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大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ  深澤儀太夫勝幸(ふかざわ ぎだいゆう かつゆき)  


 深澤儀太夫勝幸(ふかざわ ぎだいゆう かつゆき) 
深澤儀太夫勝幸   大村や東彼杵へ沢山の公共工事をした人
               
九州で始めて、網で捕鯨する方法を教えた先駆者

 
注:右側の深澤儀太夫勝幸の肖像画は、東彼杵町歴史民俗史料館の掲示物で許可を得て撮影したもの。
深澤儀太夫勝幸の略歴
 ・生まれ---1612(慶長17)年、大村 (初代 深澤儀太夫勝清の実弟)
 ・育ち---大村と思われる。当時の名前は浅井庄兵衛勝幸
 ・死去---1694(元禄7)年7月16日 ・享年---83歳 ・墓碑--長安寺の墓地
 ・家督相続---1663 (寛文3)年、大村藩主の大村純長より30人扶持(ぶち)を賜る

 ・九州で鯨を網で捕る(網組)の始祖---1681(貞亨元)年(73歳の時)に紀州(現在の和歌山県)太地浦(たいじうら、現在の太地町)で鯨を網で捕る方法を見学、学ぶ。帰郷後、壱州(現在の長崎県壱岐市)勝本にて九州で初めて網で鯨を捕る方法を始めた網組で九州の始祖(元祖、創始者)と呼ばれている。

 ・捕鯨で得た巨万の富は、大村藩の要請もあり、現・大村市や東彼杵町で沢山のため池を築堤した。 様々な公共工事の内、仮にため池だけと限定した場合、(上野調べながら)この二代目の儀太夫勝幸は、初代より大規模なため池工事を実施したと推測される。

初代・深澤儀太夫勝清に勝るとも劣らないくらい公共工事もおこなった人
大村市野田町、上部は赤似田堤(グーグルアースより)
大村市野田町、本倉上堤(もとくら かみつつみ)
大村市野田町、本倉下堤(もとくらしもつつみ)
東彼杵町蕪郷、蕪堤(かぶらつつみ)蕪池(かぶらいけ) 
東彼杵町蕪郷、鹿ノ丸堤(かのまるつつみ)鹿ノ丸池(かのまるいけ)
東彼杵町蕪郷、中堤(なかつつみ)中池(なかいけ)
 深澤儀太夫勝幸の功績(公共事業など)について、直ぐに分かりやすい資料類として、主に次の三つがある。(1)大村史話中巻(1974年5月、大村史談会、河野忠博氏の執筆)、(2)東彼杵町平仁田郷にある三井木場堤(三井木場池)近くにある大きな観光案内板、(3)大村市東野岳町にある儀太夫記念館内の掲示物である。ただし、(3)の大村市管轄の掲示物の表記には、明らかな間違いがあるので、ご注意願いたい。

 先の三つに記述、表記されている内容を簡略し、さらには大村市内東彼杵町内の公共工事とに分けて、下記は書いている。なお、このページだけではないが、文中に書いている「(つつみ)」の表記は、江戸時代に大村藩によって編纂された郷村記」 通称「(大村)郷村記(大村領内全村の総合調査報告書みたいなもの)溜池(ためいけ)の表記に「(つつみ)」との語句で多く使われている。当然、「ため池」も「」も同意語で、野岳大堤(のだけおおつつみ)みたいな大きな堤は現在では「野岳湖(のだけこ)」と称されている。
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大村市内にある深澤儀太夫勝幸が築堤したため池
 ・赤似田堤(あかにた つつみ)-----野田町(福重地区最大のため池で市内でも6番目か7番目に大きい) この堤は江戸時代初期の寛文年間(1661年から1670年)頃に築堤されたといわれている。ただし、後世の1940年頃に堤防(堰堤)が、約1.5メートルかさあげさtれたので貯水量が当初より大幅に増えている。(詳細は「赤似田堤」を参照)

 ・本倉堤(もとくら つつみ)-----野田町の字(あざ)「本倉、他にも漢字違いで元倉、本蔵があり」には、大小5つ程のため池があった。この「本倉上堤」「本倉下堤(もとくらしもつつみ」含めて5つ程の溜池(ためいけ)の内、最上部の堤を通常は「本倉堤」か「本倉上堤(もとくらかみつつみ)」と呼称されている。築堤年について、この地域の新田開発延宝7年(1679年)なので、同時期に「本倉上堤」も築堤された。

 もしも、他の小堤も周辺の新田開発が同年代ならば同様同時期の可能性はある。あと、後世のことながら先の大戦時、最下部位置にあった「小堤のニつは空襲(爆弾)によって破壊された」と聞いたことがある。(詳細は「本倉上堤(もとくらかみつつみ)」と「本倉下堤(もとくらしもつつみ)」紹介ページを参照)
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東彼杵町内にある深澤儀太夫勝幸が築堤したため池
 二代目の深澤儀太夫勝幸による公共工事は、上記の大村市内より、むしろ東彼杵町内の方が大規模で、しかも築堤した溜池(ためいけ)の数も多い。それは、何故か?

 当時の大村藩からの要請なども含めれば、いくつかの理由があったと思われる。その中でも、築堤された堤周辺(現在の東彼杵町の蕪郷、中岳郷など)は、深澤儀太夫勝幸及び一族の私領(注:用語解説を参照)としての新田開発されたと推測されるからだ。(「東彼杵町誌 上巻」を参照)
 私領用語解説(デジタル大辞泉より)
1 古代・中世、地方官人や有力農民などの個人の所有地。私有地。⇔公領。
2 江戸時代、幕府の直轄地に対して、大名・旗本・御家人の領地。

 ・蕪堤(かぶら つつみ)東彼杵町蕪郷(右側列の写真参照)

 ・鹿ノ丸(かのまる つつみ)東彼杵町中岳郷(右側列の写真参照)

 ・中堤(なか つつみ)東彼杵町中岳町(右側列の写真参照)

 ・瀬滝堤(せだき つつみ)東彼杵町

 ・上記の全部の堤(ため池)周辺の新田開発

 *右側列の写真の注:堤(池)の撮影時、ほぼ全て広角レンズを使った。そのため、標準レンズより、かなり(特に左右側)が湾曲(わんきょく)して写っている点は、ご容赦願いたい。 なお、蕪堤(かぶらつつみ)、鹿ノ丸堤(かのまるつつみ)、中堤(なかつつみ)の3枚写真とも写真の奥中央部周辺に堤防(堰堤、突堤)がある。

深澤儀太夫勝幸の墓
 

   (この原稿は現在、準備中)。しばらく、お待ち下さい)



関係ページ:(初代の))「深澤儀太夫勝清」「
赤似田堤('あかにた つつみ)」「本倉堤(本蔵堤、もとくら つつみ)」 「本倉下堤(もとくらしもつつみ)
初回掲載日:2023年4月29日、第二次掲載:5月8日、第三次掲載:5月15日、第三次掲載:5月8日、

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