大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など | (下原口公園の)掩体壕(えんたいごう) |
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(写真A) (下原口公園の)掩体壕(えんたいごう) (注:現在の状況は戦前より地面側へ全体1m位埋まっている) <掩体壕の上部設備、白色の手すり、階段はじめ左端側の遊具などは、戦前に当然なかったものである> |
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(下原口公園の)掩体壕(えんたいごう) 注1:先に下記の概要項目通り、概要のみを先に書き、後で詳細部分は記述していきたい。ただし、この「大村空襲・戦争遺跡・遺構など」シリーズは、あくまでも、その名称通りで、決して軍事専門ページではない。どちらかというと、大村の郷土史的な内容で書いている。そのため、航空機・軍事諸施設などは、必要最小限度の内容にしている。 注2:引用・参照文献は後でも追加していくが、2020年11月現在で、放虎原は語る(1999年3月31日、大村市発行、編者:第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会)、「軍都」大村の歩みと市民〜回顧1896ー1945(2015年度 大村市立史料館特別展の冊子)、むかしの竹松(1997年12月日 竹松を語る会 )などである。また、寿古町の増元氏が2012年8月9日・郡中学校を始め各小中学校で話された大村空襲の講演内容も引用・参照している。 用語解説:掩体壕(えんたいごう)とは、「デジタル大辞泉」によると、次の「」通りである。掩体壕=「戦闘機などを敵の爆撃から守るために建設された格納庫。コンクリート製でかまぼこ型のものが多い。バンカー。」 ・名称について:この「(下原口公園の)掩体壕(えんたいごう)」で頭部に付けている「(下原口公園の)」という部分は、当然、戦前当時の正式名称ではない。現在ある場所=大村市原口町、下原口公園内にあるためと、一般に多く使用されて分かりやすいので、今回この紹介ページでも使っている。また、戦前戦後、大村市内に存在した掩体壕は、この一つだけでなく、他にも掩体壕跡などもあるので、それらと区別するためにも、今回の名称とした。 掩体壕の概要紹介 まず、この掩体壕の場所は、現在の原口町の下原口公園内にある。次に、この掩体壕を簡単に解説すると、上記の国語辞典=「戦闘機などを敵の爆撃から守るために建設された格納庫。コンクリート製でかまぼこ型のものが多い」の通りである。 先の大戦当時、大村海軍航空隊で使用中の飛行機を空襲から守るため、頑丈な格納庫として使われた。造られた年は正確には不明だ。しかし、1944(昭和19)年撮影の航空写真(1944年撮影の写真F参照)に同じ場所で同じような形が、かすかに見えているので推測ながら1944年か、その前年頃ではないだろうか
あと、戦後のいつの時期か不明ながら、(写真A)の左側に、新たに約3m突き出すようにしてコンクリート製の階段(写真Bの右側)が付けられた。さらに、その階段から弧を描くようにして頂上部に登る通路、さらには裏面には滑り台(写真Bの左側)も付けられている。また、(写真AとB)に見えている白色の手すりも、当然新たに設置されたものである。 大きさの詳細は、後の項目で書くが、現在見るサイズでは横幅約27.5m、高さ約7mである。しかし、地面に掩体壕の底部が1mほど埋まっているため、戦前は高さ約8mか、それ以上あったと推測される。この壕の大きさからして戦闘機を(写真A)の正面側に機首(プロペラ)側、壕の奥側へ尾翼側を入れていたようだ。 このカマボコ形状の掩体壕ほぼ全部(天井、側面、正面、奥側とも)が、分厚いコンクリートで造られている。壕内部に柱などはなく、空洞である。その面は、現在見ても頑丈な造りである。推測ながら(2021年現在で)完成後、最低でも76年以上経過しているにも関わらず、ほぼ当時のままである。この頑丈な構造物は、ある意味、戦争遺跡としてだけで見るのではなく、当時の建築技術(水準)を推測できるものではないかとも思われる。 なお、人によっては、この掩体壕は直ぐ近くにあった第21海軍航空廠(航空機製造工場)の飛行機を格納したものと言われている方がいるが、それは違うと思われる。なぜなら、このような掩体壕は、まずもって実戦で使用中の飛行機を空襲から最優先で守るために造られているからである。つまり、大村海軍航空隊用の掩体壕と考えられる。 掩体壕の大きさ、緯度経度、特徴点など まずは、下表を参照願いたい。現在の掩体壕は遊具になって再利用されているので、戦後に付けられた階段、手すり、滑り台、屋根に登る通路や上部の展望所などは、先の大戦時にはなかったものである。そのため、当時と現在では、高さ、横幅、奥行などの大きさが、かなり違っている。 特に、掩体壕の底部が約1m地面に埋まっているため、一見して戦闘機の格納庫にしては低すぎることが、誰にでも分かる。そのようなことから、下表の「当時の推定の大きさ」は、あくまでも上野の個人的な推定であり、参考程度に閲覧願いたい。
