<ご来場、大変ありがとうございました。下記の古写真展は2015年10月25日にて展示は終了しました>
閲覧者の皆様へ
ナガサキピースミュージアムでの<「銃後の村」 〜長崎県東彼杵郡福重村〜 >古写真のご案内
皆様、いつも福重ホームページをご覧頂き、ありがとうございます。早速ですが、管理人の上野が、下表の通りナガサキピースミュージアムにて、「銃後の村」古写真展を開催することになりました。まず、「銃後」の言葉ですが、国語辞典の大辞泉によりますと「戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの形で戦争に参加している一般国民」という意味があります。
昭和16(1941)年11月、当時の長崎県東彼杵郡福重村(現在の長崎県大村市福重地区=10町内)では、大村市として合併発足前に同村出身で戦地にいる兵隊へ送る慰問袋の中に入れた「銃後の郷土」(福重村写真集、表紙含めて48ページ)が作成されました。この中には、福重村10郷(町)別の軍人家族などの各集合写真を始め風景や歳時記まで収められていました。(注:詳細は、このページの地図より下段「銃後の郷土の写真集とは」を参照)
また、昭和15(1940)年〜昭和16(1941)年頃に、福重村野田郷(現在の大村市野田町)にある福重地区最大の溜池(ためいけ)である赤仁田堤(あかにたつつみ)のかさ上げ工事がおこなわれました。その時の完成祝いの写真が、6枚現存しています。この中には、単に堤(ため池)の風景写真だけでなく、重機がなかった当時の道具や余興で出演した女相撲など、今では珍しい写真もあります。(注:詳細は、このページの地図より下段「赤仁田堤かさ上げ工事完成祝い写真とは」参照)
さらに、福重村ではないですが当時の大村町の一つの町内だった大佐古の防空壕完成祝いや国防婦人会などの写真3枚も併せて展示しています。(注:詳細は、このページの地図より下段「旧・大村町の写真とは」参照)
私は、今から10数年前に古写真に興味を持ち、地元の福重を中心に収集していました。(実際は、古写真所有者の方からお借りしてスキャナー複写後デジタル画像で保管する作業をしていました) そして、既に古写真は百枚以上、保存できました。このような古写真を上記通り、今回56枚展示することになりました。
これらの写真には、戦闘や空襲被害の場面はありません。しかし、各集合写真に写っておられた人の中には、その後に召集され軍人になった人あるいは内地にいても空襲などにより犠牲になられた方もいます。今年(2015年)は、終戦70周年の節目の年で、改めて戦争の悲惨さ、平和の尊さをこれからも伝えていく機会でもあります。
私は、「銃後の郷土」古写真の複写作業をしながら、ここに写る福重の先人たちは、「後世の者よ、平和な郷土写真集は何冊作成しても良いが、二度と戦地に送る写真集は作るなよ!」と訴えておられるようにも感じました。 また、各郷(町)の集合写真に写っておられる人々の参加率の高さは、現在ではなくなりかけている地域のまとまりの良さ、まるで家族付き合いのような絆の深さにも目を見張るものがありました。これら先人の思いや行動力は、現在に生きる私達にも様々な示唆を与えているのではないでしょうか。
閲覧者の皆様、古写真展の期間、開館時間、場所などの概要は、下表の通りです。何らかの機会に、展示館まで足を運んで頂き、ご覧頂ければ展示者として無上の喜びです。どうか、よろしく、お願いします。
・期間 |
9月29日(火)〜10月25日(日) |
・場所 |
ナガサキピースミュージアム |
〈住所〉 |
長崎市松が枝町7-15 (地図は下段をご覧ください) |
〈開館時間〉 |
午前9時30分〜午後5時30分 |
〈休館日〉 |
毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合はその翌日) |
主な展示内容 |
昭和15〜16年当時の福重村写真53枚プラス旧・大村町の3枚=合計56枚(説明文には現在の写真なども展示)
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ナガサキピースミュージアムへの地図(グーグル地図より)
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「銃後の郷土」写真集とは
現在の大村市が、1町5村で合併し発足(1942年2月11日)する前に、一つの村として長崎県東彼杵郡福重村がありました。その福重村銃後奉公会(事実上は当時の福重村役場と推測される)が、1941(昭和16)年11月、大村市として合併発足前に同村出身で戦地にいる兵隊へ送る慰問袋の中に入れた福重村写真集である「銃後の郷土」(表紙含めて48ページ、右側写真は表紙)が作成されました。
