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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など (福重村)招魂碑
 概要紹介
掲載中
 1)招魂碑について
掲載中
 2)招魂碑の大きさや石材など
掲載中
 3)招魂碑の碑文の内容
準備中
  (イ)表面の文字について
準備中
  (ロ)裏面の文字について
準備中
  (ハ)側面の文字について 
準備中
 4)招魂碑の建設状況
準備中
 5)関係記念碑について
準備中
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準備中
 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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(福重村)招魂碑(今富町の大神宮)

概要紹介
・名称:(福重村)招魂碑(ふくしげむら しょうこんひ)   注意:碑の名称は右側写真の通り、招魂碑のみだが、この種の石碑は大村市内各地区に沢山あるので間違わないように、今回、(福重村)を頭に付けた

・本来の碑の名称:招魂碑
・建立年月日:昭和二年十一月七日(1927年11月7日)
・建立者:帝国在郷軍人会福重村分会
・所在地:大村市今富町、大神宮の東側

  (福重村)招魂碑は、日清・日露戦争や、それ以降の戦争も含め、福重村出身者で戦死された方の慰霊の碑です。場所は、大村市今富町・大神宮境内東側の小山みたいな所にあります。(右側写真参照) 境内の地面(階段の最下部)から碑の最上部までは、(目測ながら)6m位あり、少し見上げるような感じになります。

 この碑は、1927年11月7日、その当時の帝国在郷軍人会・福重村分会によって建立されています。当時は、(大村市と合併する約15年も前ですから)当然、福重村の時代でした。

 招魂碑の書(揮ごう)は、大村出身で陸軍大将であった福田雅太郎(ふくだ まさたろう)氏によるものです。(右側写真に見える招魂碑文字の左側列に氏名や印章なども彫ってある)

 この碑の建立当時、建築土木用の重機がほとんどなかった頃ですから、頑丈な松の木などを組み合わせ、滑車などを使いながら人力のみの作業で造られたと聞いています。(この時の工事の状況は、大神宮本殿内の壁に飾られている古写真があるので後の項目で説明する予定) また、1927年11月の建設当時と比較して、現在は手すり部分のみが少し違った造りになっています。

 福重地区での戦没者慰霊祭が開催される時には、この招魂碑前にて10町内の戦死者遺族や関係者が参列され、式典がおこなわれています。

1)招魂碑とは
 招魂碑について、日本国語大辞典によれば次の<>内が書いてあります。<招魂碑=戦死者を慰霊するための碑。明治維新前後から各地に建てられたが、日露戦争後、忠魂碑の名に改められて全国に普及した> インターネット検索してみると先の辞典通り、招魂碑は全国に数えきれないくらいあります。

 戦前、市町村別の在郷軍人会などが主宰され碑を建立し、戦没者の慰霊祭、陸軍記念日や海軍記念日などに祀られきたと思われます。大村市内でも(1942年、大村市合併前の)松原村、福重村、萱瀬村、鈴田村、三浦村など村別に招魂碑が建立されました。(私は、全部の調査を終えていませんが、そのほとんどが現存していると思われます)

 あと、名称も規模も違いますが、長崎県全体の戦没者を祀る所として、大村市三城町には長崎県忠霊塔があります。1995年前頃まで、ここで県下から毎年、戦没者の遺族や関係者が集まり、県全体の追悼式が開催されてきました。その後、長崎県戦没者追悼式は、天候(雨天)なども考慮して、場所を「シーハットおおむら」に移して、数千人規模で秋に行われています。

2)招魂碑の大きさや石材など
 (福重村)招魂碑や土台関係の大きさは、下表の通りです。また右側2枚写真の通り、招魂碑本体は、自然石で縦位置で立っています。この自然石は、隣町の立福寺郷(町)から運ばれてきたとの伝承があります。写真の通り、全面に彫られた文字が大きく、しかも文字幅が広くて太いため、石自体も実サイズより大きな印象を与えています。

