(大村市内での)浦安の舞(うらやすのまい)
まず、この浦安の舞は、宮内省雅楽部楽長だった多忠朝(おおの ただとも)氏が、1940年(昭和15)に作られ、当時から全国にある神社や儀式(式典)などで披露されている舞です。下記<>内の(国語辞典)大辞林の解説も参照願います。今回、このページ作成にあたり、大村ケーブルテレビ報道部の皆様から大村市内で披露されている浦安の舞の情報提供を頂きました。
< 浦安の舞(うらやすのまい)=神事舞の一。1940年(昭和15)の皇紀二千六百年祝典の際に作られたもの。上代の手振りをしのぶ、荘重典雅な女舞。>(大辞林より)
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浦安の舞、扇の舞(松原八幡神社、2016年11月19日撮影) |
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浦安の舞、鈴の舞(松原八幡神社、2016年11月19日撮影) |
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浦安の舞、鈴の舞(田下町の氷川神社、2012年10月14日撮影) |
大村市内でも、この舞が作られた当時頃から練習を重ね、舞も披露されてきたと思われます。その証拠の古写真が、福重には1枚残っています。右上から1番目写真を参照願います。この写真は、1941(昭和16)年11月に発行された『銃後の郷土』(当時の福重村写真集)に収められているものです。
当時の今富郷(町)にある大神宮のおくんちは、草場郷(町)の松尾神社(まつのおじんじゃ)と隔年開催ながら例年10月ですから、写真集の作成年からして1941(昭和16)年10月に撮影されたものと思われます。つまり、1940年(昭和15)に作られた浦安の舞が、既に1年後には旧・福重村の今富郷(町)の大神宮でも舞の披露がおこなわれていたということです。(このことの詳細は「1941年(福重村写真集)銃後の郷土 大神宮秋季例祭 奉納 浦安の舞」ページからご覧ください)
あと、私の推測ながら福重と同じように当時から、大村市内でも古い歴史や格式のある昊天宮(こうてんぐう)や松原八幡神社を始め、いくつかの神社や儀式(式典)などで披露されたものと考えられます。しかし、写真や記録を調べきれていないので、正確には不明です。
下記の項目からは、主に近年や現在について、(大村市内での)浦安の舞の概要紹介をしたいと考えています。
舞姿の概要
この項目、私の書く文章よりも、ユーチューブサイトで、「浦安の舞」と検索して、沢山の当該動画をご覧頂く方が、詳細かつ正確だと思います。ここからは、あくまでも上野の見た松原八幡神社や、萱瀬の氷川神社で披露された浦安の舞の印象、感想などを主に書いていきたいと思っています。念のため、私は下記の名称や事柄が全国共通か、あるいは浦安の舞を舞う時の正式なことなのかまでは、確かめていません。
<装束、道具類>
・装束( しょうぞく)---下に緋袴( ひばかま)をはき、上に白衣( はくえ、 びゃくえ、 しらぎぬ )、さらにその上に千早(ちはや)を羽織っている。
・道具類--------扇(おうぎ) 、 鈴(すず) など。
<舞う順序>
扇の舞(おうぎのまい) 、 鈴の舞(すずのまい) (時間は全体で約10分間)
<見た感想、印象など>
私は、この舞を大村市内で直接見たのは、(2016年12月現在で)まだ3回しかありません。しかし、静かな社殿内などで、一時でも俗世間を忘れさすような和楽器の音色、厳か(おごそか)で雅(みやび)やかな素晴らしい舞は、強い印象が残りました。
この浦安の舞は、最初、扇を持って舞う扇の舞、次に鈴に変えての鈴の舞でした。はじめの扇の舞は、広がりを感じました。この舞では、両手をいっぱい広げる所作(しょさ)がありますが、この姿は小学生児童とは思えないくらい大きく、表現力があるなあと感じました。
次の鈴の舞は、シーンと静まりかえった本殿に、シャリン、シャリンと響き渡る鈴の音によって、優しさと安らぎを覚えました。
ご参考までに、広辞苑で「うらやす」を引きますと、「心安(うらやす)」という語句もあり、その意味は「心安らかなこと。安泰なこと」と解説されています。一文字違いですが、私は、「浦安」「心安」どちらも国の平安を意味するものと理解しました。その言葉内容からして、浦安の舞も、同じ願いを込めて舞っておられるのではないかと推測しました
大村市内での状況
この項目、大村ケーブルテレビ報道部の皆様から大村市内で披露されている浦安の舞の情報提供も含めて、私が知っている範囲内で書いていきたいと思っています。
どこの場所で披露されているかについては、多くが市内の神社です。その時季は、例えば春・秋の例祭(おくんち)などです。
これは、当然、神様にささげる(奉納する)儀式の一つとして浦安の舞が披露されているということです。また、先の場所とは別に何かの大きな祭りとか、地鎮祭などでも舞が披露されているようです。この時の趣旨も、基本的には先と同じ意味があると思われます。
あと、先の情報提供含めて、これまで舞が披露された(あるいは見た)神社として、昊天宮(宮小路2丁目)、松原八幡神社(松原本町)、大神宮(今富町)、氷川神社(田下町)、鈴田大神宮(大里町)、大村神社(玖島一丁目)、富松神社(三城町)などです。ただし、先の神社以外にも、当然、過去も含めて現在も他にもあろうかと思います。(上野注:この部分は、何か別の情報が分かれば追加掲載も考えています)
あと、舞う人数も様々で、神社では2人、3人または4人が多かったです。地鎮祭などでは、一人という場合もあったようです。なお、舞う人たちは、小学生や中学生が多い状況です。
市内で、浦安の舞が継続されているか、どうかは、その行事主催者の意向、さらに大事なのは、この舞を小・中学生に指導できる方が、その地域にいらっしゃるか、どうかにかかっているように思えます。つまり、その地域に舞うための装束( しょうぞく)などが準備されていて、さらに舞う人がいたとしても、舞の指導者がいらっしゃなければ、この舞自体が披露できないのではなかとも考えられます。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
関係ページ:「1941年(福重村写真集)銃後の郷土 大神宮秋季例祭 奉納 浦安の舞」