(大村市立)郡中学校・2先生の今富の史跡巡り(概要報告)
日時:2019年2月14日 16時00分〜17時10分 、 参加数:2名 、 案内役:上野 、場所:大村市今富町(史跡名は下記「見学コース」を参照)
趣旨:郡中学校1年生の「地域学習」の中で、「キリスト教の禁教時代」があります。そのコースで、今富町にあるキリシタン史跡<(1)帯取殉教地跡、(2)今富のキリシタン墓碑>の見学が、7月2日に天気晴れならば実施予定です。そして、今回の史跡巡りは、その事前準備(下見)としておこなわれました。また、今回主目的の場所へ行く途中、あるいは、その周辺にある史跡も併せて見学しました。
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(写真1) 中央上部の山林周辺が本当の
帯取殉教地跡(十二社権現跡)
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(写真2) 今富のキリシタン墓碑
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見学コース(下記は順不同。車窓からの見学や説明も含む。詳細は下記のリンク先から参照願う)
・福重飛行場(1944年、大村海軍航空隊が空襲に遭い使えなくなったため、この福重飛行場が突貫工事で造られた。その長さは950m、幅が30mの滑走路だった。現在は長さ860m、幅2m50cmの農道(一直線道路)になっている。長崎県下最大クラスの戦争遺跡かもしれない)
(1)帯取殉教地跡、
(写真1)の中央部山林周辺が本当の帯取殉教地(十二社権現跡)である。その根拠として江戸時代の大村藩領絵図に十二社権現が図示されている。また、(大村)郷村記によれば十二社権現のあった場所として字(あざ)橋口と書いてあり、地名は「帯取」ではない。(この詳細は、十二社権現跡<(本当の)「帯取殉教地跡」ページ参照)
この十二社権現で、元和3年(1617)5月22日フランシスコ会のフラーデ・ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父とイエズス会のジョアン・バティスタ・マシャード神父が処刑された。このことは、事実と思われる。
・間違った場所に立つ「帯取殉教地の碑」
この記念碑は上記の本当の場所から直線で350m近くも離れた場所に立っている。我々は、長年この間違い指摘をしてきたが、今でも、大村市や長崎県のホームページには間違いのまま記念碑の写真も紹介文も掲載中である。(この詳細は、十二社権現跡<(本当の)「帯取殉教地跡」ページ参照)
・大神宮 、・亀石 、・石割樫 、・招魂碑 、・黄金山古墳 、・尾崎城跡
(2)今富のキリシタン墓碑
(写真2参照) 1963年5月8日、長崎県の指定史跡になった頃、この墓碑は、「一瀬永正の墓で、我が国で古いキリシタン墓碑」といわれていた。しかし、その後の調査で、(大村市ホームページから引用すると)<近年の調査で「干十字紋」の横に「慶長19年」(1614年)の文字が発見されたことから、この墓は、慶長19年に一瀬栄正ではない別のキリシタンのために建てられたと考えられます。>ということである。
つまり、大村市教育委員会設置の史跡説明板に書いてある(概要)”一瀬永正の墓”や、”我が国で古いキリシタン墓碑”でもないということである。
今回、今富の史跡巡りに参加された2先生、お疲れ様でした。