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福重郷土史同好会
2021年の活動報告(5)

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ツツジの剪定後、終了ミーティング時、竈権現の地蔵について講話中(中央部は寿古町の常磐会、左側は講話中の上野)

 竈権現地蔵(右側)

寿古町・常磐会(ときわかい、老人会)で講話(概要報告)
日時:2021年5月30日09時05分〜09時15分
参加:約30名
場所:郡川の土手(堤防)の上
主催:寿古町・常磐会
テーマ:竈権現の地蔵(かまど7ごんげん の じぞう)
講話担当:上野
 
注:この講話の前に常磐会の皆様は、郡川の土手(堤防)の傾斜地にあるツツジの剪定作業をされた。その後の終了ミーティング時に、下記内容を10分間、講話した。

<講話概要>
 皆様、剪定作業、大変お疲れ様でした。会長と事前に相談したところ、テーマは何でも良いと言うことでした。ただし、今作成中の水害の本や郡川の話しをしますと1時間位かかりますので、今回10分間講話する内容として、近くにあります竈権現の地蔵のお話をします。主に、二つの点です。

1)記録の残るものとしては大村最古の地蔵
 この竈権現の地蔵は、非常にスマートです。この姿形をした形式をした地蔵で、さらにちゃんとした記録が残る地蔵では大村最古といわれています。この地蔵は、紙(大村郷村記)にも、地蔵本体の下の碑文にも建立の年月が、彫られていますので正確に分かっています。

地蔵の土台の碑文 (竈権現の)地蔵
 地蔵は、大村市内に沢山ありますが、このように建立年月日が分かってるのは少ないです。この拓本写真を、ご覧願います。(このページ右側3番目の拓本参照)。ここには、竈権現の地蔵の建立年月は、「寛延三庚午(かのえうま) (1750) 年九月上旬」です。

 なお、先ほど述べました通り、あくまでも、このタイプの地蔵で、建立年の記録が分かる範囲内で、大村最古と言ってます。地蔵の種類(形式)は、全く違うものの六地蔵ならば、「野田の六地蔵」や「今富の六地蔵」が古く、戦国時代に建立されたものです。

2)「竈権現は水害に遭ってない」は正しいのでは
 皆様の間で、「竈権現や地蔵は水害に遭ってない」という言い伝えがあると聞きました。これについては、正しいと思われます。この周辺は、郡川が直角に曲がる所で、川幅も120m位あり広いです。このように川でカーブした所は、水害が起きやすいです。しかし、何故この竈権現は、「水害に遭っていない」といわれて来たのでしょうか。

 まず、この竈権現の創建は、正確には分かっていないのですが、推測ながら戦国時代前後の頃に、まず好武城にあったといわれています。この好武城は、小高い所ですから、ここにあった当時は、全く水害に遭ってません。そして、天正2年(1574)に同じ寿古町にある大日堂でもお分かりの通り、キリシタンが僧侶の殺害、神社仏閣の焼打ち、略奪の限りをした時に一旦なくなったと思われます。

  そして、再建され寛永(かんえい)19年(1642年)9月19日に、この場所(現在地)に引っ越して(遷宮)してきたとの記録があります。それから明治24(1891)年9月 郡川の洪水で当時の寿古郷にあった福重村役場と福重小学校が流失しました。そのような大洪水であっても、竈権現と地蔵のある場所は、水は周囲に来たかもしれませんが、少し小高いため水害に遭わなかったと思われます。

 いずれにしましても、この竈権現は水害に遭ってないないから、こんな綺麗な状態で、お地蔵さんの形も残っていると思っています。寿古町の方は、このようなことや今回、好武城に避難場みたいに整備され、防災意識の高い町と理解しています。引き続き、この件はお願いします。

 また、私達の宣伝になりますが、この7月始め、昨年の大村水害1年目になります。そのことから、「2020年7月6日 大村水害」<写真と記録集>の本を、A4サイズ、オールカラー約110ページを発行します。この中には、寿古町の「平四郎井堰」が使えなくなったことや、国道周辺から水が来たことなども聞きましたので、その点も書いています。お買い求めを、どうかよろしく、お願いします。  (以上)

・関係ページ:「竈権現(かまど ごんげん)」  「竈権現の地蔵(かまど7ごんげん の じぞう)」 「2011年(寿古町にある)竈権現(かまど ごんげん)の例祭(概要報告)


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