福重の名所旧跡や地形
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本倉下堤(野田町)
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本倉下堤(もとくら しもつつみ) | 場所:長崎県大村市 野田町 |
本蔵の新田開発時に造られた溜池 本倉の地名について、他にも漢字違いで元倉、本蔵などがある。どの地名も現在でも使われている。<今回(大村)郷村記の名称:本倉下堤で紹介したい> この堤の築堤年は延宝7年(1679年)頃である。この年から本蔵地域の新田開発が始まった。ため池の広さは、目算ながら(現在)南北約6m、東西約22mである。本蔵地域には、この本倉下堤以外にも、本倉上堤など4池ほどある。(左側写真:本倉下堤、2004年3月7日に東側から写した) |
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下記写真:本倉下堤・本倉上堤・本倉小堤や、本倉権現などの位置関係の分かる空中写真(グーグルアースに彩色した) <本倉小堤は本倉に小堤の同名称で合計3つある内の一つであるが、現在、竹やぶになっているため視認できない> |
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概要紹介 大村市野田町(旧・野田郷)の本倉(元倉、本蔵)地域は、鯨取りの深澤儀太夫(ふかざわ ぎだいゆう)の三代目の資金により、延宝7年(1679年)から何年間かかけて本倉上堤などの築堤を始め、新たな水田が造られたと推測されます。<この本倉の新田開発が何故おこなわれたかなどの詳細内容は、本倉上堤ページから参照願います>
しかし、1944〜1945年(昭和19〜20年)、アメリカ軍の大村空襲により、この本倉下堤より下流側<北側=佐奈河内川(さながわちがわ)方向)にあった「本倉小堤」の2つは、爆弾の直撃を受け破壊されたと、野田町で伝承されています。 <念のため、上記2番目の写真中央上部で水色の点線で囲んでいる(民家近くにある)小堤の一つは、現存していますが、竹やぶになっているため視認できない状況です> この本倉下堤は、本倉上堤より、(現在見ても)大きさや貯水量は小さいです。しかし、先の空襲以前まで存在した本倉地域の5つの中では、2番目の規模です。また、同地域にあった5つの堤(ため池)の中では、中間部にあり、また、本倉権現へ行く道の近くで下流側<北側=佐奈河内川(さながわちがわ)方向>にもあるので見えていて分かりやすい場所です。 本倉下堤(ため池)の広さは、目算ながら(現在)南北約6m、東西約22mで、このページ掲載の写真撮影日(2004年3月7日)には、一部ため池の底も見えていることから、あまり深くない溜池(ため池)であることも分かります。 (大村)郷村記の記述内容 この本倉下堤について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)98ページに、本倉下堤として記述されています。なお、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
一 本倉下堤 根切長拾壱間 根切横壱間半 土居長拾四間 築留横三尺弐寸 直立壱間 尺八壱間弐尺 懸田七畝廿八歩半 藏入 ・現代語訳 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように句読点の挿入、あるいは太文字や改行など変えています。 なお、「根切」「土居」「築留」「直立」などの用語は、現在もダム、用水路、土木や住宅建設時などに使用されている場合もあります。しかし、江戸時代の堤(ため池)表示の用語と、現在も全部一致しているかといいますと、そうでない内容もあるようなので、あえて( )内の補注などはしませんでした。 < 一つ 本倉下堤(もとくらしもつつみ) 根切長は約20m 、 根切横は約2.7m。 土居長は約25m 、 築留の横幅は約1m。 直立は約1.8m 、 尺八(水量調整用の栓ある所)の長さは約2.4m。 右の堤(注:本倉下堤堤のこと)の、(水を供給する)耕作地(面積)は約792平方メートルである。 (この耕作地は)藏入(大村藩の直轄地)である。> 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 698.145 関係ホームページ:・<本倉下堤から南東(傾斜地を登った方向)へ約130mの所にある>『本倉上堤』 、 ・(本倉下堤から南南東(登った方向)へ約75mの所にある)『本蔵権現』 、 ・(本倉上堤の北側脇にある)『野田の六地蔵』 、
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