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1941年(福重村写真集)銃後の郷土

国民学校児童による寿古郷での勤労奉仕


国民学校児童による寿古郷での勤労奉仕

<補足説明>
(1)写真左側には、國民學校児童ノ寿古部落ニ於ケル勤労奉仕ノ實況の文字があります。大変長い写真タイトルのため、ページ表題には上記の通り、国民学校児童による寿古郷での勤労奉仕と変えています。この当時、小学校は、国民学校(注1)と呼ばれていました。寿古部落は、寿古郷(町)の別の言い方でした。實況(実況)とは、「実際の状況」という意味です。今なら、「勤労奉仕の状況」みたいな書き方になるでしょう。

(注1):国民学校=昭和16年(1941)公布の国民学校令により従来の小学校を改めて成立した、皇国民の基礎的練成を目的とする初等教育機関。昭和22年(1947)まで存続。(国語辞典の大辞泉より)

(2)撮影場所について、寿古郷(町)であることは、写真タイトル通りですから分かっていました。しかし、広い面積を有する町ですから、具体的にどこの田んぼなどかは、様々な説がありました。しかし、写真中央部左側付近に、こんもりとした木立があります。ここは戦国時代にキリシタンから殺害された峯阿乗の墓がある大日堂の所と思われます。(当然、現在もあります)つまり、民家の多い好武の集落から大村湾岸方向(西側)へ、少し歩いて行った田んぼの中での撮影と推測されます。

(3)この写真内に写っておられる人数は判読しにくいのですが、大人7人位、児童が男女合わせて20人位のようです。男子児童の中には、上半身が裸姿もおられるようなので、たぶんに10月頃のやや暖かった日だったのかもしれません。

(4)秋の稲刈り時におこなわれていた勤労奉仕の状況は、既に立福寺男女青年ノ勤労奉仕ページにも掲載中です。今みたいにコンバインなどの機械がない時代ですから、稲刈り、掛け干しなどは、全て手作業で手間暇かかる作業でした。しかも、取り入れは、一機集中しておこなわなければならないものでした。上記写真のように大勢の小学生が手伝ってくれることは、農家の大人にとって肉体的にも精神的に大助かりで、嬉しいことだったと思われます。

 (初回掲載日:2013年10月19日、第2次掲載日:2013年10月21日)


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