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福重郷土史同好会
2014年の活動報告(5)

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松原郷土史講演会(報告概要)
日時:2014年9月7日14時05分〜16時15分、参加:26名 場所:松原地区住民センター(大会議室) 、講師:上野(福重郷土史同好会) 、主催:松原地区公民館連絡協議会

<主な内容>
上谷・会長挨拶
(概要)
 
本日は、ご多忙の中、松原地公連主催の松原郷土史講演会に、参加頂き感謝申し上げる。今日の講演会については、市の地公連が定めた年2回の研修会の第1回目として開催したものである。今回は、松原の郷土史を福重郷土史同好会の上野先生にお願いしたところ快くお引き受け頂き、大変有り難く思っている。(この後、司会者から講師の略歴などの紹介があったが内容は省略)

松原郷土史講演会の講演内容
(要旨)
  この講演会を企画、準備して下さった松原地区公民館連絡協議会、講演会案内チラシを各町内で配布して下さった各町内会長の皆様にお礼申し上げる。私の郷土史講演会は、「素人の、素人による、素人のための講演会」である。今日は、松原地区にある史跡や石仏に絞って話したい。どうか、気楽に聞いて頂き、逆に質疑応答などで皆様の方から、上野が知らない松原の史跡や歴史事項を教えて頂きたい。今日は、主に3点のテーマで、これから話したい。

1、松原八幡神社の石碑(鳥居、石灯籠、記念碑など)について
 これまで何十基もの石仏、石灯籠、記念碑などの拓本やCG加工をしていると、次の3つのキーポイントが大事だと言うことが分かった。1,建立年(月日) 2,建立者(団体、個人) 3,、建立名称や建立目的である。特に、先の二つが判明すれば、もう9割以上分かったも同然である。

 その尺度からして、松原八幡神社の鳥居、石灯籠、記念碑は、拓本作業などで碑文の意味は、ほとんど解明できている。その主な内容を、次に紹介したい。

(1)鳥居:肥前鳥居で建立年は寛文6(1666)年。建立者は彼杵本町・中嶋徳右衛門。  
(2)鳥居脇の大きな石灯籠:建立年は享和2 (1802)年8月、建立者は松原村の武士や村民。
(3)西側にある石燈籠:嘉永6 (1853)年10月、建立者は中嶋清次郎。
(4)題目五千回唱和記念碑:寛文8(1668) 年2月15日に南無妙法蓮華経を5000回(編)唱和し奉納。

松原郷土史講演会(会場)
主催者の松原地区公民館連絡協議会の皆様

2、松原地区にある馬頭観音について(現在7体まで確認)
  馬頭観音は、諸説あるが平安時代頃ににインドから伝来したと思われる。様々な説を集約し、分かりやすく言い換えると、「どこかの村や町で災いや魔などがあった場合、馬みたいな速いスピードで真っ先に駆けつけて退治して下さる」という主旨だったと思われる。

 大宰府市の観世音寺にある高さ5mの古い馬頭観音は、四面八臂(しめんはちひ=顔が4面、腕肘が8本)の形式だが、石像その他では三面八臂、三面六臂などが多く、馬頭観音に基本形はないとも言われている。

  中世から近代へと産業の発展にともない馬が、農業を始め輸送などで大活躍した。それと同時に怪我や病気もあったため、全国的に馬や動物の守り神様として、あるいは死んだら供養のために馬頭観音の建立が全国的に流行り、大変数も多い。

 現在では、トラックやトラクターになり、馬は見られなくなった。しかし、馬頭観音は、県内でも全国でも農業、交通安全の神様などとして祀られている地域や競馬場にも多い

  大村市内では推定ながら60〜70体あると言われている。その中で、松原地区には現時点で7体あるようだ。しかも、特徴あるものが多い。それを、これから標高の高い順に紹介したい。


(1)野田平原の馬頭観音、 (2)野岳の馬頭観音、 (3)武留路の馬頭観音、 (4)梶ノ尾の馬頭観音その1、(5)梶ノ尾の馬頭観音その2、 (6)梶ノ尾の馬頭観音その3 、 (7)寺本久津の馬頭観音である。松原の馬頭観音は、全体に姿形が良く、様々な特徴がある。

 また、「梶ノ尾の馬頭観音その1その2、その3」は、様々な経過があるが現在同じ場所で3体祀られているのは、市内でここ一か所だけである。しかも、「梶ノ尾の馬頭観音その1」は、ご神木の楠であり、大変珍しい。

3、松原と大村藩領絵図について
  この大村藩領絵図の作成着手年も、完成年も古記録にないため不明である。絵図の状況から、作成年間について様々な推定がされているが、「従来説」で言えば(概要)「1800年頃の大村領を描いたもの」とされているようだ。松原関係では、次の3項目が注目されるが、特に、(2)と(3)は重要である。

(1) 野岳堤(野岳湖)が描いてある。野岳堤完成=1663(寛文3)年より相当後である。
(2) 松原八幡神社が描かれていない。(1635年に武部で再興、その後に遷座。遷座年は不明)
(3)野岳村(庄屋含む)が描いてある。<1814(文化11)年、大村藩の行政改革前のことである>

  武部の丘から現在地へ遷座(引っ越し)年が判明すれば、大村藩領絵図の完成年を推定する上で大きな影響があるだろう。上野の推測ながら先の「従来説」より、相当早く作成・完成したのではないかと思っている。

(補足)松原八幡神社の創建は「従来説」よりも、相当古いと思われる
 あと、松原八幡神社の創建は、古記録がないため正確には不明である。しかし、これまで推定での「従来説」では、あたかも「鎌倉初期」みたいに言われてきたが、それは間違いと思われる。八幡宮(八幡神社)の歴史的な経過や、大分・福岡・佐賀・長崎県にある古代の八幡宮創建の経過からしても、そのことは分かる。(詳細内容は省略)

 以上の講演内容に対して、のべ5人ほどの方から質問や補足意見などがあった。(多岐にわたる質疑だったため、内容について省略)
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  松原郷土史講演会参加の皆様、大変お疲れ様でした。また、松原地区公民館連絡協議会の方々にはお世話になり、感謝申し上げます。

(以上)


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