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1941年(福重村写真集)銃後の郷土

大神宮の秋季例祭の相撲選手


大神宮の秋季例祭の相撲選手

<補足説明>
(1)写真左側には、村社太神宮秋季例ニ於ケル奉納角力選手の文字があります。下記の国語辞典の大辞泉を引用して、口語訳しますと、「村社(注1)である大神宮での秋季例祭においての奉納相撲<角力 (注2)>選手(達の写真)」となるでしょう。

(注1):村社=旧制度の社格の一。郷社(ごうしゃ)の下、無格社の上。多くは村の鎮守の社などが列格され、社掌(しゃしょう)が置かれていた。
(注2):角力=力を比べること。 相撲。


(2)撮影場所は、写真左側の標題通り今富郷(町)にある大神宮の土俵内で、後方に写っているのは、拝殿です。また、通常の状態と違って、拝殿まわりには、しめ縄や旗など例祭用の飾り付けもしてあります。

(3)写真の標題に用いられている太神宮の漢字は、江戸時代や戦前までは、先の文字通り「太」でしたが、戦後しばらくして日常一般には「」を使うようになり、現在では大神宮が、通常使われていますので、このページの標題や名称なども、これで統一しています。ただし、現存する鳥居の額束(銘板)には、「太神宮」と彫ってあります。

(4)写真には、13人が写っておられます。その内5人が廻し(まわし)を締めた裸姿で、(中列の)4人が国民服、最後列の背広・ネクタイ姿が4人です。この最後列は、福重国民学校(小学校)福重村役場産業組合(農協)の方々のようです。

 その訳は、掲載中の各職員の集合写真に似た方が写っておられるからです。あと、この背広・ネクタイ姿の方々は、この時には相撲の行司や勝負審判の役割だったと推測しています。なぜなら、観客は大勢だったかもしれませんが、この方々だけ相撲出場選手と記念写真に納まっておられるからです。

(5)現在の大神宮と比較して、土俵、本殿、拝殿周囲の石垣さらには境内の樹木なども、ほとんど同位置で変わっていません。当然、拝殿自体は、後年になって建てかえられました。あと、この写真では、屋根瓦が近年では施工例の少ない漆喰(しっくい)を一部用いて伏せられているようで、その部分だけ白色に見えています。このような漆喰屋根は、強風・防水対策や瓦自体の耐久効果などの目的と思われます。

 (初回掲載日:2013年10月23日、第2次掲載日:2013年10月24日)


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