概要紹介
名称:丹投石(たんとうせき) 所在地:大村市福重町116 (深重山妙宣寺・本堂正面)
この丹投石は、まず、名称の漢字2文字から解説しますと、次の「」内の通りです。「丹=キリシタンのこと。投=投げること」です。漢字3文字全部を解釈しますと、「キリシタン(丹)が投げた石」となります。この石は、人が持てるような軽量ではないので、推測ながら裏山の傾斜を利用して、転がしたというのが実際の事柄ではないでしょうか。
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丹投石(大村市福重町、妙宣寺の境内)
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ここの深重山妙宣寺(しんじゅうざん みょうせんじ)の創建は、 慶長7(1602)年に、極楽寺跡(現在の郡中学校付近)に、 仙乗院として庵を構えてからです。大村市内で最古の日蓮宗寺院です。そして、慶長19(1614)年に、現在地の矢上郷(現在の福重町)に引っ越しました。
この時期は、江戸時代初期頃ですから、キリスト禁教の厳しい頃、あるいは逆にまだまだ隠れキリシタンとして存在も多く続いていた時代とも思われます。この時代より相当後、明暦3年(1657年)に大村で起こった大事件が郡崩れ(キリシタン関係の逮捕者603名、その内99名を除き打ち首、永牢などになった)が起こっています。
この丹投石が投げられた正確な年月は、定かではないようです。しかし、推測ながら現在地への引っ越し年=1614年の後頃から郡崩れ発生年=1657年よりは、ずっと以前の間と考えるのが普通といえます。丹投石の由来は、キリシタン禁教後に広まった仏教や妙宣寺に恨みを抱いたキリシタンが裏山から大きな石(自然石)を本堂破壊を目的に投げたということからです。
何故このようなことが起こったかということで、戦国時代までさかのぼって、時代背景も考える必要があります。それは、大村純忠時代に当時の宣教師から何回も頼まれた純忠は、ついに神社仏閣の焼き討ちやキリシタンに改宗しない領民の追放を許可します。そして、天正2(1574)年、キリシタンによって僧侶の峯阿乗の殺害、神社仏閣の焼き討ち破壊、略奪の限りをつくす他宗教弾圧行為が行われました。
そして、一時期、大村領内は、”キリシタン王国”みたいになります。そのようなことから、幕府が禁教令を出しても、妙宣寺が現在地に引っ越した頃からしばらくの間は、隠れキリシタンも多くいたことも充分ありえます。そのような時代の流れ中で、起こったのが、丹投石の由来と思えます。
この石が、その後も、ずっと丹投石と呼ばれ、本堂裏に江戸時代、近代通して長年ありました。そして、昭和4(1929)年に、現在地(正面東側にある壁近くの境内)に記念碑として建立されています。(右側1番目写真参照)
1)大きさなど
まず、右側1番目写真を参照願います。上部が、丹投石の石碑です。碑文は、右側から左側へ読みます。下部が、4段になっている土台の石垣です。それらの大きさは、下表を見て頂けないでしょうか。
丹投石などの大きさ
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全体の高さ |
高さ:約220cm |
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石碑の大きさ |
高さ:約105cm |
横幅:約85cm |
胴囲:約280cm |
石垣の大きさ |
高さ:約115cm |
横幅:約160cm |
周囲:約500cm |
土台の石垣は、写真の通り下部が大きく、上部へ細くなっている形状です。この石垣は、一部において地面上だけなら3段みたいにも見えますが、実際は地面以下も含めれば全て4段に石を組み上げられています。目地部分(石と石の間)には、昭和時代の建立ですから、モルタル(セメントなど)で施工されています。
また、石碑本体に碑文があることは、写真でも直ぐに分かりますが、さらに石垣部分にも碑文があります。それは、石垣最上部の真正面と、真裏の部分に2か所あります。上記右側写真では、表面の石垣最上部にある中央の石です。(裏面も同様の位置にあります)
