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福重郷土史同好会
2021年の活動報告(5) |
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ツツジの剪定後、終了ミーティング時、竈権現の地蔵について講話中(中央部は寿古町の常磐会、左側は講話中の上野) | ||||||
寿古町・常磐会(ときわかい、老人会)で講話(概要報告) <講話概要>
なお、先ほど述べました通り、あくまでも、このタイプの地蔵で、建立年の記録が分かる範囲内で、大村最古と言ってます。地蔵の種類(形式)は、全く違うものの六地蔵ならば、「野田の六地蔵」や「今富の六地蔵」が古く、戦国時代に建立されたものです。 2)「竈権現は水害に遭ってない」は正しいのでは 皆様の間で、「竈権現や地蔵は水害に遭ってない」という言い伝えがあると聞きました。これについては、正しいと思われます。この周辺は、郡川が直角に曲がる所で、川幅も120m位あり広いです。このように川でカーブした所は、水害が起きやすいです。しかし、何故この竈権現は、「水害に遭っていない」といわれて来たのでしょうか。 まず、この竈権現の創建は、正確には分かっていないのですが、推測ながら戦国時代前後の頃に、まず好武城にあったといわれています。この好武城は、小高い所ですから、ここにあった当時は、全く水害に遭ってません。そして、天正2年(1574)に同じ寿古町にある大日堂でもお分かりの通り、キリシタンが僧侶の殺害、神社仏閣の焼打ち、略奪の限りをした時に一旦なくなったと思われます。 そして、再建され寛永(かんえい)19年(1642年)9月19日に、この場所(現在地)に引っ越して(遷宮)してきたとの記録があります。それから明治24(1891)年9月 郡川の洪水で当時の寿古郷にあった福重村役場と福重小学校が流失しました。そのような大洪水であっても、竈権現と地蔵のある場所は、水は周囲に来たかもしれませんが、少し小高いため水害に遭わなかったと思われます。 いずれにしましても、この竈権現は水害に遭ってないないから、こんな綺麗な状態で、お地蔵さんの形も残っていると思っています。寿古町の方は、このようなことや今回、好武城に避難場みたいに整備され、防災意識の高い町と理解しています。引き続き、この件はお願いします。 また、私達の宣伝になりますが、この7月始め、昨年の大村水害1年目になります。そのことから、「2020年7月6日 大村水害」<写真と記録集>の本を、A4サイズ、オールカラー約110ページを発行します。この中には、寿古町の「平四郎井堰」が使えなくなったことや、国道周辺から水が来たことなども聞きましたので、その点も書いています。お買い求めを、どうかよろしく、お願いします。 (以上) ・関係ページ:「竈権現(かまど ごんげん)」 「竈権現の地蔵(かまど7ごんげん の じぞう)」 「2011年(寿古町にある)竈権現(かまど ごんげん)の例祭(概要報告)」 |