(福重村)招魂碑(今富町の大神宮)
手前側の境内地面から最上部まで高さ6m位

 あと、その碑の下側には、横位置で本体とほぼ同じくらいの自然石が置かれています。さらに、その下側には、モルタル製(表面が平らな切り石風に仕上げたもの)で長方形に加工し、積み上げた土台があります。また、その土台の下側には基礎部分があり、最上部は四方形の面になっています。ここは加工された切り石による石垣になっています。

 この最上部周囲には、1927年の建設以降、1942年頃までは鉄柵がありました。なぜなら、この鉄柵の様子が、「1941年(福重村写真集)銃後の郷土」の「青年学校生徒(2)」ページの集合写真上部に写っているからです。

 その後、戦争激化により全国的に鉄や資材不足がありましたので、もしかしたら、この鉄柵は軍需用に提供されたのか、はたまた錆びついて使えなくなったためか、無くなってしまいました。そして、現在は、四隅に丸い石材柱と、その間はチェーンで取り囲んであります。

 先の石垣下から境内の地面まで、階段があります。この階段下の地面から招魂碑本体の最上部までは、(目測ながら)6m位あり、少し見上げるような感じになります。<仮に、境内地面を1段目とすると、(下部の)階段部分が2段目、築山(小山)の地面が3段目、基礎の石垣部分が4段目、土台部分が5段目、(横位置の)自然石が6段目、招魂碑本体が7段目となるでしょう>

(福重村)招魂碑の大きさ
 記念碑(本体)  高さ:約185cm  横幅:約80cm  周囲:
 土台全体  高さ:約210cm   横幅:約270cm  周囲:
 石垣(土台下部)  高さ:約100cm  横幅:約370cm  奥行:約370cm

 招魂碑本体の材質は、市内で多く見られる普通の石です。ただ、大きな文字などを彫るためと見栄えの関係から表面は、ほぼ真っ平らな形状です。

3)招魂碑の碑文内容
 この(福重村)招魂碑(ふくしげむら しょうこんひ) の碑文を紹介する場合、本来ならば招魂碑へ登る階段より数メートル離れた所にある在郷軍人会福重村分会名簿記念碑(このページ上から2番目写真左端側に写っている角柱を参照)と一体に書くべきです。なぜなら、招魂碑の建立者で、しかも重機などがなかった時代に、ほとんど人力で自然石の移動や建設時の作業を担当された中心が、この在郷軍人会福重村分会の方々だったろうと推測されるからです。

 さらに、この名簿記念碑には建立年が彫ってありませんが、推測ながら招魂碑本体の建立年月日と同時期と推測されます。どうして、そのように推測しているかは、招魂碑本体と名簿記念碑の碑文を見ますと想像できます。(詳細は下記及び別ページで紹介予定) 先に述べた通り、本来は、招魂碑本体と名簿記念碑を同時に、このページに書くべきです。しかし、このシリーズでは、これまで出来るだけ各記念碑別に詳細に書いてきましたので、今回同じように各別ページで紹介していますので、その点はあらかじめご了承願います。

(福重村)招魂碑の本体

<招魂碑本体の碑文>
 まず、このページ右側上から3番目写真をご覧願います。(全景は上から1、2番目写真参照) この写真に写っています招魂碑の正面(西側面)に、この項目で紹介します碑文が彫ってあります。金色の文字は、中央部の大きな文字から左側の揮毫(きごう)者名まで、下記の<>内通りです。

 ただし、二つある四角の印影(印鑑)は「印」「印」と書き、写真の通り縦書きをホームページ上、横書きに直しています。また、2行になっています「勲一等 功三〃」部分は、1行に変えています。なお、軍隊の階級や当時の位階などについては、下記の国語辞典なども、ご参照願います。

< 招魂碑  陸軍大将 正三位 勲一等 功三〃 福田雅太郎 書 「印」 「印」 

現代語訳:招魂碑 揮毫(きごう=毛筆で文字を書いた)者は、陸軍大将で正三位 勲一等 功三等の福田雅太郎である。 「印」 「印」

陸軍大将:当時の陸軍の階級の一つである。(中将の上)
福田雅太郎(ふくだ-まさたろう 1866−1932)=明治-大正時代の軍人。 慶応2年5月25日生まれ。日露戦争では第一軍参謀副長,のち第五師団長,台湾軍司令官などをつとめる。関東大震災で関東戒厳司令官となるが,甘粕(あまかす)事件の責任をとり辞任。陸軍大将。昭和5年枢密顧問官。昭和7年6月1日死去。67歳。肥前大村(長崎県)出身。陸軍大学校卒。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より
)