この写真集の中には、福重村10郷(町)別の軍人家族・国防婦人会・青年団、村全体の警防団(消防団)・福重国民学校(小学校)・村議会・村役場などの各集合写真を始め、風景や歳時記まで収められています。写真集の大きさはA5版(横22cm、縦15cm)、厚さは5mmで、全体48ページ(表紙含めて)です。(詳細は「銃後の郷土(もくじページ)」や「はじめに」から、ご参照願います)
また、戦前、戦地の兵隊へ送るための郷土写真集は、長崎県内でも全国でも各所で作成はされています。しかし、現存している冊数自体少ないです。さらに上記に書いています通り現在はホームページ化され広範に見えるような状態になっている写真集ページ自体は、全国でも少ない例と思われます。
なお、この福重村の「銃後の郷土」写真集は、一つの村(地域)の集合写真だけでなく、風景、歳時記、建物や服装まで収められているので、(2015年現在で)74年間を経る中で、史料的価値観もあると思われます。そして、一つひとつの詳細紹介は、このページでは省略しますが、ただ単に当時の状況を伝えているだけでなく、現在に生きる私達にも様々な示唆を与えてもいるといえるでしょう。
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赤仁田堤かさ上げ工事完成祝い写真とは
大村市野田町(旧・野田郷)には、福重地区で最大の溜池(ためいけ)である赤仁田堤(あかにたつつみ)があります。この赤仁田堤は、伝承によると江戸時代初期の寛文年代(1661年から1670年頃)に、野岳湖などをつくった深沢義太夫の二代目(弟の)深沢勝幸にて築堤されたと言われています。
当初の堤の規模も大きかったのですが、干害対策と食糧増産の目的で1940(昭和15)〜1941(昭和16年頃に、堤体(堤防)のかさ上げ工事がおこなわれ、貯水量が増大しました。かさあげは高さ約5尺(1m50cm)で、長さ約60mの工事でした。ただし、当時は今みたいにクレーンなどの重機はなく、ほとんど人力のみの作業でした。
そのため、重い石の運搬や石垣への据え付け、さらには漏水しないように粘土層の赤土を堤体(堤防)に固めていくのは大変な作業でした。そこで、登場したのがエートンナ(大村弁)などでした。これは、3本の丸太を三角に高く組んで上側に滑車を付け、綱(つな、ロープ)を数人で引っ張り、石を持ち上げたり、逆に重石を地面にストンと落として転圧を掛ける作業をするものでした。。
そのエートンナ含めて合計6枚の工事完成祝い写真には、他に野田の楽隊(大村初のブランスバンド)、女相撲、祝いの儀式や堤の全景などがあります。現在では、ほぼ見られなくなったものばかりで、その意味からすれば、赤仁田堤かさ上げ工事完成祝いの6枚写真は、当時のことを伝える貴重な写真ともいえます。(右上側の古写真は、赤仁田堤かさ上げ工事完成祝いの6枚写真の内の1枚=祝いの開始前の整列写真と思われる)
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旧・大村町の写真とは
この旧・大村町の古写真3枚は、大村市三城町の方が所有されているものです。この古写真の中には、三城城跡の東側にあった防空壕の完成祝いと推測される写真1枚、愛国婦人会1枚、国防婦人会1枚があります。3枚とも、記念写真(集合写真)です。
また、撮影年月日が判明している写真と、そうでない写真がありますが、いずれにしても昭和16(1941)年12月の真珠湾攻撃(太平洋戦争)前のものと推測されます。(この推測理由などは省略。別途ページで詳細に紹介予定)
右側写真は、その内の1枚で、愛国婦人会(注)の集合写真です。撮影年月日は、昭和16(1941)年6月18日です。推測するに、何かの会合あった時に記念写真みたいにして撮られたものと思えます。写真奥側に、愛国婦人会の旗も見えています。
<(注):愛国婦人会=出征軍人や傷病兵の慰問,軍人遺家族の援護などを目的として,1901年(明治34)に奥村五百子(いおこ)が創設した婦人団体。42年(昭和17)大日本婦人会に統合された。(国語辞典の大辞林より)>
なお、念のため旧・大村町の古写真は、他にもありますが、今回の古写真展での展示枚数は、上記通り3枚だけです。
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(上記写真は古写真展:銃後の村ポスターの縮小版)
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・関係ページ「銃後の郷土(目次ページ)」、「銃後の郷土(はじめに)」 |
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