大村の自然(山、川、滝、巨岩、石、洞窟、島、景観、その他)シリーズ | 経ヶ岳(きょうがだけ) |
経ヶ岳(きょうがだけ) | |||||||||||||
経ヶ岳(きょうがだけ、1076m) 山頂付近は大きな岩場。<2012年5月6日、大村市黒木町側から撮影> | |||||||||||||
概要紹介 名称:経ヶ岳(きょうがだけ) 標高:1076m 所在地:長崎県大村市黒木町、佐賀県鹿島市と藤津郡太良町
この経ヶ岳は、多良山系(たらさんけい)の主峰(しゅほう)で、大村市の山では(長崎県央地域・多良山系でも)最高峰(さいこうほう)である。大村市と境界(きょうかい)を接しているのは、佐賀県の鹿島市(かしまし)と、太良町(たらちょう)である。佐賀県では、県内最高峰の山である。そのため、佐賀県からの登山客(とざんきゃく)が多い山でもある。 山頂付近(さんちょう ふきん)の山容(さんよう)は、遠くから見ても近くから見ても鋭角(えいかく)な三角形をした山である。頂上直下周辺は(東西南北とも)大きな岩ばかりになっていて、登山道はかなり急な坂道である。また、この山は長崎県内で長さ第4位で大村市内では最大最長の郡川(こおりがわ、川の長さ約16km)の源流域(げんりゅういき)の一つでもある。念のため、この郡川の本当の源流部は、その長さの関係上からか多良山・金泉寺方向にあるようだ。 あと、山が急峻(きゅうしゅん)で雨量豊富なためか、滝(たき)も多い。この山の中腹(ちゅうふく)にある大払谷(おおはらいたに)と呼ばれている斜面には落差10数メートルが一滝、3〜5mクラスならば五滝以上はあるようだ。(ただし、上野は大払谷にある滝しか調べていないので他の斜面は不明である) 歴史など:現在、江戸時代の大村藩(おおむらはん)によって作成された大村藩領絵図(おおむら はんりょう えず)及び(大村)郷村記(ごうそんき)に、経ヶ岳のことがかいてある。 また、その郷村記には(現在、行方不明だが)山頂付近に埋められていた経筒(きょうづつ)が江戸時代に発見された。そして、中に入っていた経文(きょうもん、経典=きょうてん)の一部を書き写して、当時の萱瀬村(かやぜむら、現在の大村市萱瀬地区)に運ばれていたことが書いてある。。この山の名称は、その経筒の中に入っていた経文(経典)の「経」からの由来(ゆらい)といわれている。 <この詳細関係ページは「大村の経筒」の『経ヶ岳の経筒』紹介項目を参照願う>
・経ヶ岳は火山によってできた山 まず、この項目を極簡単に書きますと、経ケ岳(1076m)は、多良山系火山の噴火などによる造山活動で形成された山といえるでしょう。多良山系火山の活動は、100万年前から始まり、25万年前の五家原岳(ごかわらだけ、1057m)を最後に活動を終えたとされます。経ケ岳は、60万年前、多良岳は40万年前と言われています。 多良山系の火山の噴火口跡は、黒木町の窪地(くぼち)ともいわれ、その周辺から経ケ岳を中心に見まわしますと、笹ノ岳(ささのだけ)、多良岳(たらだけ、996m)、中岳(なかだけ、1000m)、五家原岳(ごかわらだけ、1057m)などは、火山の外輪山(がいりんざん)のように見えます。また、郡川当たりが、外輪山の欠落した部分と言えます。 ・経ヶ岳の名称の由来 念のため、この山について江戸時代に記述されている歴史や名称の詳細については、既に掲載中の「大村の経筒」の『経ヶ岳の経筒』紹介ページに書いています。ここでは、標題にそって、経ヶ岳の名称由来部分を中心に書いていきます。このことについて、江戸代の大村藩が編纂した(大村)郷村記の「萱瀬村、経ヶ岳」の項に記述されています。その全文は、長いので、山名の由来に関係してる(大村)郷村記の原文は、次の「」内の太文字通りです。 「 (前略) 往昔此絶頂に壺に経文を納埋めし所なる故、経の岳と號すと云傳 土人曰、此経の岳、上古ハ或時は高くなり、又俄に低くなり、高低更に定まらず、種々の奇怪あるゆへ、此絶頂に経文を納めし所、其後怪異やむとなり
