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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など   釜川内空襲 
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(写真A)  大村市陰平町、釜川内にある「どん牛山展望台」中央部にある釜川内空襲記念碑。ここからの眺望は抜群で大村湾、玖島崎、臼島、寺島、市街地、広い宮崎新田、国立長崎医療センターや、遠くには多良山系の山並みまでも一望できる。
釜川内空襲-----妊娠中の女性まで機銃で射殺された

釜川内空襲の概要(注:この項目は箇条書きの概要のみで詳細は後の項目を参照)
 ・名称:(陰平町)「釜川内空襲(かまかわち くうしゅう)
 ・年月日:1945(昭和20)年7月5日の正午頃
 ・場所:大村市陰平町、釜川内の集落で発生した
 ・犠牲者:(妊娠中の)女性1名(氏名も分かっている)
 ・罹災:民家2戸が全焼(両家の場所も分かっている)

 ・釜川内空襲記念碑(写真A参照)が、大変見晴らしの良い「どん牛山展望台(標高約97m、緯度経度:32度52分58.91秒 129度58分05.63秒)にある。ただし、ここは、あくまでも記念碑の建立地であって、空襲の場所ではない。
 ・空襲柿の木:全焼した家とともに柿の木2本も燃えたが、その内の1本は幹が大きく溝(空洞)のようになりながらも、その後も成長を続けて、現在高さ約5mとなっている。
 ・聞き取り調査と参考資料:地元の方4名に教えて頂いた。あと、長崎新聞(2011年8月12日発行)「水や空」内容を参照した。
 ・戦争遺跡や空襲関係の詳しい方からの情報提供も参照して書いた。

(写真B) 陰平町、釜川内空襲全焼になった民家跡(畑)
もう1戸も判明しているが住んでおられるので写真は未掲載。
(写真C)  陰平町、釜川内空襲記念碑
空襲記念碑が大村市内にあるのは珍しい。
釜川内空襲について
 上記の釜川内空襲概要にも書いていますが、この空襲の主な内容は、一つに女性がアメリカ軍機の機銃によって射殺されたこと、二つ目に2戸の民家が全焼したことです。そのような内容を分かりやすく記述してあるのが、下記の空襲記念碑の建立にあたっての趣意書です。なお、女性の犠牲者名は判明しているが、現段階では上野の方で「-----氏」と書き直しています。

釜川内空襲記念碑追悼碑建立の趣意書の内容
 次の「」内の青文字が趣意書からの引用全文です。(なお、原文をホームページ用に改行や句読点を一部変更)
 「 追悼碑建立の趣意書  謹呈 縁滴る暑夏の候、諸氏諸兄におかれましてはご清祥のこととお慶び申し上げます。多良の山並み、琴湖の梅、古松の緑に育まれ、老いも若きも日々の暮らしの営みに勤しみおりし長閑なるこの鈴田の地にもかつて悲惨なる戦禍の歴史があったことを後世仁残さんがため、今般、有志を募り碑を建立させていただくこととなりました。

 過ぐること六十幾星霜、正に太平洋戦争終戦前夜の昭和二十年七月五日、この長閑なる鈴田釜川内が空襲に見舞われ、尊き若き婦人の生命が奪われ大事なる家屋二棟が焼失せしめられました。同世代はさておき、子たる五十六十代、いわんや孫たる十二十代の若き世代に至っては、この惨禍を知ることもなく現世を享受しあるのみなのです。

 ここに、悲惨な戦禍を愁い、悠久なる恒久平和を祈念しつつ、幾世代にもわたる言付けを残さんがため、碑建立を発案致した次第です。市整備によって展望の拓けた陰平町釜川内ドンギュウの丘頂に稗を建立させていただきました。 諸氏諸兄のご理解とご賛同を賜りたくご案内を申しあげる次第でございます。 敬具   平成二十四年七月五日 追悼碑建立有志一同