位階:長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一。元来は官人の序列で、推古天皇11年(603)の冠位十二階に始まり、大宝令とこれを改定した養老令の位階制が長く行われた。皇族の親王は一品(いっぽん)から四品(しほん)までの四階、諸王は正一位から従五位下まで一四階、臣下は正一位から少初位下(しょうそいげ)まで三〇階とした。明治22年(1889)以後は一位から八位までの正・従合わせて一六階となり、第二次大戦以降は故人にのみ与えられるようになった。(大辞泉より)
位階勲等:位階と勲等。授与される位と勲章の等級。


補足1:
なぜ、福田雅太郎氏が揮毫したかについては、記録がありません。また、1927年の建立時、福重は東彼杵郡福重村でしたので、同氏の出身地と違います。ただし、当時の東彼杵郡関係の地域出身者は、たいてい陸軍(例えば大村の第46連隊)は同じ連隊所属でした。そのようなことから大村出身の陸軍関係者で一番高位にあった福田雅太郎大将へ、在郷軍人会福重村分会が書をお願いしたと推測されます。

補足2:この正面の金色文字が輝いて見えるのは、(1927年の建立当時と彫られた文字自体は当然変わっていませんが)平成時代前期頃に、塗り替えられたためと思われます。なお、招魂碑本体の下部(土台)の碑文は、建立当時のままと推測されます。

(土台部の真正面にある)碑文(拓本)

<招魂碑本体の下部(土台)の碑文>
(イ)表面の文字について
 招魂碑は上から順番に本体(自然石)、土台石(自然石)、加工した石をついた土台(石垣)、四方へ行ける通路みたいな土台、さらに階段があります。ここで紹介する「表面の文字」(碑文)は、上から3段目の石垣の中央部(正面=西側面)にあります。

 このページ、上から4番目写真(右側の拓本写真)を参照願います。この写真でも碑文は、充分読めるかもしてませんが、念のため、次の「 」内の太文字を書いています。なお、原文は、拓本写真通り縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。

 「 帝國在郷軍人 福重村分會建立 昭和二年十一月七日 」

 ご参考までに、口語訳しますと、次の<>内と思われます。< (この福重村招魂碑は)帝国在郷軍人(会)・福重村分会によって、之(これ)を建てた。(建立した) 昭和2(1927)年11月7日 >

 あと、上記の補足ですが、通常、在郷軍人会の名称は、最後に「会」が付いています。そのため、私は、上記の<>内には、(会)を補足しました。実は、この件、既に掲載中の「銃後の郷土写真集、銃後の郷土 在郷軍人幹部」ページに写っている旗の名称にも、「
帝國在郷軍人會 福重村分會」の文字がありますので、こちらの名称が正確と言えます。

 なお、この碑文の彫ってある石の大きさは、文字面の外枠部分も含めて、高さ60.5cm、横幅44.5cmです。この碑文石は、上から1番目の写真でもお分かりの通り、正面階段を登っていきますと、土台の石垣の真正面中央にあり、他の碑文よりも文字サイズが大きいです。そのため、目立っていますので直ぐに分かりやすいです。

(ロ)裏面と側面の文字について

(この原稿は、準備中)



4)招魂碑の建設状況
 
  (この原稿は、準備中)


5)関係記念碑について


 (この原稿は、準備中)

まとめ


 
 (この原稿は、準備中)


・関係ページ:
大神宮  、 亀石  、 石割樫

(初回掲
載日:2013年10月26日、第2次掲載日:2013年10月29日、第3次掲載日:2013年10月31日、第4次掲載日:2015年11月17日、第5次掲載日:2016年1月12日、第6次掲載日:2016年1月 日、第7次掲載日:2015年 月 日)

 

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