上記「」内を上野の注釈や補足含めて現代語訳しますと、次の<>内の青文字通りと思われます。 < (前略) 大昔、この山頂には壺(つぼ)に経文(経典)を納めて埋めた所なので、経ヶ岳と名付けられたと伝聞されてきた。地元の人が言うには、「この経ヶ岳は大昔、ある時には高くなり、また急に低くなったりと、高低がいっこうに定まらなかった。種々(様々)な奇怪(怪しく不思議)なこともあったので、この山頂に経文(経典)を埋めたところ、その後、怪異(不思議な現象)は止んだ。 天明元年(西暦1781年)十月にある人が頂上を掘って見たところ、一つの壺(つぼ)を手にした。その壺の中を見ると経文(経典)があった。しかし、壺が割れ、経典は腐敗してキッチリは読めなかった。惜しかったので、ただ文字の見えるところだけを写しとったのをあらかじめ持ってきたので左に記すこととする。 (後略) > 上記の現代語訳の「山頂には壺(つぼ)に経文(経典)を納めて埋めた所なので、経ヶ岳と名付けられた」でもお分かり通り、この経ヶ岳の「経」は、経筒の中に入っていた経文(経典)の「経」からの由来(ゆらい)と言うことです。 なお、ご参考までに、この『経ヶ岳の経筒』に入っていた経文(経典)の作成年は、江戸時代の書き写しによれば、「永仁二年(西暦1294年) 卯月(陰暦で四月)上旬」(注:1294年は鎌倉時代、北条貞時の頃)とのことです。ですから、これまで存在が判明していた「大村の経筒」6個の内では、新しい年代の経筒といえるでしょう。 2)滝など この経ヶ岳にある滝について、通常ならば江戸時代に編さんされた(大村)郷村記の例えば福重村の「瀧之事」(滝のこと)の項目があるように、萱瀬村にも本来はあるはずと、私は思っていました。しかし、そのような項目は、萱瀬村の記述にはないようです。ただし、当時の萱瀬村(現在の大村市萱瀬地区)に、滝がない訳ではありません。
むしろ、面積では大村8地区の中では最大の地区で、しかも多良山系の山並みをはじめ有名な山が多い所です。そのような地形からして、<大村三滝(御手水の滝=通称「裏見の滝」、山田の滝、鳴滝>ほど有名ではないものの大小の滝合わせて一番多い地域と、私は推測しています。 そして、本題の経ヶ岳にある滝についてです。実は、登山や沢登り愛好者の方ならば、経ヶ岳に登る場合、黒木町の登山口から大払谷(おおはらいたに)と呼ばれている斜面に大小の滝や傾斜滝のあることを良くご存知のはずです。地図や大村市内で発行されている書籍類などで経ヶ岳にある滝が紹介されていないので、一般には知られていないだけです。 先の大払谷斜面、つまり郡川の源流域の一つである下流側から、3〜7メートル級の滝が、いくつか表れてきます。それは、傾斜の滝が多いです。しかも、いずれの滝も「清流の滝」の代名詞を付けたいような、清らかで綺麗な水が流れ落ちています。 そして、そのような滝を見ながら、さらに登りますと、標高約560m付近で、(上野の目測ながら)落差約12mの(通称)「経ヶ岳の大滝」(右側写真参照)があります。(注:上野は落水口の上部から、この滝を見ていないので落差約12mは、あくまでも滝壺側から目測だけで、正確には不明) 通常期も同じかどうか不明ながら、私が登った日は、水量もマアマアあり、堂々とした滝に見えました。なお、ご参考までに、(2017年の調査時点で)先の落差=約12mが正しければ、落差30mある御手水の滝=通称「裏見の滝」ほどはないにしても、大村市内では高い方だと思われます。(注:大村市内に滝は沢山あるので、まだまだ調査中。いずれ落差の高い順番は整理予定) なお、このページは、経ヶ岳の(山の)紹介なので、経ヶ岳にある滝については、これ以上は省略します。いずれ、他の小滝や傾斜の滝含めて、掲載準備ができれば、「大村の滝シリーズ(目次ページ)」に詳細に書こうと思っています。 補足 (この項目は準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2018年8月18日、第二次掲載日:8月19日、第三次掲載日:8月22日、第四次掲載日:8月23日、第五次掲載日:8月24日、一部改訂:2021年7月31日) |
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