 付記 事件の概要は左の如し
 昭和二十年七月五日正午頃、空母を発進した米空軍グラマン戦闘爆撃機が大村の海軍基地爆撃の折、日本海軍が空襲回避のため一時疎闘して鈴田釜川内に保管していた航空燃料用ドラム缶三百本を空襲しました。高度五十メートルの低空で侵入し、ロケット弾と機銃掃射による空襲は、釜川内を瞬く間に火の海に変え、その煽りで民家二棟が全焼し、たまたま居合わせた住民の-----氏が貫通銃創を受けて犠牲となられました。波静かな入り江の片田舎、釜川内が襲われた乾坤一撫の悲劇であり悲惨な戦争の災禍でありました。


妊娠中の女性まで機銃で射殺された
 この項目内容は、地元の4名の方に教えて頂きました。特に、その中には、米軍機が上空から狙っていた航空燃料が入っていたドラム缶約300本が置いてあった場所近くの方、(後の項目で紹介の)「空襲柿の木」が敷地内にある方、つまり空襲で全焼された家人からの情報です。

 また、同様のことが、長崎新聞(2011年8月12日発行)「水や空」、さらには先の項目「追悼碑建立の趣意書の内容」にも書いてありました。それらをまとめますと、釜川内空襲の日時、(冒頭の「概要」項目に書いています通り)1945(昭和20)年7月5日の正午頃です。米軍機が主に銃撃した場所が、主に4か所(航空燃料貯蔵場所、全焼の民家2戸、銃撃された女性)です。(念のため、この空襲4か所は正確に特定できているがホームページ上、その表記はせず。空襲記念碑のある場所のみ写真Dの左下部=として図示している。ただし、ここは記念碑がある場所であって、空襲の場所ではない)
 (写真D)  陰平町、A釜川内空襲記念碑のあるどん牛山展望台
釜川内空襲4か所も特定できているがホームページ上、表記していない。

 この銃撃された「------氏」は、たまたま遊びか何かの用事で、釜川内に来ておられたようです。そして、釜川内空襲時にアメリカ軍機から銃撃を受け、手当する間もなく亡くなられたそうです。妊娠中の女性でした。当時の1945(昭和)20)年7月5日といえば、あと、一か月少しで終戦という日時でした。

 先の長崎新聞には、親族の話しとして、「(前略) おなかに赤ちゃんがいたと聞き、気の毒でならなかった。(後略)」とも書いてあります。また、この銃撃内容は、先の「追悼碑建立の趣意書の内容」を引用すれば、「(前略) 米空軍グラマン戦闘爆撃機が (中略) 高度五十メートルの低空で侵入し、ロケット弾と機銃掃射による空襲 (後略)」だったとのことです。

 この50mという至近距離ならば機上のパイロットからも、逆に地上からも、お互いの顔が見えるほどだったと推測されます。つまり、米軍機から地上にいる人を見れば、武器を持った日本軍の兵隊か、武器を全く持たない民間人(しかも女性)くらいは、識別できたはずです。しかし、逃げ遅れられたのか不幸にも「------氏」は、銃撃、射殺されました。

大村市内の砲台各所への一斉攻撃(空襲)だった可能性も?
 この釜川内空襲と同じ年月日=1945(昭和20)年7月5日に、(福重地区の)今富町、福重砲台(通称今富砲台周辺では、当時の福重国民学校(現・福重小学校)に通う9歳の児童が、逃げ遅れて米軍機の機銃で銃撃を受け死亡しました。先の妊娠中の女性も、9歳の児童も一国民ではあっても、兵隊のような戦闘要員ではなかったのです。しかし、戦争は、空襲は、弱い立場の人まで犠牲になったのでした。

 なお、この日、1945(昭和20)年7月5日は、上記の釜川内福重砲台(通称今富砲台の空襲だけではなく、東ノ浦砲台諏訪砲台などへもアメリカ軍よりの攻撃(空襲)があったようです。私は、この件の詳細は、後で調べて掲載しようと考えています。このようなことから、この日のアメリカ軍の攻撃目標は、大村市内にあった砲台(防空砲台、高射砲陣地)の破壊であったのではないでしょうか? 

