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写真・報告 その538
2021年11月28日、第8回 空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会 大村集会(概要報告)
(写真1)  研究発表中 (場所:プラッと大村・大会議室、以下同様) 
第8回空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会 大村集会(概要報告)
日時:2021年11月28日
13時10分~19時40分(ただし、休憩時間も含む)
場所:
プラっと大村(4階、大会議室)
参加:
(主催者発表)40名
 注1:この発表会は、途中休憩時間も含めて6時間半だった。また、いずれ発表内容は、後日まとめられるとのこと。そのため、下記内容は項目程度と、上野の感想などしか書いていない点は、ご了承願いたい。
 注2:掲載写真は順不同で、整理番号には何の意味もない。

主な内容(概要のみ)
 
まず、主催者による開会挨拶歓迎の挨拶(大村資料館館長)などがあった。それに続いて、下記の項目の研究発表があった。

第1・2部九州・山口地区からの研究・事例発表
(1) 大村市歴史資料館
 「大村市での近現代資料調査について ー在郷軍人会の痕跡ー」

(2) 東京都三鷹市・個人
 「米海兵隊がフイルムに残した戦後大村の風景-第21海軍航空廠と大村飛行場-」

(写真2)」  研究発表中
(3) 佐世保市文化財課
 「佐世保海軍警備隊大村地区高射砲台の概要」

(4) 空襲・戦災を記録する会全国連絡会議
 「1944年10月25日の大村空襲-米軍の作戦任務報告書より」

(5) 長崎県松浦市、個人
 「日米資料で見る1944年10月25日大村空襲について」

(6) 豊の国宇佐市塾
 「米艦上機による1945年3月と5月の大村空襲」

(7) かごしまの戦跡を探る会
 「甑島手打の陸軍電波警戒機施設について」

(8) 宗像市教育委員会
 「防空壕の考古資料」

(9 くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク
 「海軍艦上攻撃機「流星」風防と三陽航機株式会社」

(11) 福岡市中央区・個人
 「山家地下壕の再検討① その建設過程」

第3部テーマ別討議 「大村空襲」
 第3部のテーマは、地元の「大村空襲」についてだった。第1、2部で研究報告・講話された講師陣が、さらに「大村空襲」に絞った形で具体的に話された。また、質疑応答も活発に交わされた。その見聞きした内容は、上野にとって多くが初めての事柄ばかりだった。

(写真3) 研究発表中
 先の通り、その全てが貴重な内容だったにも関わらず、私の文章作成能力では、その概要さえも書き切れない。そのようなことから特徴的なことのみを、ほんの少しだけ、次の箇条書き風で紹介したい。なお、内容を分かりやすくするために、下記項目は発言通りではなく、趣旨を変えない範囲内あるいは第1・2部の報告内容も含めて、まとめなおした。

 また、かなり私の方で補足もしている。念のため、下記項目は順不同で、整理番号には何の意味もない。(太文字は、上野が付けた)

(1) アメリカ軍は、なぜ日本空襲の初期の頃、B29機(編隊)で大村を空襲したのか? それは当初、中国の成都から飛んできたので、B29機の航続距離の関係上、九州北部地域までが爆弾投下できるギリギリの範囲内だったためだ。そのようことから、第21航空廠(航空機製造工場)や飛行場などに空襲があった。
(注:大村大空襲は1944年10月25日)

(2) サイパン島などで日本軍が玉砕した後、マリアナ諸島(グアム、サイパン、テニアンなど)の飛行場整備が整った。そして、B29機の航続距離からして今度は、日本全域に爆弾・焼夷弾投下が可能となり、1944年11月頃から、空襲が激しくなり、全国各地で空襲被害があり、広島・長崎の原爆、終戦まで空襲は続いた。。

(3)大村空襲の回数、日時、爆弾の種類や使用量、どの部隊が、どのように攻撃したかまで、現在はアメリカ軍のレポートを見れば、この資料の通り分かる。 (上野注:配布されていた大村空襲の回数資料などは、従来説を変えざるを得ないほど正確で詳しい資料であった)

