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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

大村権七郎の墓碑

 概要紹介
掲載中
  ・調査の事実経過
掲載中
  ・概要
掲載中
 はじめに
掲載中
 1)墓碑の大きさ、緯度経度などについて
掲載中
 2)墓碑の碑文ついて
掲載中
 3)大村藩第4代藩主・大村純長との親子関係について
準備中
 後書き
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

概要紹介
名称:大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ)
所在地:大村市福重町、妙宣寺・位牌堂東側の丘(並んで2基ある墓碑の左側=西側)
大きさ:土台含めた全体の高さ250cm。墓碑本体の高さ109cm、横幅38cm、胴囲127cm(大きさの詳細は後の項目を参照)
大村権七郎の命日:西暦1661年5月13日。注:この年について、墓碑には「萬治(まんじ)四年(1661年) 辛丑天(かのとうし、しんちゅう)」と彫ってあるが、4月25日の改元によって正しい元号では「寛文元年(1661年) 」である。

左側が大村権七郎の墓碑(福重町、妙宣寺・位牌堂東側の丘)
(中央:拓本作業中)大村権七郎の墓碑(2016年4月29日)

調査の事実経過:この墓碑について、2016年4月に妙宣寺のご住職から上野へ、(文字解読含めた)調査依頼がありました。その後、4月29日の拓本作業含めて、大きさ、緯度経度などの計測を数日かけておこないました。その後、墓碑に彫ってある文字解読は数か月かかりました。この解読作業時、大村市文化振興課の山下氏からアドバイスして頂きました。

 その後の2016年夏には、ほぼ全文解読が終了し、概要報告書も同年の秋には出来ていました。そして、2017月
2月13日、妙宣寺・本堂で開催された仏子会の講話(郷土史講演会)で、この調査報告の発表も兼ねておこないました。(この講話の概要報告ページは、ここからご覧ください)

概要:大村市福重町にある妙宣寺・位牌堂の東側の丘に、現在2基並んだ墓碑があります。両基とも関係ありますが、このページでは向かって左側(西側)の墓碑について書いています。(注:右側の墓碑については、別のページに掲載予定) この墓碑は、大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ)です。

 大村権七郎は、大村郷村記によれば大村藩第四代藩主の大村純長(おおむら すみなが)と妾(めかけ=結婚していない愛人)の間に生まれた子どもです。父の大村純長は、甲斐国徳美藩(現・山梨県)の伊丹家(純長は幕府勘定奉行・伊丹勝長の四男)から養子で大村家に来て、その後、郡崩れの事件が発生した時の大村藩第四代藩主です。そのため、大村純長は、藩主の中では有名な人です。

 詳細は、後の項目を読んで頂くこととして、今回の調査で分かったことが、いくつかあります。その中で、権七郎の母は、郡村に住んでいた関係上、(あくまでも推測ながら)権七郎も生まれも育ちも、同じ村にいた思えます。しかし、大村家関係の墓は、菩提寺の本教寺が多い中で、権七郎の墓が、当時の福重村(現在の大村市福重地区)にあるのは、珍しいことです。

 あと、江戸時代編さんの郷村記(大村郷村記)は、まるで墓石の碑文を書き写したみたいに記述してあります。しかし、この内容が今回調査によって、戒名も建立年号(元号)も違っていることが分かりました。そのようなことも含めて、今回の文字解読で碑文は、「 南無妙法蓮華経 慈雲院殿日潤居士  萬治四辛丑天 五月十三日 」<注:萬治(まんじ)四年(西暦一六六一年) 辛丑天(かのとうし、しんちゅう)>であることが判明しました。ただし、この建立年号(元号)は、改元を知らずに建立された関係上か、墓碑の方が間違っていることも分かりました。詳細は、後の項目を参照願います。

はじめに
 この大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ)は、妙宣寺境内でも福重や竹松の平野部や大村湾などが望める見晴らしの良い場所にあります。しかも、建立された当時(西暦1661年)から場所は変わっていないと思われます。ただし、現在2基並んでいる、もう1基の「山口幸太夫祖母の墓碑」の方は、10mも離れていない、やや低い所から数十年前に現在地に移設されたものです。(両墓碑は、関係あるのですが、このことについては別ページに掲載する予定です)

拓本中の大村権七郎の墓碑(全て判読可能)