 つまり、この釜川内空襲が起こった第一次的な要因は、現地から(直線で)約1km離れているで東ノ浦砲台への攻撃が主目的だったかもしれません。アメリカ軍は、その砲台への攻撃進入コースの眼下(大村湾の入江沿い近く)にあった釜川内航空燃料の貯蔵所を見つけて、空襲をしてきたのではないでしょうか? この件は、上野の推測で書いているので、できればアメリカ軍作成による釜川内空襲の空襲日報(戦時日報)などが見つかれば、より詳細なことが判明できると思われます。

 (写真E)  陰平町、空襲に遭い幹が溝(空洞)になっても
力強く成長してきた空襲柿の木
釜川内空襲の”生き証人”、「空襲柿の木」は何を語っているのか
 まず、名称、空襲の年月日、大きさ、場所などについて、箇条書きします。なお、場所は個人宅の敷地内にあるためホームページ上、記述していません、念のため、(写真E)を撮っているので、その場所は、特定できています。
 ・名称:(釜川内の)空襲柿の木 (写真E)を参照
 ・空襲の年月日:1945(昭和20)年7月5日の正午頃
 ・大きさ:高さ約5m、幹回り約1m
 ・場所:大村市陰平町、個人宅敷地内

 この空襲柿の木について、上野は、2020年8月9日、大村ケーブルテレビのカメラマンへ、釜川内空襲で全焼された2戸の民家(跡)を案内、説明していました。すると偶然にも、空襲で全焼された1戸の家の方=柿の木所有者の方から、この木の存在を教えて頂きました。その後も含め合計4回お会いしました。お話の内容は、主に次の<>内の青文字です。

  ここは(戦前)釜川内空襲があった時、燃やされた。その時、(敷地内には)2本の柿の木があった。内1本は燃え尽きた。残り1本は一緒に燃えながらも生き残り、成長続けた"空襲柿の木"がある。長崎市には”被爆クスノキ”があるが、この空襲柿の木も是非見て、他の方にも知らせて欲しい。 (注:空襲の年月日や、柿の木の大きさなどは先の内容を参照)

・空襲の悲惨さ、平和の尊さを訴え続ける”空襲柿の木”
 ここからは、私の補足説明と感想です。この空襲柿の木は、猛火に逢い、(写真E)通り幹が大きく二つに分かれ、中央部が溝(空洞)のような形状になっています。しかし、戦後も75年間以上、そのまま成長を続けてきたと思われます。

 まさに、この空襲柿の木は、今では大村市内で数少ない空襲当時を物語る”生き証人”です。さらに言えば、幹部分が燃えながらも、力強く成長を続けている植物の力強い生命力さえ感じるものです。柿の木は、寿命が長い木ですが、もっと長く生きて自らの姿から空襲の悲惨さ、平和の尊さを訴え続けて欲しいとも思いました。

 ご参考までに:この空襲柿の木ついては、大村ケーブルにて2020年8月14日から(再放送含めて)「あの時代を忘れない 〜戦時中の大村」の番組、また、同年8月18日、長崎新聞12ページにて報道されました。

空襲時の銃弾の写真
 
この鈴田地区・釜川内には、例えば西大村や竹松地区に数多くあった軍事施設みたいなものは、元々なかった地域です。ところが、先に紹介した「追悼碑建立の趣意書」の項目に、次の「」内が記述してあります。 「 (前略) 日本海軍が空襲回避のため一時疎闘して鈴田釜川内に保管していた航空燃料用ドラム缶三百本を空襲しました。 (後略)

(写真F) 釜川内の空襲時の銃弾(地元の方が所有)
 
(写真D)  陰平町、A釜川内空襲記念碑のあるどん牛山展望台
釜川内空襲4か所も特定できているがホームページ上、表記していない。
 この内容でもお分かりの通り、一時期、(写真Dの空中写真参照) 釜川内の海岸沿いの所(現在は民家の敷地も含む。注:その場所は特定できている)に、大村海軍航空隊所属の飛行機用か、それに関係するような航空燃料が、ドラム缶で300本置いてあったということです。そして、それを見つけたアメリカ軍機が、機銃掃射を浴びせました。

 この時に、航空燃料だけでなく先の項目に書きました通り、女性1名の射殺を始め民家2戸も全焼したのでした。その時に、沢山の銃弾(弾丸)が周辺めがけて撃ち込まれました。 (写真F)は、地元の方が所有されている銃弾ですが、その内の極一部と思われます。目測ながら、大きさは3cm〜5cmでした。
(ご参考までに、機銃の弾丸は普通のピストル弾より大きい)

