福重の名所旧跡や地形
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平四郎堰(へいしろう せき))=平四郎井手(へいしろう いで<郡川にある堰=渕、井手の一つ> |
(写真1) 中央部:平四郎堰(へいしろう せき)=平四郎井手(へいしろう いで) 場所:長崎県大村市 寿古町(郡川) (郡川の河口から上流側へ約800m) 右奥:郡岳、左奥:武留路山 |
(写真2) 中央部が平四郎堰(長さ33.50m)、現在は可動堰 | (写真3) 上流部から写した平四郎堰、右側に取水口などあり | ||
概要紹介
なお、用水路の取水口は、郡川の右岸側=(写真1)では左側にあり、そこから写真左側方向に用水路が寿古町の田畑側に流れています。この場所は郡川の河口からならば約800mで、上流側に架かっている国道34号線の福重橋(通称:郡橋)からは下流へ約500m行った寿古町側に取水口はあります。 |
平四郎井手の紹介 今回紹介中の(現在呼称で)平四郎堰(へいしろう せき)は、先にも書いた通り、江戸時代に大村藩が編纂した(大村)郷村記に記述されています。現在、一般には活字版の「大村郷村記 第二巻」(藤野保 編)「福重村」100ページに下記内容が書いてあります。
一 平四郎井手 川横拾六間 懸田四町六畝廿四歩半 内三町三段八畝廿七歩半 蔵入 同六段七畝廿七歩 私領 ・現代語訳 上記「(大村郷村記」を現代語訳にしますと、次の青文字の通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように普通文字、太文字や改行など変えています。 ( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。 一つ 平四郎井手(用水路) 川横(川幅=井堰の長さ)は約29m 懸田(耕作地=水田面積)は約40,346平方メートル その内、約33,612平方メートルは蔵入(直轄地)<注:下記用語解説参照> その内、約6,734平方メートルは私領(武士などの個人所有地) <注:下記用語解説参照>
・上記の場合の「蔵入」とは、(この耕作地は)「大村藩の直轄地」と思われる。 ・上記の場合の「私領」とは、(この耕作地は)「大村藩の武士などの個人所有地」と思われる。 補注:「川横(川幅=井堰の長さ)」の「拾六間=約29m」について---(写真5参照)現在、二つの可動堰の長さ合計はは67mなので2倍以上の差がある。この差は現在と、江戸時代当時の計測差もあると思われる。しかし、それよりも近代になって左右の護岸(堤防)の整備(工事)によって川幅も井堰も大幅に広がったとも思われる。 補足 ・関係ページ:「郡川」 「本庄渕(本城渕ほんじょう ふち)=本城堰(ほんじょう せき)」 (初回掲載日:2021年6月8日、第2次掲載日:6月16日、第3次掲載日:6月21日、第4次掲載日:6月24日、第4次掲載日: 8月19日) |