(4) この大村空襲戦争遺跡の資料は、現在、「国立国会図書館デジタルコレクション」や「アジア歴史資料センター」のホームページから閲覧できるので活用願う。 (上野注:先のリンク先から検索すれば、アメリカ軍の空襲レポートなどは閲覧できる。ただし、当然、全て英語表記である)
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 (写真4) 米国戦略爆撃団調査報告書 
<上野からの発言(概要)
 注:下記の内容は、地元の一人として発言した概要である。念のため、下記内容は、発言通りではなく、趣旨を変えない範囲内で分かりやすくするために補足も含めて、まとめ直したものである。

21航空廠は「東洋一の航空機製造工場だった」とか「工員数は5万人もいた」という表現は、一次資料からして大間違いである
 まず、貴重なお話をして下さった皆様に感謝したい。私は、20年前から日刊で更新中の『福重ホームページ』を作成している者である。このホームページ内に『大村の空襲、戦争遺跡、記録など(もくじ)』の特設ページがある。この「もくじページ」から閲覧して頂くと、私達が調べた範囲内の空襲や戦争遺跡について、順次掲載中である。

 書籍類も昨年2020年7月に冊子「大村空襲の犠牲者数と火災戸数、今年2021年8月に冊子「竹松地区の空襲を発行した。特に、「竹松地区の空襲」冊子に掲載している大村海軍航空隊の空襲写真は、これまでアメリカ、ワシントンの公文書館に眠っていたもので、「それが日本の国立国会図書館デジタルコレクションでも見れる」と教えて頂いたので、本冊子で初公開した。

 あと、現在、
(第21航空廠のことが書いてある)米国戦略爆撃団調査報告書を2016年から翻訳中である。この報告書は、全体の1/3を2016年10月に公開し展示した。ただし、その後、翻訳担当の兄が死亡とか、予算化が難しかったので、まだ完成していない。できれば、終戦80周年の年までには翻訳を完了して発行できないか、思案中である。

 なお、上記の21航空廠の報告書や資料は、1945年当時、まだ21航空廠として存在していた時のものである。つまり、一次資料である。これらの数字からして、現在、大村市の設置した史跡説明板2基、市発行の書籍や市ホームページ類には、大きな間違い記述がある。それは、主に次の2点である。
(写真5)  第21航空廠の本部
(出典:「放虎原は語る」(1999年3月31日、大村市発行、
編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)の
270ページ掲載写真より複写した。

(A) :「東洋一の航空機製造工場」の表現は、大きな間違いである。正しくは、日本で10数番目の工場でしかなかった。当時の中島飛行機や三菱重工航空機製造などより、二桁も製造機数は少ない
(補足:念のため、敷地面積は航空機製造工場の順位を決める根拠では全くないが、その広さでも先の両社より圧倒的に21航空廠は狭かった)

(B) :「工員数5万人」表現も大きな間違いであり、正しくは日米の一次資料で27,725人
(約3万人でも正しい)である。(注:この件は展示もしたので、2016年10月27日付け長崎新聞にも掲載。大村ケーブルテレビでも同時期に放送された)

 •あと敷地面積も、一次資料と違っているようで、再検証が必要な事柄である。

 以上の通り、大村市設置・作成の事項は、大間違いながらも新聞やテレビが繰り返し報道している。さらに、空襲や戦争遺跡を調べている小中学生などへ教えられている内容である。このようなことから、私は、5年ほど前から間違いを直すように市に申し入れているが、今なお改訂されていない。皆様も間違った内容を書かないように願いたい。皆様、今後とも、どうか大村の空襲や戦争遺跡について、教えて下さるようお願いしたい。

<上野の感想>



  (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)






関係ページ:<大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など(もくじ)>特設ページ
福重空襲

・冊子関係ページ:<(2020年7月15日発行)大村空襲の犠牲者数と火災戸数> <(2021年8月8日発行)<大村の空襲シリーズ>竹松地区の空襲

・展示関係:「米国戦略爆撃団調査報告書

(初回掲載日:2021年11月29日、第二次掲載日:2022年1月3日、第三次掲載日:1月14日、第四次掲載日: 月 日))


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