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福重の写真集 その285

2014年、 福重小学校の稲刈り体験 (概要報告)

日時:2014年10月30日08時30分〜10時30分
場所:大村市皆同町、石走川左岸横の田んぼ
参加:
全体で65名、(大村市立福重小学校の先生7名、5年生の生徒さん51名、指導担当者や保護者7名) <あと福重幼稚園の先生2名と園児26名が見学>
指導:福重町の清水さん、沖田町の沖田さん

主な内容:まず、指導された清水さんは、田植えから精米まで稲作(コメについての)全般な話をされました。そして、現在の農家ではコンバインなどの機械で稲刈りがおこなわれていること、コメの乾燥は自然乾燥の架け干し(かけぼし)もあるが、機械によることも多いなどの話もありました。

  作業の流れとして、稲刈り、稲を束ねる、稲を運ぶ、最後に架け干し作業があることを説明されました。その中で、農作業に使う例えば稲を束ねる稲藁(いなわら)など全てリサイクルできるものであり、無駄な物は何もないことも教えておられました。今日は、鋸鎌(のこがま、鎌の刃がノコギリ状である)で稲を刈るので怪我(けが)をしないようにとの注意もありました。

稲刈りスタート
稲刈りラストスパート(後方には福重幼稚園の園児が見学。最後方の山=郡岳も見守っていた)
架け干し作業

稲刈りや架け干し作業
  清水さんの話や注意があった後に、さっそく田んぼに生徒さんは入り、先に刈り取られたモチゴメを架け干しの所までリーレー作業のように声掛け合い手渡していました。その後、稲刈り担当と、道路で稲を束ねる担当に大きく二組に分かれての作業が始まりました。

  最初、慣れないためか、ゆっくりペースでしたが後半になると福重幼稚園の園児たちから「おにいちゃん、おねえちゃん、がんばって!」との可愛い声援も受けて急ピッチで進みました。自分たちで刈り取り、束ねた稲を架け干しして、ほぼ終了しました。あと、自然乾燥させて、いずれ脱穀(だっこく)、精米(せいまい)し、福重小学校で餅つき(もちつき、今年は12月23日)して食べられるとの話もありました。

  終了時、熱心に指導された清水さん・沖田さん、保護者・地域の方々へのお礼の言葉と、お疲れ様でしたの会話がありました。

稲刈りは校歌(歌詞)の実体験であり、郷土愛も生まれる
 
稲刈りが始まる前に校長先生から上野は、今回のことについて、お話を聞きしました。その概要は、「人を通じて学ぶことは大事で今回、指導して下さる清水さんの話や実作業をすることによって多くのことを生徒は勉強することになるだろう」、

福重小の校歌の一節にも『みどりの田畑うるおして 清水ゆたかな郡川 野岳のつつみ このめぐみ きずいた人に学ぼうと』がある。その歌詞の実体験である」、「このような実体験を通じて郷土愛も生まれると思う」と話して頂きました。

  私は、先の先生のお話を聞きますと、『若草物語』の著者で有名なアメリカのオルコット女史の言葉= 「田舎で生まれて田舎で育ったということは、教育の最良の部分だと思う」を思い出します。

 この言葉の意味は、上野の勝手な解釈ながら、「自然いっぱい、地域の人柄が穏やかで、そんな環境で伸びのびと育った子どもたちは心優しい豊かな人に育つという意味」と思われます。

 教室での授業も当然大事ですが、今回のように小学校近くで稲刈りができることなど、市街地にある学校では無理なことでしょう。また、農家の子どもたちでなければ、もしかしたら一生涯に二度と体験したくてもできない作業だったかもしれません。

  福重小学校のように田植え(今年は6月30日に実施)から、稲刈り(10月30日)、さらに餅つき(12月23日)まで実体験できるのは、教科書で農業を習う何十倍もの意味ある授業だったかもしれません。

古写真に見る福重小・運動場横の田んぼ:ご参考までに、福重小学校の田植えや稲刈り授業は、長年続いているものです。私の推測ながら、たぶんに戦後間もない頃からあったと思われます。なぜなら、現在地の運動場南側(九州電通側)には、長方形の田んぼがありました。

 この田んぼは、(福重小学校の古写真紹介ページの「3)1956(昭和31)年頃の木造校舎写真」、「4)1964(昭和39)年の新校舎写真」の運動場の直ぐ下側=南側に写っている2枚の田んぼです。(ただし、現在は田んぼはなく、運動場に変わったと思われる) <左側の古写真、運動場下側2枚の田んぼ>

 上野自身も50数年前、福重小学校に通っていた頃、この田んぼで田植えや稲刈り授業を受けました。そして、新米を学校給食で食べたり、あるいは餅をついて全校生徒で食べた経験があります。

 私の記憶あいまいながら、もしかしたら、この田んぼでの田植えや稲刈りなどは毎年のように高学年もしくは全校生徒でしたくらいに大勢でおこなっていました。

 当時の学校給食は、現在のような給食センターで作り配達する方式ではなく、自校給食方式(学校の調理場で作り提供するやり方)でした。そのためのコメも相当分を充当するために、もしかしたら、この運動場横の田んぼでとれたコメは、その給食用にも使われていたのかもしれません。

  その後、田んぼがなくなり、いったん稲刈り体験授業は途絶えたようですが、また地域の方々のご協力やご指導によって、続けられてきました。

・戦前の福重小学校生徒による稲刈り写真ページ:『1941年(福重村写真集)銃後の郷土 国民学校児童による寿古郷での勤労奉仕

・米(コメ)に関係する私のページ:『瑞穂の国



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