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空襲柿の木---”大村空襲の生き証人”

(写真1) 陰平町、空襲に遭い幹が溝(空洞)になっても
力強く成長してきた空襲柿の木
空襲柿の木の概要(注:この項目は箇条書きの概要のみで詳細は後の項目を参照)
 ・名称:(陰平町)「空襲柿の木(くうしゅう かきのき)
 ・空襲年月日:1945(昭和20)年7月5日の正午頃
 ・場所:大村市陰平町、釜川内の民家の敷地で発生した
 ・被害:(植物)カキノキ(柿の木)2本の内1本のみ生き残った
 ・罹災状況:釜川内空襲で、民家2戸が全焼した内の一戸の敷地内に空襲柿の木はある
 ・大きさ:高さ約5m、幹回り約1m
 ・形状と成長:幹の中央部が溝(空洞)になりながらも、1945年から2020年現在で約75年間、成長してきた

用語解説(広辞苑より)
 柿(かき、カキ)=(1)カキノキ科の落葉高木。高さ約10メートルに達する。葉は革質。6月頃黄色4弁の雌花と雄花をつける。雌雄同株。果実は黄赤色、大形の液果で、甘柿と渋柿があり、生食用、また乾柿とする。材は器具用・建築用。また若い果実から渋をとる。東アジア温帯固有の果樹で、長江流域に野生、日本に輸入されて古くから栽培。


釜川内空襲と、空襲柿の木の紹介
 大村市陰平町、どん牛山(展望台)にある空襲記念碑の建立時に作成された「追悼碑建立の趣意書 」を参照し、簡略して書きますと、この釜川内空襲の概要と、空襲柿の木は、次の通りです。

釜川内空襲とは
 1945(昭和20)年7月5日、アメリカ軍機が、陰平町、釜河内周辺に攻撃(空襲)をおこないました。その狙いは、釜河内の海沿いに貯蔵されていた航空用燃料用ドラム缶300本で、そこにロケット弾や機銃を打ち込みました。そして、(その進入路近くの)民家2棟も全焼に遭いました。 (この空襲の詳細は「釜川内の空襲」ページを参照)

・空襲柿の木とは

 その内の一軒の民家敷地内にあった柿の木2本(門口付近の1本と、家屋の裏手付近の1本)も燃えました。しかし、幹の中央部が溝(空洞)になりながらも、先の裏手付近にあった柿の木は、その後も約75年間(2020年現在)成長を続けて、(目測ながら)高さ約5m幹回り約1mあります。これが、空襲柿の木の由来と現在の状況です。

(写真2) 民家の裏手にある空襲柿の木(説明文は上記参照)
・感想など
 ここからは、上野の感想ですが、幹が空洞になるくらいに焼かれながらも必死に生きてきた(成長してきた)植物の生命力に、まず驚かされました。それと同時に、釜河内空襲ひいては大村空襲を実際の姿で今に伝える”生き証人”だなあとも思いました。

 釜川内の当時の状況は、静かな大村湾の入江近くで、周りは田畑しかないような平和な地域でした。しかし、一たび戦争になって空襲に遭えば、犠牲者(妊娠した女性1名が貫通銃創を受けて死亡)も出て、民家も焼かれてしまいました。

 このように、戦場は、空襲は、身近な所でもあったのです。そして、また、この空襲柿の木は、現在生きている私達へ、「二度と自分みたいな空襲の被害に遭わないでくれ。そのためにも平和な世の中で、ずっとあってくれ!」と、全身を持って訴えているようにも感じました。

・関係ページ: 「釜川内の空襲」 「大村空襲・戦争遺跡・遺構など(もくじページ)」 

 (初回掲載日:2020年10月29日、第2次掲載日:12月8日、第3次掲載日: 月 日)
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<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  下記3講演内容の詳細報告 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) 掲載中
       
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