全体、当然のごとく丹投石の大きさに合わせて、土台の石垣が築き上げられています。そして、本体の自然石や丸形状の石垣からくる印象からか、上表の数値よりは少し小さめのまとまった感じにさえも見えます。
2)碑文内容など
この石碑正面には、右側1番目写真でもお分かりの通り、大きな文字で右側から左側へ、丹投石と彫ってあります。この碑文は、誰でも直ぐに視認できる文字と言えます。解釈しますと、「キリシタン(丹)が投げた石」となります。
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丹投石の石垣の碑文 (表面=右側、裏面=左側)
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石碑本体下部にある石垣の表面と裏面にも碑文が彫ってあります。場所は、両面とも石垣最上部の中央の石部分になります。その文字を分かりやすいようにしたのが、右側の画像です。
原文は、文字列も含めて、ご覧の通り縦書きです。今回ホームページ上、横書きに直しますと、次の太文字の通りです。なお、読みやすくするため、一部改行を変えたり、空白(スペース)を挿入しています。
(表面碑文)
開山日順上人 三百遠忌記念
(裏面碑文)
昭和四年十一月十五日 檀家中建立 廿六世日燈代
口語訳
上記の表面と裏面の碑文を続けて口語訳しますと、次の「」内と思われます。念のため、素人訳ですので、ご参考程度にご覧願います。なお、( )内は、上野が付けた補足や注釈です。
「(深重山妙宣寺を)開山(創建)した日順上人(にちじゅん しょうにん)没後300年記念(碑) (この記念碑は)昭和4(1929)年11月15日に(妙宣寺の)檀家内で建立した。(妙宣寺の)第26代・日燈(上人)の年代のことである」
重複しますが、石碑本体の碑文から続けて簡略化してまとめ直しますと、次の<>と言えるでしょう。< 丹投石(記念碑) この石碑は妙宣寺を開山した日順上人の没後300年を記念して、檀家によって昭和4(1929)年11月15日に建立した。妙宣寺の第26代・日燈上人の年代のことである。 >
石碑移設年の補足
先の項目にも書いていますが、この丹投石の元あった場所は、江戸時代にキリシタンから投げ込まれた後から、ずっと妙宣寺本堂の裏側にありました。それが、なぜ現在地に昭和4(1929)年11月15日に移設され、記念碑になったかという点です。ここからは、私の推測ですが、本堂の裏側含めた敷地内で、何か大きな改築か工事がおこなわれた同時期ではないかとも思われます。
妙宣寺本堂自体の一部分は、例えばガラス、階段、その他は近代施工などで改築されています。しかし、建物そのものは、明治時代の大火の後、池田山宝円寺から移築されたままです。あと、本堂以外で近代に建てられた大きな建物と言えば、位牌堂(現在の位牌堂ではない当初の建物)などは、昭和年代に建てられた可能性もあります。
そのような何らかの大きな工事があった時に、本堂裏側も整備され同時期に、この丹投石は一緒に移設された可能性があると思えます。 (この項目、何か記録などで分かれば、この項目の文章を後で改訂する予定です)
まとめ
先の項目と重複しますが、この丹投石の意味は、「キリシタン(丹)が投げた石」ということです。その年代は、現在地への引っ越し年=1614年の後頃と推測されています。丹投石の由来は、キリシタン禁教後に広まった仏教や妙宣寺に恨みを抱いたキリシタンが、裏山から大きな石(自然石)を本堂破壊を目的に投げたということからです。
あと、この丹投石ある場所は、妙宣寺(本堂)へ登る階段から境内に入った直ぐ右側(東側)にあります。そして、この周辺から眺める景色で、近くは福重の田園風景や松原・竹松地区の市街地、遠くは大村湾や西彼杵半島などが良く見える所です。
また、丹投石に彫られている大きな碑文は当然のことながら、石垣(土台)最上部の表・裏面にある小さめの碑文も、視認できます。妙宣寺へ何かの機会に行かれたら、ご覧いただければと思います。なお、妙宣寺の案内パンフレットにも、丹投石の写真と文章で分かりやすく紹介されてます。
(初回掲載日:2014年7月3日、第2次掲載日:7月4日、第3次掲載日:7月5日、第4次掲載日:7月6 日、第4次掲載日:7月11日)
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