ここで、あくまでも、ご参考程度に、海軍の戦闘機で有名なゼロ戦(零戦)を例に挙げて書いていく。ただし、同じような機種に見えても、このゼロ戦は、型式(用途)によって本当に様々ある。 そのようなことから、極めて大雑把な大きさ(サイズ)だが、ゼロ戦は、高さ(プロペラの上部含めて)約4m、横幅(主翼の左右両端間)は約11m、機体の長さは約9mであった。今回紹介の掩体壕が、今みたいに地面に埋まっていない当時の状態ならば、ゼロ戦(零戦)と同じか、やや小さいサイズの戦闘機ならば格納できたと推測される。 ・掩体壕内部の造り (写真B、C、D、Eを参照)この4枚の写真を見ると、掩体壕は、カマボコ形状と分かる。また、そのほぼ全部(天井、側面、正面、奥側とも)が、分厚いコンクリートで造られている。 壕内部に柱などは全くない、空洞である。(写真Dだけでは分かりにくいが、肉眼で見ると、その内部面は、現在見ても頑丈な造りで良くできている。私の推測ながら(2021年現在で)完成後、最低でも76年以上経過しているにも関わらず、ほぼ当時のままである。 私は、建築も素人であるが、たぶん、分厚いコンクリートによる上部から重量(対地過重)を掩体壕全体で支える構造になっているのだろう。しかも、どこにも柱がないので、それはコンクリート自ら4方面から過重分散して持ちこたえているのかもしれない。この頑丈な構造物は、ある意味、掩体壕を戦争遺跡としてだけで見るのではなく、当時の建築技術(水準)を推測できるものではないかとも思われる。 ・大村海軍航空隊用の掩体壕と思われる まず、(写真F)を参照して下さい。<なお、この写真の拡大版は「大村海軍航空隊」ページを参照> (下原口公園の)掩体壕の場所は、この写真の右端側のやや上部になる。(現在の桜ヶ原中学校の正門より北側へ約120m周辺) この(写真F)中央部右側に広がって、白っぽい色で良く分かるのが、草地の飛行場である。その東端側(本写真では上部側)からの線を南側(写真の右側)へ約280m引っ張った(行った)所が、掩体壕である。
そして、この掩体壕は、大村海軍航空隊用か、または第21海軍航空廠(航空機製造工場)の飛行機用だったかの件である。極普通に考えれば、この分厚いコンクリートで造らた掩体壕は、実戦で使用中の飛行機を空襲から最優先で守るために造られている。 そして、第21海軍航空廠用の格納庫は、飛行機の各種作動状況や、飛行テストを繰り返す関係上、製造工場近くの格納庫(現在の海上自衛隊・大村航空基地使用のハンガーなど)を使っていたと思われるからである。 また、この掩体壕の南側近くには、当時の国鉄・竹松駅から第21海軍航空廠への引き込み線路もあった。(現在の桜ヶ原中学校の正門前の道路周辺) この周辺は、全部平地だったとはいえ、線路をまたいで飛行機が行き来するのは何かと問題もあったと想像される。 以上のことから、この掩体壕は、大村海軍航空隊用で、アメリカ軍の激しい空襲から1機のみとはいえ、直ぐに実戦用=飛び立つことのできる大事な飛行機を格納していたと思える。いずれにしても、今後も当時の資料の調査が必要であろう。 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2021年7月23日、第2次掲載日:8月3日、第3次掲載日:8月7日、第4次掲載日:8月13日、第5次掲載日:8月16日、第6次掲載日: 月 日) --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ <古写真や資料提供のお願い> 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 下記3講演内容の詳細報告 | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) | 掲載中 |
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