 念のため、上野は、この銃弾所有者の紹介と許可を得て撮影していますので、当然、その経過や周辺についての証言も、お聞きしました。ただし、ホームページ上、所有者のことも、特定された場所の件も書いていません。

 あと、この
釜川内空襲の主な場所は、最低でも4か所(女性の死亡場所、全焼の民家2戸の敷地、航空燃料の貯蔵場所)が、ほぼ特定できました。その場所は、北に向いて(北西から南東か、その逆かの方向で)やや斜め位置に並んでいます。アメリカ軍機が銃弾を撃ち込んだ場所は、当然もっと多かったと推測されます。なお、弾痕(だんこん=弾丸の当たったあと。広辞苑より)も、例えば家の壁・石垣・石材などにないかも調べました。しかし、(2020年7月現在で)分かりませんでした。

 いずれにしましても、現在の(写真A・B・D)でも、お分かりの通り、釜川内の近くは、波静かな大村湾や広い宮崎新田が広がり、遠くには多良山系の山並みが眺望でき、さらに空襲場所周辺は田園地帯です。戦前の状況は、今よりもっと静かで、のどかな釜川内で、全く戦争や空襲なととは無縁と思われた場所だったでしょう。しかし、その場所でさえ、先の(写真F)の銃弾が何十何百発と撃ち込まれたのでした。

 この銃弾は、元はアメリカ軍機が釜川内に撃ち込んだものですが、今では戦争や空襲の悲惨さを物語る数少ない当時の証拠の品でもあります。

大村市は21航空廠以外の各地域の大村空襲について、何の広報もしていない
 この項目は、先に掲載中の「大村空襲-----身近な地域でも空襲はあった」ページと一部重複内容もあり、その点は、あらかじめご了承願います。大村市は、誰でも分かりやすいパンフレット、大村市広報誌、大村市ホームページ類などには、戦後約75年間(2020年8月現在で)大村での空襲といえば、第21航空廠(航空機製造工場)であった空襲しか掲載してありません。

 しかし、第21航空廠以外の市内各地域でも空襲があって、その犠牲者数や罹災数は、キチンと
(昭和時代の)市統計表や大村市史に詳細記述がしてあるにも関わらず、広報はされていないのです。 ただし、先の大村市史や大村市の統計表には、その大村空襲の「犠牲者数59名、罹災世帯数634戸、人員2,889名」と明確に書いてあります。(詳細は、ここからご覧下さい)  当然、市立小中学校でも先と同じ校区内で起こった身近な空襲のことは、話そうにも聞こうにも市の広報物がなかったのですから、今まで出来ませんでした。

 (写真C)  陰平町、釜川内空襲記念碑
空襲記念碑が大村市内にあるのは珍しい。
 私は、戦後75周年の今年(2020年)7月15日に「大村空襲(冊子=A4サイズの14ページ)、8月13日に「(釜川内)空襲柿の木」紹介文(A4サイズの2ページ)を大村市役所の関係4部署へも持参しました。そして、「各地域であった空襲も広報して欲しい」 「身近な(校区内)の空襲として小中学校生や市民へも話し、後世に伝えるように願う」 「大村空襲の内容は(昭和時代の)大村市の統計表と大村市史通りで良いので直ぐに書けるはずだ」と要望しました。しかし、8月末現在で、何ら動きはありませんでした。

 なお、本ページの釜川内空襲については、既に長崎新聞で数回、大村ケーブルテレビでも報道されています。しかし、大村市は、先に述べたように釜川内空襲記念碑まである、これだけ分かりやすい空襲内容でさえ何の広報もされていません。

 この大村市のやり方は、大村の空襲といえば「第21航空廠しかなかった」みたいな広報で、これでは事実と全く違う、まるで各地での犠牲者や罹災者を差別するようなやり方です。どうして、同じ市民・同じ人として大村市は広報できないのか、甚だ疑問を感じています。


補足

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



 (初回掲載日:2020年8月17日、第2次掲載日:8月19日、第3次掲載日:8月21日、第4次掲載日:8月23日、第5次掲載日:8月25日、第6次掲載日:9月1日、第7次掲載日:9月2日、第8次掲載日: 月 日)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  下記3講演内容の詳細報告 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) 掲載中
       
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