大村の歴史
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昭和37(1962)年7月8日の大村水害 |
注2: この水害は、「1957(昭和32)年の大村大水害」のように犠牲者(19 名死亡)はなかったものの後の項目で紹介している通り、家屋、道路、河川の堤防、橋、農地などの被害は、決して軽いものではなかったので今回掲載している。 注3:この「昭和37(1962)年7月8日の大村水害」を詳細に書いている本や冊子類を上野は探してみたが、ないようだ。そのため、当時の「大村市政だより」あるいは2023年7月現在ホームページに掲載中の各種データから引用、参照して書いている。 注4:本ページ掲載の写真は、ほぼ全て昭和37(1962)年7月に発行された「大村市政だより」から複写している。なお、福重関係は、できるだけ上野が補足説明もしている。 昭和37(1962)年7月の気象概況 下記の<>内の青文字は、長崎気象台のサイト「1962年(昭和37) 7月 県北部中部の大雨」ページから引用して書いている。 < 1962年(昭和37) 7月 県北部中部の大雨 概況 7月1日から8日にかけて梅雨前線が九州北部に停滞し、この前線上をつぎつぎに小さい低気圧が通過したため県内の総降水量が400mm から900mmに達するという記録的な大雨となった。 この大雨は1日~3日の県下全域にわたる大雨、4日の県北部の大雨、5~6日の県北部中部の大雨、7~8日の県中部北部の大雨と4回に分けられる。 >
昭和37(1962)年7月7日、8日の降雨量 今回、下記に掲載している1962(昭和37)大村水害の要因となった降雨量は、先に紹介している通り、昭和37(1962)年7月に発行された「大村市政だより」の1ページ右側下部に縦長の一列表(2日間を分けずに)に書いてある。 今回ホームページのレイアウト上、下表のように1962年7月7日と8日を2列に直して(2日間は分けて)表記している。また、日時や降雨量などの数字は、当然原文そのままだが、他文字の表記や太文字などは、少し変えている。あと、下表枠線内の色分けは、2日間別を見やすいようにしているだけで、特に意味はない。
<戦後3回の大村水害の降雨量などの補足> 念のため、この項目の表題に「戦後3回の大村水害」などと表記しているが、実は戦後からの大村市内での水害被害は、3回だけではない。あくまでも上野が調べてみて、被害規模が大きいとか、その資料が残っていて、比較的に分かりやすいものを列記しているだけである。つまり、大村での水害は、戦後だけでも3回以あったということである。 下記の3回の大村水害も含めて、1982年7月23日発生の「昭和57年の長崎大水害」の時、大村市内でも被害出ていたようである。(注:この当時、上野は大阪で働いていたため詳細が分かっていない) それは、当時の大村市の「市政だより」(1982(昭和57)年8月15日号No.954)の「集中豪雨で被災された皆様へ」との見出しで、市税や国税の減免措置などの案内が詳しく書いてある。また、前同「1982(昭和57)年9月1日号No.955」には、災害復旧資金の記事もある。 ただし、他の3回の水害時のように、その詳しい被害規模や降雨量などの記事は、記述されていないようだ。このように「市政だより」に記事がないからと言っても、私が詳しくは知らないというだけで、それ相当の被害も降雨量もあったと思っている。また、他の年でも、例えば水害名称がないからとか、大村市広報誌に書いてないからといっても、「他の年度に水害が全くなかった」とはいえないとも推測される。(豪雨の後、しばらくしてから崖、道路や石垣の崩れなどが発生した例もある) 前置きが長くなったが、大村市内で戦後に発生した大きな水害のあった三つの年代別の雨量と、その不等号を付けると下記の通り。なお、「A)24時間雨量」と「B)1時間雨量」に分けて、各水害発生年当時に発表された数値を書いている。ただし、気象台などから後年、若干の数値の変更ながら雨量原簿の改訂があった年もあり、下記内容と違う場合もある。 A)24時間雨量 1957(昭和32)年が732.0ミリ > 2020(令和2)年が384ミリ > 1962(昭和37)年が209.0ミリ B)1時間雨量 1957(昭和32)年が141ミリ > 2020(令和2)年が94.5ミリ > 1962(昭和37)年が79.5ミリ 上記を見て、いかに1957(昭和32)年に発生した大村大水害時の雨量が凄まじく、大雑把に言えば2020年雨量の約2倍近くである。そして、詳細記録が残る水害として、「1957(昭和32)年の大村大水害の雨量が市内で最大雨量」であったことが良く分かる。 当時の「大村市政だより」に書いてある被害の状況 注5:下記点線内の青文字内容は、1962年(昭和37) 7月に大村市から発行された2つの「市政だより」(現在の大村市「広報誌」の前身みたいなもの)から引用したものである。 注6:原文は縦書きであるが、このページはホームページなので全て横書きに直した。 注7:古いため原文の一部に、かすれ、こすれもあり判断しにくい文字もある。また、縦書きの続き文が多いため、あえて、このページでは読みやすくするため句読点を多くしたり、改行も変えた。それに太文字も付けた。このようなことから、下記点線内は、あくまでも、ご参考程度に閲覧願う。もしも、引用されるならば必ず原紙の「市政だより」からして下さい。
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