部部b左側の白板:「矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)」の史跡説明板、この左奥側方向に福重小学校がある。
上記の説明板周や手前側周辺が「祇園寺跡」である。 <大村市福重町>(撮影:2022年4月3日) |
注1:この「矢上の祇園牛頭天王」の左奥側方向に福重小学校がある。裏側下部が市道で、右方向に500m近く登って行くと妙宣寺がある。
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(写真2) 「社の由来」(由緒書き) |
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(写真3 左側方に福重小学校や福重幼稚園がある。
中央部は市道、右側上部が「矢上の祇園牛頭天王」 |
史跡説明板写真周辺の説明
まず、ご参考までに、なぜ、現在、福重町にあるのに、今回「矢上(やがみ)」という名称を使っているのかについて書きます。それは、主に、二つの理由があります。
一つ目に福重地区10町の町名町界の変更があるまで郷名(町名)は、この町は「矢上郷」で、その後、現在の福重町に変わりました。 二つ目に、この権現を紹介している江戸時代の大村藩編纂の郷村記(大村郷村記)には、矢上郷の項目として記述してあるからです。
次に、(写真1)を説明します。中央部の左側の白板が、矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)の史跡説明板です。そして、その奥の拝殿が地元では、「祇園様」と呼ばれている矢上の祇園牛頭天王です。あと、(写真1)では、やや見にくいですが、拝殿の入口上部に、「社の由来」(由緒書きのこと)があります。これを拡大したのが(写真2)ですが、今回の史跡説明板や、このページにも引用・参照して内容を書きました。。
また、(写真1)の鳥居の右端方向下側に市道からの脇道があります。その道から階段を登れば、この鳥居の前に着きます。
(写真3を参照) この写真は、福重小学校に入る道路の手前から右側上部にある(地元通称で「祇園様」の社殿を写したものです。中央部は、市道で左側(北側)方向に福重小学校や福重幼稚園があります。また、この道路を右側(北東)方向へ300m行きますと、妙宣寺があります。つまり、福重小学校や妙宣寺の行き帰りに、もしも、この祇園様に立寄りや、参詣されるならば大変便利な所にあります。
史跡説明板の内容
このページ(写真1)の左側に写っています矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
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(写真4) 矢上の祇園牛頭天王(祇園寺跡)の史跡説明板内容
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<矢上の祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)(祇園寺跡)
この祇園牛頭天王は地元で「祇園様」とも呼ばれてきた。神体は木坐像である。郷村記には「当社は元、祇園寺の土地だった。天正年間に耶蘇(キリシタン)信
者の破壊に遭い、その後、地主(富永氏)が神社を建立し享保七年(一七二二)九月十三日に再興(再建)」とある。それ以降、同氏の家系や氏子が当社を守り、また改築を明治時代中期前まで続けた。
拝殿に掲示してある「社の由来」によると、明治二六年(一八九三)十二月に当社は武蔵野氏に土地所有が変わった。
昭和四三年(一九六八)十月、老朽化のため萱葺きから木造瓦ぶき屋根に改築した。また、平成三年(一九九一)九月の台風被害により神殿拝殿ともに倒壊したため翌年(一九九二)七月に大工棟梁の冨永清巳氏や氏子が神殿拝殿ともに改築、寄進し、さらには敷地内の整備をおこなったとある。このような経過から、現在も武蔵野氏や氏子が大事に祀っておられる。
二〇ニニ年三月一日
福重町内会・福重地区活性化委員会 >
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補足
(この原稿は、準備中。しばらく、待って下さい)
・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『
矢上の祇園牛頭天王』
(初回掲載日:2022年5月3日、第二次掲載日:6月18日、、第三次掲載日:6月20日、、第四次掲載日: 月 日、、第五次掲載日: 月 日、)