 大村権七郎は、大村藩第四代藩主の大村純長(おおむら すみなが)の息子です。大村家関係の墓は、本教寺の墓地に多い中で、当時の郡村(福重村矢上郷)に墓があること自体、けっこう珍しいことでもあります。そのことは推測しかできませんが、本人の意思(生まれ育った所の近く=妙宣寺の境内に葬られたかった)か、または家族の考えがあったのかもしれません。

  あと、大村家と関係ある、この大村権七郎の墓碑が目立つ場所にあるにも関わらず、何故、(上野の調べながら)近代現代の書籍類に記述されていないのかの疑問もあります。ただし、市内で発行されている郷土史関係の書籍は、これまでに100冊は超えているでしょうから、何かの本には書いてあるのかもしれません。しかし、2017年2月現在で調べきれませんでした。そのことを前提に、次のことを書いていきます。

  先の疑問の答えとして、私は、主に次の事柄を考えました。この墓碑は、目立つ場所にあったとしても、
 (1)大村郷村記内容が正しいと信じて、新たな碑文調査をされなかった。
 (2)目視点検されたとしても墓碑に地衣類がこびりついているので判読できず、拓本作業もされなかった。
 (3)仮に拓本作業をされても、その解読上で数文字、難しいのがあるので全部の判読が出来なかった。
などにより、調査報告や論文などが今まで記述されなかったのではないかと思えます。

  上記(1)に関連して、江戸時代に編さんされた郷村記(大村郷村記)には、大村権七郎の墓碑を、まるで書き写したみたいに記述してあります。しかし、明らかな転記ミスと言うより、もう郷村記を記述した年代では、既に碑文が判読できず、そのため何か別の記録(例えば過去帳)などから書き写したものと思えます。

  ですから、墓碑対比上で10文字以上の間違い文字が、郷村記には書いてあります。これでは、なかなか詳細調査が進まなかったとも思えます。ただし、私は、当時の間違い記述をことさら大きく言っている訳ではありません。歴史事項について、大なり小なりの間違いは、いつの時代も誰がおこなってもあることです。そのようなことを後世に直していくことも、郷土史(歴史)研究の基本ともいえま
 今回の調査は、そのことも含めて是正したと思っています。これから書きます詳細項目が少しでも、皆様のご参考になれば幸いです。

1)墓碑の大きさ、緯度経度などについて
 大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ)の大きさは、下表の通りです。また、その場所は、妙宣寺・位牌堂東側の丘にあり、分かりやすい所です。そのようなことから、下記二つの表に分けて、墓碑の大きさと、その緯度経度などを書いていますので、ご参考にして頂ければと思っています。

大村権七郎の墓碑の大きさ

 墓碑全体  高さ:250cm (注1)  -  -
 墓碑本体  高さ:109cm  幅:38cm  胴囲:127cm
 土台  高さ:141cm (注1)  幅:113cm  奥行き:113cm
 (注1)土台の「高さ141cm」の中には、本体(石碑)上部にある傘石や擬宝珠も含めている。

大村権七郎の墓碑、GPS実測値
 名称:大村権七郎の墓碑  場所:大村市 福重町 (妙宣寺)
 GPS実測値:北緯32度57分54.00秒、東経129度57分15.53秒  (国土地理院)地図検索用  32度57分54.00秒 129度57分15.53秒
 グーグルアース用数値:32°57'54.00"N,129°57'15.53"E  標高:GPS高度計は39m、気圧高度計は42m、地図上の標高は37.7m

2)墓碑の碑文ついて
 下記の右側が、大村権七郎の墓碑を拓本作業している時の写真です。これをもとに文字解読をおこない、左側に活字版として画像化しています。
念のため、碑文は青色文字です。また、この画像でも充分、ご確認頂けるかと思いますが、下段にホームページ用として横書きにもしています。

大村権七郎の墓碑(活字版)
拓本中の大村権七郎の墓碑(全て判読可能)

・横書き 大村権七郎の墓碑(墓碑の活字版)
碑文の活字化(横書き)
補足や注釈
             萬治四辛丑天
 南無妙法蓮華経 慈雲院殿日潤居士
             五月十三日
      萬治(まんじ)四年(西暦1661年) 辛丑(かのとうし、しんちゅう)
(頭字) 南無妙法蓮華経
(戒名) 慈雲院殿日潤居士
      五月十三日
(中央:拓本作業中)大村権七郎の墓碑(2016年4月29日)

・墓碑と大村郷村記の記述違い
 この項目、まず、大村権七郎の墓碑のことが記述してあります下記の大村郷村記(編者:藤野保氏)を参照願います。それは、次の< >内の太文字通りです。

