福重の名所旧跡や地形
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段(壇)の熊野大権現(今富町)
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段(壇)の熊野大権現(だんのくまのだいごんげん) | 場所:長崎県大村市 今富町 |
はじめに、呼称について書いておきます。旧字に「段」があり現在も使用されていますが、(大村)郷村記には「壇」と書かれています。 その関係上、『段(壇)の熊野大権現』を説明する場合、この表記で統一致しました。なお、この「壇」=「段」について、江戸時代の大村藩の文書には「だん」と、ひらがな表記もあります。 (左写真は、壇の熊野大権現) 下記に大村郷村記と国語辞典を引用しながら、段(壇)の熊野大権現を紹介します。 |
「権現」とは、国語辞典の大辞泉によると、< 1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。 2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。 >と、書いてあります。熊野権現は、熊野三山に祀られる神です。 下記に大村郷村記を引用しながら、この段(壇)の熊野大権現について、紹介します。下記の「 」内が、その文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています) 「 壇 一 熊野大権現 本地釈迦如来鏡形ニ鋳付 例祭九月十二日 宝円寺勧請 郷中之祭 石祠 拝殿 弐間梁三 萱宇 石鳥居 壱基 境内入弐拾五間横拾三間程 当社神殿は多羅山法印寛盛権現へ上りたる饗銭を集め置 正保年中建立す 延宝六戊午年二月再建 供養 導師多羅山阿閣梨権大僧都法印尊順 神殿元萱宇なりしを文化八辛未年閏三月石祠に建立 」 上記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。
ご神体は鏡の形をした釈迦如来(しゃかにょらい)である。例祭は9月12日で宝円寺で執り行い郷中で祭っている。石祠がある。拝殿は奥行3.6m、横5.4mで、萱(かや)ぶきである。石の鳥居が一基ある。 境内は入口から45m、横幅23.4mメートルほどある。当社(熊野大権現)の神殿は、多羅山法印寛盛権現へお参りする時のお金などを集めおいて、正保(しょうほ)の年代(1644年から1647年)に建立し供養された。延宝六戊午年(ぼご、つちのえうま)(1678年)2月に再建された。 多羅山のお坊さん阿閣梨権大僧都法印尊順が、神殿がもと萱(かや)ぶきだったので文化8年(かのとひつじ)うるう(1811年)の3月に石祠を建立した。 > 私は道路(市道)から歩いて少し登った感じで、段(壇)の熊野大権現に行きました。ここの境内は道路から離れていて、しかも周りが木立に囲まれた所なので静かな雰囲気でした。やや細長い境内で、一番奥の方に上記写真の石祠があります。上記の郷村記が書かれた江戸時代やその後も奥行3.6m、横5.4mの拝殿があったようです。現在は、その替わりにお供えしたり拝んだりする瓦屋根の建物があります。 境内にある馬頭観音と大日如来 この熊野権現の鳥居の西側に大きい自然石があります。この石の上に「段の馬頭観音」と、「段の大日如来」が鎮座しています。詳細は、先のリンク先ページからご覧頂くこととして、下記に概要紹介します。
この段の馬頭観音の建立年は明治17(1884)年10月です。近代に建立された馬頭観音としては、古い方です。建立者は福重村段郷(町)です。本体の大きさは高さ58cm、横幅33cm、胴囲86cmです。姿形は、三面六臂(さんめんろっぴ)の立像です。。このような立像形式は、馬頭観音が約10体現存する福重地区内では珍しい造りです。 他の馬頭観音と比べたら左右の袖(そで)部分が広く、これも大きな特徴といえます。それに頭部、面(顔)、袖、足、蓮華座などがけっこう明確に分かりやすい形状でもあります。あと土台が石像本体の大きさに比べて、かなり大きいです。 ・段の大日如来 この段の大日如来は、仏像形式ではなく文字塔です。建立年は昭和23(1948)年1月19日で、建立者は段の郷民(町民)です。本体の大きさは、高さ61cm、横幅34cm、胴囲90cmです。 碑文は、表面には「大日如来」の大文字で彫られていて、裏面には「建立年」などの中文字です。両面の碑文とも鮮明に視認できます。この段の大日如来は、福重地区内ならば「草場の大日如来(文字塔)」に造りが、似ています。 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 関係ページ:「段の馬頭観音」 「段の大日如来」 (初回掲載日:2007年10月31日、第二次掲載日:2021年1月7日、第三次掲載日:1月22日) |