  古墓之事  一 大村灌七郎墓
妙宣寺境内にあり、因幡守純長妾服の子なり、石塔の銘に妙法慈雲院日潤居士、寛文元辛丑歳五月十三日とあり、妾郡村山口氏の女なり、菩提を弔んか爲に講て此地に葬りしと云
 

現代語訳
 上記の大村郷村記を次の「 」内の青文字で現代語訳しています。ただし、上野の素人訳なので、ご参考程度に閲覧願います。なお、( )内などは分かりやすいように、私が付けた補足や注釈です。

 「 古い墓のこと 一つ 大村権七郎の墓
  (福重村矢上郷=現在の福重町の)妙宣寺の境内(けいだい)にある。(大村藩第四代藩主・大村)因幡守純長(いなばのかみ すみなが)と妾(めかけ=結婚していない愛人)の間に生まれた子どもである。石塔(墓碑)の銘(碑銘、碑文)に妙法慈雲院日潤居士、寛文元辛丑歳五月十三日とある。妾は郡村の山口氏の娘である。 菩提(ぼだい=死後の冥福のこと)を弔う(とむらう)ため講(こう)じて、この地に葬った(ほうむった)と言う。 」

記述違い
  上記項目で大村郷村記に記述してあります大村権七郎の墓碑内容と、実際の碑文と違いがあることが、今回の調査で分かりました。それは、具体的に違っている箇所だけを書けば、次の太文字通りです。なお、「」は、転記ミスで文字自体がありません。正しくは、下段の青文字の太文字通りです。

大村郷村記内容:妙法慈雲院日潤居士 寛文元辛丑 五月十三日
*実際の碑文内容:南無妙法蓮華経 慈雲院殿日潤居士 萬治四辛丑 五月十三日

(復刻版)大村郷村記 (福重村は第二巻)

 ご覧の通り、大村郷村記内容は、墓石碑文と12文字異なり、頭字・戒名も死亡年表記も違います。ただし、元号が万治四年四月二十五日に寛文に変わったため、元号そのものは、こちらが正しい書き方ではありますが、実物の碑文とは異なります。

 上野の推測ながら、墓碑の方は改元を知らずに建立された可能性があります。逆に、大村郷村記の方は、改元は知っていたが、墓碑を見ずに(詳細な調査をせず)に、過去帳か何か別史料を参照して書いたのかもしれません。さらに推測を重ねると、大村権七郎の命日は、先の項目通り「萬治(まんじ)四年(西暦1661年)」です。そして、郷村記の編さん時期は、江戸時代後期です。そのため、かなりの年月が経っていますので、風雨による墓碑の痛み、あるいは地衣類の付着などによって、既に実物から碑文が読めなかったのではないかと思われます。

 それで、過去帳か何か別の古記録を引用して、郷村記に書いたものと思われます。ただし、その引用先のことを素直に書けばよかったのに、郷村記に「石塔の銘に」(墓碑の銘に)よるなどと、あたかも墓碑そのものから書き写したみたいな記述なので、私は「記述違いがある」と申し上げているのです。

  大村郷村記は、大村の歴史を知る上で貴重な古記録です。しかし、方角・距離・大きさ・広さ・長さなどの違いは、常にあります。さらには、事績の全くない大村氏の名前や、年代が合わない間違いの「大村純伊」伝説(大村寿司や郡三踊りの起源)などが、堂々と記述されていますので、要注意でもあります。

 そして、 今回の墓碑の記述内容も同様でした。私は、江戸時代の先人が間違ったことを、とやかく言っているのではなく、「史跡調査した後世の者が正しく直さないことが問題だ」と、申し上げているだけです。さらに言えば、間違った歴史記述を直していくのも、歴史研究だとも思っています。今回の大村郷村記の大村権七郎の墓碑内容は、改めて、そのことも教えているように思えます。

3)大村藩第4代藩主・大村純長との親子関係について


 (この原稿は準備中。しばらくお待ちください)

後書き


(この原稿は準備中。しばらくお待ちください)


関係ページ:深重山・妙宣寺(じんじゅうざん・みょうせんじ) 


(初回掲
載日:2017年3月4日、第2次掲載日:3月5日、第3次掲載日:3月7日、第4次掲載日:3月13日、第5次掲載日:3月16日、第6次掲載日:3月17日、第7次掲載日:3月20日、第8次掲載日: 月 日、第8次掲載日: 月 日)

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